私は、創価学会員の両親のもとに生まれ、昭和四十三年に京都の平安寺で御授戒を受けました。
両親は昭和三十年代の入信で、自宅には日寛上人の小さな御形木御本尊が御安置されており、私は、少年部、学生部と、親から言われるまま地域の学会の会合に参加していました。
創価学会は選挙活動に明け暮れている状態で、いつしか私は「政治活動と関係なく、日蓮正宗の信仰だけをできるところはないのだろうか」との思いが起きてきて、それを母に言ったところ、母からは「それは寺信心であり、今は学会員でなければ日蓮正宗の信心とはいえない」と言われてしまいました。
そのような中、平成元年に大学を卒業し、東京のギタリスト養成の音楽学校で学んでギタリストになることを夢みて上京しました。
上京後は、創価学会の組織から離れ、内得信仰の形で勤行だけしていました。
もともと本を読むことが好きでしたので、この間は、学会の古い書籍やいろいろな学会批判本などを読んでいたのですが、それによって、ますます学会から心が離れていきました。
そのような状況が数ヵ月続いた平成二年のある日、たまたま目にした新聞の広告に『なぜ学会員は功徳を失ったか』の文字を見つけ、購入して読んでみました。それは顕正会の出版物で、そこに書かれていた「学会には功徳がない」ということに興味を覚えた私は、顕正会本部に電話して、当時の本部職員であった海老原秀夫氏に会って話を聞き、顕正会に入会してしまったのです。
入会後は、古参の幹部から妙信講(顕正会の前身)時代の古い機関紙『冨士』を全て借りて読み、大切だと思う記事をコピーまでして、さらに両親も顕正会に入会させてしまいました。
ありえない数の”形木本尊”
それから一年後の平成三年に父を亡くし、京都の実家での葬儀には顕正寺(顕正会で勝手に設置した寺。後に消滅)の村松禎道氏(日蓮正宗から脱落した元所化で、顕正会に走り、半僧半俗で活動していたが、やがて姿を消す)が来て、「妙縁寺」「松本日仁」「閻魔法皇」「五道冥官」という文字が入った導師曼荼羅を掛け、通夜・葬儀・火葬を行ないました。
父の他界に伴って京都の実家に戻った私は、京都で顕正会活動をすることにし、当初は大阪府高槻市の事務所に通い、その事務所が閉鎖された後は、京都市四条新町に開設した事務所に通っていました。
高槻事務所には日寛上人の御形木本尊が安置されていて、また、それとは別に、入信勤行用に持ち出しできる本尊として、袱紗(ふくさ)に包まれた日寛上人の御形木本尊が置かれていました。ちなみに、この本尊は、私の実家の御本尊と同じものでした。
しかし、平成七年に開設した京都四条新町の事務所には、日布上人の大幅御形木本尊なるものが安置され、初めて見た私は非常に違和感を覚え、さらに同時に別室に安置された日寛上人の御形木本尊は、真新しい上に、我が家の御本尊より大きなものに変わっていました。
なお、その頃の顕正会では、創価学会からの脱会組は、御本尊は学会時代のものをそのまま所持してもよいが、なるべく返納して遥拝勤行にする、という指導が中心でした。
ところが、それが平成十年頃から変貌しました。
平成十年といえば、当時の御法主であられた第六十七世日顕上人猊下が正本堂解体を宣せられた年です。
それまでずっと、「正本堂建立は御遺命破壊だ」と主張し続けてきた浅井は〝正本堂解体〟の報に飛びつき、それが自分の手柄であるものと勘違いして、なんと「御遺命守護完結奉告式」なるものを行なってしまったのです。
この時、浅井を含めた顕正会の幹部達が、「これで御宗門に凱旋できる」と、おいおい涙を流していた姿は今でも忘れられません。
しかし、待てど暮らせど御宗門からの連絡など来ず、その後、始まったのが、
「古い御本尊を所持している人で、希望者には顕正会が新しい御本尊に交換する。学会からの脱会組で、日達上人や日顕上人の御形木御本尊を所持している家庭は、御遺命違背の法主の御本尊だから、本部に収めて遥拝勤行で信心するか、顕正会が新しい日寛上人の御形木御本尊と交換するので、それを仏壇に安置するように」
という指導でした。
私は、この指導に「何か変だ」と感じ、自宅の御本尊は交換しませんでした。
その後、婦人部の幹部が「これから御本尊を交換しに行く」と言って我が家に立ち寄った時、その〝新しい日寛上人の御形木御本尊〟というのを見せてくれました。
それは、やはり真新しく、また我が家の御本尊より大きく、しかも、鉛筆書きで「日寛」と書かれた市販の薄い茶封筒に入っていました。
さらに顕正会では、「男子部は支隊長以上、女子部なら総班長以上の幹部に、日寛上人の御形木御本尊を下附する」ということと、「今後、事務所からは(入信勤行のための)御本尊の持ち出しを禁止し、そのかわり、日寛上人の御形木御本尊を安置した自宅拠点を増やす」という指導が出されました。
私は、「顕正会にはそんな数の御本尊は無いはずだ」と思いましたので、その疑問を幹部にぶつけたところ、幹部から「浅井センセーを信じられないのか」と激しく怒られました。
どうしても納得できなかった私は、すぐに過去の『顕正新聞』をひっくり返して、自宅拠点や事務所・会館の御入仏を拾い出してみました。
それらの資料から算出してみると、日布上人の大幅御形木は三十二体以上、日寛上人の御形木は、自宅拠点も入れると二百体以上はある計算になり、さらに浅井会長は「自宅拠点は、日蓮正宗の寺院数五百より多くなる」と言っているのです。
つまり、日寛上人の御形木については、今後もっと増えるということで、私は、「そんな数の御形木御本尊を顕正会が所有しているわけは絶対にない」と思いました。
法華講員となって開けた人生
そして、私が顕正会に疑いを懐(いだ)いた極めつけは、「血脈相承」を否定する指導でした。
私は、顕正会機関紙『冨士』等の記事で大切だと思う箇処はコピーして持っていましたので、浅井が前言と違うことを言って平気でいる、ということに対して不信が深まり、悶々(もんもん)とした日々が続きました。
そして平成十一年、疑問を晴らしたいとの思いでインターネットを検索していると、顕正会の元本部職員で脱会して妙観講員となったWさんの『顕正会からの脱出』というサイトを見つけました。
その後、Wさんとメールで数回やり取りし、さらに京都まで来てくださったWさんと駅前で会って話をし、日蓮正宗への帰伏を決意して、理境坊で母と共に勧誡を受けさせていただきました。
晴れて日蓮正宗への復帰が叶ってからは、学会時代に諦めてしまった教職を目指し、夜勤の仕事をしながら三十九歳で大学に通い、教員免許を取得。四十三歳で教員採用試験に合格し、念願だった教員になる、という功徳を頂戴しました。
母は、平成十九年に亡くなりましたが、有り難くも日蓮正宗で葬儀を執行していただき、本当に綺麗(きれい)な相で旅立っていきました。
私は、「本当に御本尊様の功徳はすごい」と、感謝の気持ちでいっぱいになり、御宝前で涙しながら御本尊様に御礼を申し上げました。
現在、新型コロナウイルスという疫病が蔓延(まんえん)していますが、「平時以上の唱題と折伏を」との講中方針のもと、これまでの惰弱な信心を戒めて、さらに仏道修行に励んでまいります。