資料集

顕正会に激震!会長浅井昭衛が急死 到来した、顕正会の”終わりの始まり”

顕正会に拡がる動揺と不信
「この事実を冷静に受け入れよう」

浅井昭衛の突然の死亡
とどめとなった正法誹謗

十月十六日未明、顕正会会長・浅井昭衛が急死した。
自らの宿願を何一つ叶えられぬままの臨終である。
浅井の体調に異変が現われたのは、去る九月二十五日の総幹部会の後だという。

浅井はこの総幹部会に、副教学部長の浅野恭浩を登壇させ、本紙十月十六日号二面でも報じたとおり、まったく論理破綻した、批判にもならない内容であることを承知の上で、改めて〝日顯上人の悪臨終〟なる喧伝をさせて誹謗を繰り返させた。

浅井はそれを「今日の総幹部会も素晴らしいですね。最初から最後まで、一人ひとりの登壇に私は大感動しました」などと賛嘆。
その総幹部会から帰宅した後、体調に異変をきたしたのである。
さらに、その後、浅井の謗法にとどめを刺す出来事が起きた。

十月七日、顕正会教学部長の坪田敏、副教学部長の伊東信昭が、理境坊在勤・小川正豪御尊師との法論対決に臨んだものの、完敗してしまったのである。

すなわち、小川御尊師が
「日達上人・日顯上人の御臨終を誹謗した根拠となる証人・証拠を示せ。また顕正会の大幅形木本尊が真正なものであるとの証明をせよ」と求めたのに対し、坪田は「その場できちんと対応いたします」と約束していたにも拘わらず、その場になって「そんなテーマは合意していない」「自分はテーマについては承認していない」等と逃げ回り、結局、小川御尊師の追及に対して何の証拠も証人も出せずじまいで終わってしまったのである。

これによって、これまで浅井が盛んに喧伝させてきた〝日達上人・日顯上人の悪臨終〟との誹謗は、真正な証人など誰一人としていない、完全なる虚構であったこと。また、顕正会のニセ本尊疑惑についても、何一つ反証が出せないことが、白日の下に晒されたのである。

このことは、すなわち浅井顕正会が、仏法上、許されざる大謗法であったと確定した、ということに他ならない。そして、これが浅井にとどめを刺したのであろう。

浅井の容態は悪化し、顕正会の最重要行事たる十月十三日の「御大会式」を欠席。急遽、浅井の息子の城衛が導師を勤めることに。この異常事態に、会員の間には動揺が拡がった。
しかして十月十六日の未明、浅井昭衛は予期せぬ命終を迎える。

この日の夜になって、顕正会の主な幹部に、浅井城衛から会長の死去が発表され、今後は城衛が昭衛の名代(みょうだい)として指揮を執る、と伝えられた。
だが、詳しい死亡時刻も、死んだ場所が自宅であったか病院であったかも、また死因・病名も、今だに伏せられたまま。何の公式発表もなされていない(発表できない?)状況が続いている(十月二十五日現在)。

全て外れた浅井の予言
三百万の悲願も敢えなく未達

振り返ってみれば、浅井昭衛はこれまで、日蓮正宗が国立戒壇を捨てたから三災七難が起こる、として

「全世界に暗雲たち込め、まさに前代未聞の大闘諍の兆しすら見ゆる」(昭和四十五年五月二十四日・第十四回総会)

「次には飢渇(けかち)が来る、日本の経済は必ず崩壊する」(昭和四十八年十月二十六日・総幹部会)

「大飢饉、早ければ来年から、遅くとも七十年代のうちには世界的な規模で、ことに日本において強く現われる」(昭和四十九年七月二十八日・妙信講野外大集会)

「八十年代こそ恐らくは世界大動乱の時代となる」
(同前)

「八十年代に破局は必ずまいります」(昭和五十五年二月一日・班長会)

「ソ連は極東での米国への緩衝(かんしょう)地帯として、朝鮮半島と日本列島を狙い、なかんずく日本の北海道を当面の目標においている」(昭和五十五年五月二十六日・第二十二回総会)

「仏法の目を開けて見る時、今や日本は破局の入口に立っております。戦後三十七年続いた安逸(あんいつ)の時代は終わり、いよいよ破滅の時代が始まろうとしている」(昭和五十七年十月九日・第二十三回総会)

「もし今後二十五年に広宣流布が実現しなければ、核戦争により日本も世界も必ず滅亡する」(昭和五十七年十月十五日・臨時班長会)

「日本にとって重大な脅威は、中国の軍拡である。中国は『二十年後の主要敵は日本』と決め、それに基づいて核戦力の強化を進めている」(平成六年十一月十三日・広島大会)

「小田原地震、おそらく今年、これはもう間違いないでしょう。(中略)私はそれを知るゆえに、昨年十二月から心を休めたことがない」(平成十年一月五日・新年幹部会)

「犯罪国家・北朝鮮が、核兵器・生物兵器・化学兵器を持ち、日本を狙っている」(平成十六年二月二十五日・総幹部会)

等と声高に警告(?)してきたが、その予言はついに、浅井の存命中には何一つ実現しなかった。

また、
「もし三百万の地涌の流類一結して『早く日蓮大聖人に帰依せよ、さもなければ国が滅ぶ』と声を大に叫ぶならば、一億二千万人は必ず動く。(中略)私は、この三百万を、何としても十年以内に成し遂げ、重大な御奉公に備えたい」(平成十六年八月二十二日・幹部大会)

「(顕正会は)いま三百万をめざし、日本国を独走している。
日蓮大聖人に南無し奉るこの地涌の菩薩の大集団が三百万になるとき、全日本人は一人残らず、大聖人様の重き重き御存在を知り、必ず動執生疑を起こす」(平成三十一年二月二十五日・総幹部会)

「三百万が一結して、亡国寸前の日本国を諫暁するとき、日本は必ず動く」(令和二年十一月二十六日・総幹部会)

「三百万こそ広宣流布の重大関門である」(『顕正新聞』令和三年「年頭の辞」)

と言って、三百万を至上命題としていたが、その本懐も達成できぬまま命終してしまった。これらは、浅井が正真正銘、ただの凡夫であり、それも正法に背(そむ)く大謗法者であるが故の、哀れな結末である、といえよう。

浅井昭衛の臨終の相!
顕正会はやがて崩壊する

されば、いかに身内の城衛が「立派な成仏の相であった」などと叫ぼうとも、謗法者の成仏はもとよりありえない。

また、教学部長の坪田らが「身内の証言は、信じるに足らない」と嘯いてきたことからすれば、浅井の息子である城衛の発言などは、まさに典型的な「身内の証言」であり、「信じるに足らない」ものであると、肝に銘じるべきである。

さらに、限られた幹部ですら、チラ見でしか最後の別れをさせてもらえなかったことが、何を意味するのか、よく考えるべきであろう。

持って回った言い方はここまでにし、以下に、本紙が掴んでいる冷厳な事実を述べる。
浅井昭衛の遺体は、半眼半口どころか、目も口もしっかりと閉じており、その顔には粉っぽい白い死化粧が施(ほどこ)されていた。そして、きつく横一文字に結ばれ、紫色に変色したクチビルには、赤い口紅が塗られたものの、その下の地色が浮かび出て、ドギツイ赤紫色となっていた。しかも、クチビルの処々に黒ずんだ箇所も見えた―。

これは、遠目には、それほど悪い相に見えないように処理が施されていたものの、至近距離で観察すれば明らかにわかる悪臨終の相である(以上には、もちろん証人も証拠もある)。

日蓮大聖人は
「悲しいかな、師匠は悪道に堕ちて多くの苦しのびがたければ、弟子はとゞまりゐて師の臨終をさんだん(讃歎)し、地獄の苦を増長せしむる」
(御書一四八二頁)
と仰せであれば、この上、〝無二の師匠〟の「地獄の苦を増長せしむる」ような愚は絶対に犯すべきではない、と言っておく。

なお、今後の顕正会の行く末だが、浅井に有能な後継者がいなかったことは、誰もが認めるところであり、かつまた、顕正会は集団指導体勢なども取らない、カリスマ浅井昭衛の超ワンマン組織であった。

それ故に、浅井が斃(たお)れれば間違いなく崩壊に向かう、というのが、かねてからの衆目の一致するところであった。

それでも浅井は、自身の存命中に三百万を果たし、顕正会による広布(?)を成し遂げてしまえば、それで全てが完結する、と考えて、力任(まか)せに走ってきたのであろう。
だが、ただの凡夫であった浅井は、志半ばにして、あえなく斃れた。
これが、顕正会の終わりの始まり、であることは間違いない。

(『慧妙』令和5年11月1日号より転載)