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※追記あり 理性の残る顕正会員は必見!「浅井昭衛 遁走の歴史」 動画

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動画『顕正会・浅井 昭衛遁走の歴史その全経過』

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ナレーションより

近年顕正会は、妙観講に対し「大草講頭が、浅井会長との法論から逃げている」などといってくる。だが、法論から遁走し、逃げ回ってきたのは顕正会々長・浅井昭衛の側である。こう言うと顕正会からは「そんな話は信じない!」「証拠を出せ!」という声があがる。そこで、浅井が大草講頭との対決を避け続けてきた30年の経緯を、ここで明らかにしておこう。

①昭和63年9月16日 妙観講攻撃を仕掛ける

昭和63年9月16日、夜。浅井昭衛の長男で、顕正会の全権委任者と称する浅井克衛ら、10数名の顕正会男子部が突然、小金井の旧妙観講本部に乗り込んできた。これは当時、妙観講の折伏によって顕正会幹部が脱会しはじめたことから、ここで妙観講を叩いておこう、という思惑での行動であった。

●浅井克衛: 間違いだったら腹キレるんか!部屋がおまえの血で濡れるぞ、薄汚れた血で。エイズの血よりキタねえ笑、おい!包丁1本もってきなよ。こっちは真剣勝負しているんだぞ。

浅井克衛は、法論と称して日蓮正宗宗門に対する誹謗をまくしたて、あろうことか、第66世日達上人の御事を「バケツ三杯の血を吐いて地獄におちた」などと口汚く誹謗したのである。

●浅井克衛: 血吐くくらいじゃ済まないぞ、バケツ三杯の細井管長と同じになるぞ。細井管長はな!バケツ三杯の血を吐いて死んでったンだよ。
●浅井克衛: 妙観講もそのうち、命止まるけどな、…血をどんどん吐くだろう、細井管長のようになるぞ!
●浅井克衛: 近いうちに長野にいくから大草講頭に言っておけ…

②昭和63年9月25日 浅井昭衛宛 内容証明送付

この様子を記録ビデオでみた大草講頭は、日達上人はじめ 御歴代上人への誹謗に憤り、さっそく浅井克衛の発言を木端微塵にふんさいする文書を書きあげ、9月25日、これを内容証明郵便で浅井昭衛に送付し、厳しく回答を要求した。だが、浅井はこれに回答することができず、無視黙殺を決め込んでしまった。

③昭和63年9月25日 浅井昭衛が『顕正新聞』一面に妙観講誹謗記事を執筆

一方、これと前後して、浅井昭衛は自らペンをとり、『顕正新聞』9月25日号一面に、「宗内の痴犬、妙観講の実態」と題する妙観講誹謗の記事を書き、日蓮正宗の総本山をはじめ、全国末寺に送りつけてきた。この顕正新聞を見た指導教師・小川御住職は大草講頭に、「顕正会がここまで大々的に誹謗してきた以上、もはや中途半端な対応ですませるべきではない、徹底的に破折した方がよい」と指示。こうして妙観講は、顕正会との全面対決に入ったのであった。

まず、その手始めとして、何もしらない一般の顕正会会員に向けて、9月25日付けで浅井に送った内容証明文書が隠ぺいされぬよう、10月2日、顕正会本部のある板橋区ときわ台におもむき、この文書のコピー配布を断行した。だがここで配布を妨害せんとする浅井克衛らが会館内から飛び出し、逆上して、妙観講員に集団で暴行を加えてきたのである。昔からの顕正会の暴力体質の表れであった。

④昭和63年10月30日「摧破異流義考」を顕正会本部へ送付

続いて、大草講頭は、浅井昭衛の邪義の戒壇に関するすべてを粉砕した理論書「摧破異流義考・日蓮正宗を詐称せる浅井昭衛一派の妄説を摧く」を十日余りで執筆。10月30日付けで浅井昭衛宛てに送達。先の9月25日付け内容証明と併せ、浅井昭衛からの回答を求めた。

⑤昭和63年11月21日 回答期限を定めた最終通告書を送付

大草講頭は浅井昭衛からの回答を待った。だが、浅井は直ちに反論することができず、沈黙してしまったため、重ねて最終通告書を浅井昭衛宛てに内容証明郵便で送付した。その文中において「9月25日付け書面に対する回答と併せ摧破異流義考に対する反論を要求する」「期限は十二月十三日」「もし期限までに右回答なき場合は、君が全面的に誤りを認め、敗走したものと認定するゆえ、あらかじめ了承せよ。」と念告した。

これに対する浅井親子の対応たるや、見るも無残なものであった。そもそもは自分達から仕掛けてきた法義論争であったにもかかわらず、会員に向けて、「妙観講ごときの相手をする必要はない」などといって、反論できないことについての根回しをはじめたのである。

かくて迎えた12月13日。浅井はついにひとことの反論もできないまま、逃避を決め込んでしまった。浅井の敗走が確定したことを受けて、妙観講では、12月22、23日の両日にわたり浅井敗走の事実を一般紙に掲載。首都圏全域に広告したのである。

⑥平成元年1月 顕正会員の大量脱会

ことここに及んで、ついに顕正会の内部崩壊がはじまった。顕正会の男子部・女子部が一度に200名以上脱会して、妙観講に帰伏する、という事態が起こったのを始め、各地で脱会者が続出し始めたのである。これまで目立った反逆や大量脱会者を出したことがなかった顕正会にはじめて風穴が空いた瞬間であった。

浅井は期限を過ぎた翌・平成元年1月20日付け『顕正新聞』に、ようやく反論らしき文を発表した。だが、大草講頭はこれを『続・摧破異流義考』で粉砕。以後、浅井は完全に反論を放棄してしまう。

⑦平成元年1月29日 大阪府高槻市で暴力事件

大量脱会者が出たことに衝撃をうけた顕正会は、このまま逃げつづけていけば、さらに脱会者が増えるばかりと思ったのであろう、いきなり法論の通告をしてきた。妙観講では顕正会が名誉挽回のために申し入れた対論としてならば受けてたとう、とこれを受託。

かくて、平成元年1月29日に大阪府高槻市市民会館で対論が行なわれることになったのだが、やってきた浅井克衛らは、自分達より先に妙観講が到着して待っていたことが気に入らないと激昂。会場入り口からいきなり妙観講講員にとびかかり、またしても集団暴行事件を引き起こすという醜態を演じたのである。

まさに法義上で歯が立たず、追い詰められた形となった顕正会の断末魔のような悪あがきであった。

⑧平成元年1月29日 大草講頭から浅井昭衛へ電話 法論を要求

高槻市において、顕正会から集団暴行を受け女子講員を含む10名が負傷したとの報告を受け、憤った大草講頭は、その場から直接浅井昭衛に電話をかけた。そして顕正会が高槻での対論に敗走したことを通告するとともに、浅井昭衛本人との一対一の法論を厳しく要求したが、うろたえた浅井昭衛は、子供のケンカのように口汚くののしり言葉を繰り返した。

⑨平成元年2月5日 妙観講本部襲撃事件

浅井昭衛が、「男子部を送ってやる、息の根を止めてやる」と予告したとおり、1週間後の2月5日、街宣車を押し立てた顕正会男子部約60名が、妙観講本部に乱入。警備にあたった妙観講員に暴力をふるって怪我人が続出。パトカーも出動する騒ぎとなって、1名が傷害の現行犯で逮捕され、浅井克衛ら3名が事情聴取されるという結末となったのである。
なお、妙観講本部を襲撃した60名のうち数名は、のちに顕正会への疑いを深めついに脱会して妙観講の講員となっている。

大草講頭からの度重なる破折によって、邪義の根元まで断ち切られたばかりか、実力行使も通じなかったことから、浅井昭衛は、以降、完全に妙観講との対決を放棄、「妙観講と接触するだけで与同罪となる」などといって、一方的に大草講頭との法論の幕引きを図り、完全に遁走してしまった。

⑩平成16年11月 顕正会男子部より「先生と講頭で法論を」との申し入れ

爾来15年、浅井が大草講頭と対峙することはなかったが、この長い年月が、浅井にかつての苦い経験の記憶を薄れさせたか、平成16年秋ごろより、浅井は積年のうらみを顕わにして、爆発させ、会合などの場で、小川只道御尊師や大草講頭を再び中傷すると共に「これらの悪人を追放しよう」と会員に訴えた。

そして平成16年11月17日、浅井の激に奮起した男子部支隊長の宮下某が、長野県の大草講頭の実家を訪れ、「大草講頭と浅井先生でぜひ法論をしていただきたい」と申し入れてきたのである。

もちろん大草講頭に異存のあろうはずがない。これをただちに応諾した大草講頭は、法論の条件として「敗者が勝者の弟子になる」との一箇条を提示した。妙観講では、「今度こそ浅井が逃げないように」と、各地の顕正会の会館前で、この経緯を記したチラシを配布。すると顕正会の随所で「この一対一の法論に期待する」「先生に法論実現を上申する」との声があがりはじめた。その上、元顕正会員が、浅井昭衛の自宅にもこのチラシを投函したため、さしもの浅井も無視黙殺するのが難しくなっていったのである。

⑪平成17年3月 法論回避のための「対決申し入れ書」

過去の経緯からして、もはや法義上では全く太刀打ちできなくなっている浅井は、これを回避する必要に迫られた挙句、なんと日顕上人猊下に無理難題の条件のついた法論を要求し、「対決申し入れ書」なるものを送り付けたのである。

浅井は、「大御本尊の御開扉中止」との条件をつけてきたが、およそ宗旨の根幹にして仏法の極地たる大御本尊を法論の条件に利用するなど、宗門としてのめようはずがない。ゆえに日顕上人が浅井の対決申し入れなど相手にしないことは計算済みであった。

さらに、浅井は狡猾にも、「もし日顕上人が不都合の場合は、同等の責務を負うことを条件に僧侶信徒を問わず代人を立てることを認める」などと付け加えてきたのである。もとより宗門として呑めない条件の法論に、在家の信徒が、それも畏れ多くも猊下の代人として出ることなど絶対にありえない。されば、この法論は実現することはありえない。それを見越した顕正会員向けの狡猾なパフォーマンスとして浅井は対決を申し入れたのであった。

この浅井の魂胆を見抜いた宗門では、青年僧侶邪義破折班が「一丈の堀を越えられぬ者は十丈二十丈の堀を越えられない」との道理に基づき「まず浅井は逃げずに大草講頭と法論せよ」と切って捨てる文書を浅井昭衛に送付した。だが、浅井はこれを無視して「日顕上人が法論から逃げた」「大草講頭も逃げた」という筋書きを会員たちに宣伝し、大草講頭との一対一の法論からまんまと逃避してしまったのだ。

⑫平成31年4月 大草講頭、浅井昭衛に公開法論を促す

この経過をみていけば、常に法論から逃げ回ってきたのは浅井昭衛であることが明白となる。

だがこの経過を知らない会員達は、近年になって「大草講頭がなぜ対決申し入れから逃げたのか説明しろ」等々と真顔で言ってくるという。そこで大草講頭は、もはや浅井宛ての内容証明も、直接の電話も、何の役にも立たないことを知る故に、『慧妙』平成31年4月1日号誌上で、浅井に公開法論の実現を促す文を発表した。

ところがまたも浅井は法論に立つことなく、顕正新聞紙上で大草講頭を悪し様にののしるばかりである。このていたらくは、まるで、自らの信者には偉そうなことを言い、正々堂々たる法論からは逃げ続けた、かの極楽寺良寛を彷彿とさせるではないか。

その上、7月5日は、あろうことか御法主日如上人猊下に、大草講頭を宗門から追放してほしい、と伏して懇願するスピーチまで行なった。およそ45年前に宗門から信徒除名処分を受けて追放された謗法者の浅井昭衛が、信徒のような顔をして、現職大講頭である大草講頭の追放を、猊下に懇願するとは、いったい、どういう神経をしているのか。

浅井昭衛にだまされている顕正会員諸氏が、一日も早く目を覚ますことを願うばかりである。

(動画ナレーション終わり)

追記 大草講頭より浅井昭衛宛の最終通告

さらに令和元年十二月、大草講頭から浅井昭衛宛に以下の公開法論要求文書を送り付けたが、浅井は回答不能となり無視黙殺に及んだ。
これによって、浅井昭衛の大草講頭との法論からの完全逃亡が決定となった。

公開法論要求文書

前略
去る今月一日、顕正会本部付近にて、顕正会男子部と妙観講講員とで話し合った際、貴殿と小生との法論の話題となり、顕正会男子部副長・マツサカ某(マツサカ某の携帯電話番号)から、次のような条件で法論をしてほしい、との話が出ました(録音及び一部ビデオあり)。

①小生が内容証明郵便にて法論を求めれば、顕正会側はこれに誠実に対応し、貴殿もしくは貴殿から全権委任された代理人が、必ず一対一の法論に出る

②法論の条件は、敗者が勝者の弟子になる、との一ヶ条のみであり、かつてのような、日蓮正宗を代表して法論に出るなどの無理難題は付けない

これは、小生が前々から主張していた条件でありますので、ようやく貴殿が、この条件の下で法論に応ずる決意に立ってくれたのであれば、喜びに堪えません。
小生として異論はありませんので、早々に貴殿と小生との一対一の法論を実現させましょう。

法論のテーマは、
①貴殿が長年に亘って主張してきた「国立戒壇論」の当否、
②同じく「天母山築壇説」の当否、
③最も重要な問題として顕正会の偽本尊疑惑、

以上三点で異論はなかろうと思いますが、いかがですか。
法論の日時は、来月の十三日もしくは十九日の午後二時から六時まで、場所は双方三百人以上の入れる都内の施設を借りるものとする、ということでどうでしょうか。

諾否は本書面到達後、一週間くらいを目処に、責任のない部下を使わず貴殿自身の名をもって内容証明郵便で返信ください。
また難癖を付けて、法論回避を図られることのなきよう、祈っております。以上

令和一年十二月吉日
妙観講講頭 大草一男
顕正会会長 浅井昭衛殿