浅井昭衛の危険【ポア】思想

危険!浅井昭衛は、最終的に反対者をポアする思想を持っている!

顕正会員は「広宣流布 (彼らの定義では、顕正会員が日本国中に広まるとの意味) の時には、全国民が一人残らず顕正会に入信する」と主張している。

これまでも顕正会員との論争の場において、「我々は、絶対に顕正会に入信することなどあり得ない。ならば、日本国民全員が顕正会に入るなどという、あなた方の定義する広宣流布は未来永劫あり得ない」と指摘すると、「最終的に、顕正会に入らない人間は、日蓮大聖人の裁きによって滅びるから、一人残らず顕正会員になるのだ」と、狂信者丸出しの言葉を発する会員が多い。

彼らが抽象的に言う「日蓮大聖人の裁き」について、会長の浅井昭衛はさらに具体的な危険思想を持っており、かつてその内容を文字にしていた。最近入会した会員は知らないかもしれぬが、それは、かのオウム真理教の麻原彰晃が抱いていたポア思想(救済の名の元に反対者を殺害すること)にも通じる危険思想なのだ。

『慧妙』六月一日号において、久成坊住職・関快道御尊師に対する顕正会法務部次長・菅原克仁君の批判を粉砕する記事が掲載されているが、その後半部分に、この浅井昭衛の恐ろしい危険思想について触れられている。
以下、『慧妙』より内容を抜粋する。

「日本一同に」は “一人残らず” か!?
大聖人は “多数” の意味で使用

菅原は、
〈大聖人様は順縁広布の時が到来することを
「剰(あまつさ)へ広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は、大地を的とするなるべし」(諸法実相抄)
「ただをかせ給へ。梵天・帝釈等の御計らひとして、日本国一時に信ずる事あるべし」(上野抄)
と御断言下されている。

また、第二十六世・日寛上人も順縁広布について、撰時抄文段に
「終(つい)には上一人より下万民に至るまで、一同に他事を拾てて皆南無妙法蓮華経と唱うべし。順縁広布、何ぞ須(すべから)く之を疑うべけんや。時を待つべきのみ」
と仰せられている。
しかるに、関は信心なきゆえに大聖人様の御金言を信じ奉ることができず、目寛上人の御指南にも背(そむ)いて、「全国民が入信する」のは「理の上の法相」でしかなく、「入信しない者は処罰あるいは処刑」といった強権を発動する以外、「謗法者が一人もいない世界」は実現しないなどと馬鹿げたことを述べ、王仏冥合の事相を「恐ろしい世界」と誹謗する〉
との愚難を述べている。

これは浅井昭衛からの受け売りであり、要するに、日蓮大聖人の御金言や御歴代上人の仰せに
「日本一同に」
「上一人より下万民に至るまで」
等とあることを根拠に〝全国民が一人残らず入信した時が広宣流布だ〟と主張するものである。
ならば菅原は、次の御金言をどう読むか。
「日本国中の上下万人深く法然上人を信じ」(『災難対治抄』御書一九六頁)
「上一人より下万民まで延暦寺を師範と仰がせ給ふ」(『撰時抄』御書八四五頁)
「日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり。此の五十年が間、一天四海一人もなく法然が弟子となる」(『撰時抄』御書八五三頁)
これらの御金言は、「一人残らず」ではなく、「大多数」の意味で用いられている、と理解するのが道理に適った解釈だと考えるが、どうか。

菅原が、それでも自身が引用した御金言や御指南の
「日本一同に」
「上一人より下万民に至るまで」
との仰せが絶対に「一人残らず」の意だと主張するなら、ここに挙げた三編の御金言は、当時の日本が、ある時は一人残らず念仏の信者となり、またある時は一人残らず天台宗の信者になっていた、という意味になるが、それでよいのか。
もはや菅原が、一文一句に拘泥(こうでい)して御金言を読み誤っていることは、誰の目にも明らかであろう。

浅井は権力者による断命を肯定
弁護士の菅原はこの暴論を許すのか

さて、この菅原の解釈に関係することだが、浅井昭衛は『立正安国論謹講』なる悪書の中で、
「殺生はなによりの悪事であるが、殺された相手のいかんにより、殺した罪の軽重に差が生ずる。さらに一歩を進めれば、一国社会の安全を害するような極悪人に対しては、これを援助する者は大罪を作り、害する者はかえって社会に対し善行をしたことになる。この理(ことわり)により、今日の社会においても、極悪人に対しては国家は死刑を行っているのである。

いわんや正法を破壊する謗法の行為は、現世には国を亡ぼし未来には万民を永く地獄に堕とさせるゆえ、その罪の大なること深きこと、世間の極悪人に勝ること百千万億倍である。これがわかれば、国主たる者は自らの責務として、これら謗法の者の命根を断じても、その極悪を止めなければならない」
と書いている。

とはいえ浅井も、これはさすがに書きすぎたと思ったか、〝こうした行為は国主・国家権力がなすべきことで、個人は絶対にしてはならない。また、これは釈迦以前の話で、現在では施を断つことによって断命に代える〟などと言い繕(つくろ)っているが、その舌の根も乾かぬうちに、〝大聖人も「念仏者・禅僧等が寺塔をば焼きはらいて、彼らが頸(くび)をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」と仰せられた。謗法が極悪になり、その罪禍により国まさに亡びんとするに至れば、謗法対治もまた徹底せねば国は持たない〟と主張している。

されば、関御尊師が
「謗法者が一人もいない世界を必ず実現するとなると、独裁者が真理の裁定権を握り、強権を発動する国家以外、考えられません。それは、入信しない者は処罰あるいは処刑される、恐ろしい世界です」
と危惧(きぐ)されるのも当然ではないか。

菅原は弁護士だそうだが、弁護士たる者が、〝謗法者を根絶するためには断命も止むなし〟とする浅井昭衛の主張を黙認し、擁護(ようご)してよいのか。頭を冷やして考えてみよ。
菅原が分も弁(わきま)えず、関御尊師に対して述べた「己の蒙昧(もうまい)を深く恥じよ」との暴言は、自分に向けるべき戒めの言葉であろう。
(以上、『慧妙』令和二年六月一日号より抜粋)