資料集

顕正会の自語相違について

顕正会の自語相違について

今、浅井昭衛率いる異流義団体「顕正会」の会員が浅井の号令のもと、全国の寺院に繰り出しては、臆面も無く、浅井邪義を声高に主張しているという。

これに対し、宗門僧俗より文証をもって破折されても一切聞き入れず「御遺命破壊」「国立戒壇」をひたすらに連呼するのみで、まともな法論にもならない。

浅井という人物は、今と昔で言うことがまるで違う「自語相違」のオンパレードである。
浅井の虚言癖・変節漢は、仏罰による悩乱の現証なのか、朝令暮改(※朝出した命令を夕方にはもう変えること。法令が絶えず変わって一定しないこと)の指導に翻弄される会員が哀れこの上ない。

当講では、ころころと変わる浅井の発言を取り上げ、いかに無節操な人間であるか、また顕正会の教義が一貫性のない邪義であることを証明していきたい。

一、顕正会の血脈観「血脈断絶」について

以前、浅井は、創価学会や自称正信会の謗徒のような「血脈否定」「血脈断絶」等の誹謗は行っていなかった。しかし、平成11年4月12日の「本部指導会」において、

「細井管長は昭和54年7月22日、入院していたフジヤマ病院で、臨終思うようにならず急死を遂げた。貫首の立場にある人が、誰もそばにいないとき、一人で急死してしまった。よって御相承をすることができなかったのであります。まさしく御遺命に背いたゆえに、細井管長は御相承を『授ける』ことができず、阿部管長また御遺命違背の科によって『受ける』ことができなかった。『授』なく『受』なしであります」(『顕正新聞』平成11年4月25日号)

と突如、日達上人から日顕上人への血脈相承を否定するに至ったのである。
特に平成11年以後に入会した会員は、それ以前の浅井昭衛がどのような指導をしていたのか、知らされていない。以下、かつて浅井昭衛が「血脈」に関して述べた発言を挙げ、浅井の自語相違を確認しておきたい。

「大聖人はどなたに御法を付嘱遊ばされたか、これが分からないと仏法はメチャメチャになって了う。一人勝手な信心になって了う。自分で勝手に大聖人を崇拝して拝んでも本当の信心は出来っこないのです。功徳はありません。
何故かと言えば大聖人の御法は受けた方以外にはその極意がわからないからです(中略)この唯授一人の御相承以外に仏法を清純に後世に伝えて行く活手段はありません。
だからわれわれは唯付嘱を受けられた御法主上人に随順し信心して行けばよいのです」(『冨士』昭和三十七年二月号二十四)

「かくて日道上人・日行上人・日時上人・日阿上人・日影上人・日有上人と、「本門戒壇の大御本尊」を付嘱の法体として代を重ねること六十七、清浄の法水はいささかも断絶することなく今日に至っている。これが正系門下・富士大石寺の伝統である」(『冨士』昭和六十一年十一月号・叱呵痴犬抄二頁)

「やがて御遺命守護完結のその日には、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、時の御法主上人より、晴れて御本尊の授与を賜わる資格を得るのである」(『日蓮大聖人の仏法』初版66)

「日蓮正宗が正しい理由は三つある。一には戒壇の大御本尊がましますこと、二には血脈相承、三には国立戒壇の御遺命を使命としていること、である」(同書一五六頁)

「末法の御本仏・日蓮大聖人の仏法を正しく伝承している正系門家は、日蓮正宗以外には絶対にありません。そのゆえんは、日蓮正宗には『本門戒壇の大御本尊』と『血脈』と『国立戒壇建立の御遺命』が存するからであります」(『顕正会の歴史と使命』11頁)

「『血脈』とは、この戒壇の大御本尊の付嘱相承の法脈です。
日蓮大聖人はこの本門戒壇の大御本尊を、弘安五年九月に日興上人に付嘱あそばされ、『本門弘通の大導師』に任ぜられた。以来、日興上人は日目上人に、そして日道上人、日行上人、日時上人、日阿上人、日影上人、日有上人等と、一器の水を一器に移すごとく、『唯授一人』といって一人から一人へとこの大御本尊は大石寺の歴代上人に付嘱相承されてきた。この法脈を『血脈』というのであります」(同書一二頁)

「阿部管長憎しのあまり、そして池田大作を偉く見せるために、ついに下種仏法の命脈たる金口の相承までも学会は完全否定してしまったのであります(中略)これを仏法破壊といわずして、何を仏法破壊というのか。これを大謗法といわずして、何がいったい大謗法でありましょうか」(『顕正新聞』平成四年六月五日号)

「戒壇の大御本尊は一日として付嘱の人の空白ということがない。またこの付嘱に付随して『金口の血脈』もなくなることはない(中略)何代、代を重ねようとも、また面授の儀式があろうとなかろうと、断絶もせず、色も替わらず、伝えるように出来ているんだ。これが御本仏の御仏智なのです。だから御相承の儀式のあるなしは、本質的には全く問題ない。断絶などはあり得ないのです」(『顕正新聞』平成五年一月五日号)

「ここで、正信会が問題にした阿部管長の相承疑義について触れておく。(中略)非常事態が万一あったとしても、血脈が断絶するようなことは断じてあり得ない。御本仏の下種仏法は金剛不壊である。法体たる戒壇の大御本尊は厳然としてましまし、金口の相承また厳然である」(『学会・宗門抗争の根本原因』二二五頁)

「非常事態が万一あったとしても、血脈が断絶するようなことは断じてあり得ない。
御本仏の下種仏法は金剛不壊である。法体たる戒壇の大御本尊は厳然としてましまし、金口の相承また厳然である(中略)どうして途中で中断するような方法をお用いあそばすであろうか。甚深の御仏智に深く信を取らなければならぬ。いかなる事態があろうとも、本宗の血脈はまた不断である。
ちなみに現在、正信会に席を置いているか否かは知らぬが、久保川法章の戒壇の大御本尊と血脈についての所論のごときは、いまだ初学の慢心者が、学会憎しのあまりに血迷って吐いた大謗法の邪説に過ぎない」(『学会・宗門抗争の根本原因』)

浅井の邪義は正に「いまだ初学の慢心者が、宗門憎しのあまりに血迷って吐いた大謗法の邪説に過ぎない」のである。

かつては、「御遺命守護」として、本門戒壇の大御本尊が正本堂から御遷座されることを掲げ、これが完結した日には、「晴れて御法主上人より御奉公が認められる」と会員たちに吹聴してきた内情があった。

しかし、もちろん御法主上人からそのようなお褒めもお認めもあるはずがなく、自身の存在意義すら失われる危機を感じた浅井は、顕正会存続のために邪智を廻らし、行き着いた先が、自らが声を大にして大謗法と糾弾してきたはずの「日顕上人への血脈相承の否定」である。これらの過去の発言と現在の真逆の主張、浅井は、この矛盾をしっかりと説明する責任がある。

二、戒壇建立地について 天母山戒壇説

顕正会では御遺命の戒壇が建立される場所を「天生原(天母山)」であると主張する。

「すなわち大坊棟札に『国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり』と。」(『日蓮大聖人の仏法 改訂版』一三二)

「天母山と天生原とどう違うのか。天生原の中心にある小高い丘を天母山というのである」同二三〇)

「では細井管長はどのように『天生原』(この中心地が『天母山』)を否定したのかといえば」(『正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む』一六七)

浅井は解散処分以前、御遺命の戒壇を建立すべき場所について、

「下条より約半里ほど離れた北方に大石ヶ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。

かくて、日興上人は弘安二年の戒壇の大御本尊をここに厳護されると共に、広宣流布の根本道場として地名に因んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号せられたのである。これが日蓮正宗富士大石寺の始りである」(『富士』昭和三十九年九月号二十三)

とあるように、本宗古来の教義信条に則り、総本山大石寺こそ御遺命の戒壇建立地であることを明言している。

第二十六世日寛上人
「本門戒壇の本尊所住の処、豈戒壇建立の霊地に非ずや」
(『六巻抄 顕正会版』六十四)

「本門の本尊所住の処に応に本門の戒壇を起つべし、」(『六巻抄 顕正会版』六十九)
と御指南されているように、本門戒壇の大御本尊のまします所が大石寺であるのは、言うまでもない。

第三十一世日因上人
「広宣流布の日は、当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号すべし。」
(研究教学書十六―七十一)

第五十九世日亨上人(御筆記)
「棟 札  正応四年巳丑三月十二日
この小本尊を模刻(薄肉彫)して薄き松板に裏に御家流のほぼ豊かなる風にて薬研彫にせるも文句は全く棟札の例にあらず、又表面も略の本尊式なるのみにて又棟札の意味なし。ただ頭を<に切りて縁をつけたることのみ棟札らし。石田博士も予と同意見なり。徳川時代のもの」

「天生原」の地名の初出である「大坊棟札」の裏書が、日興上人の御筆などではなく、後世の偽作であることが、日亨上人・日達上人の御指南により、すでに明らかになっている。
この「天生原」「天母山」は、大聖人の御入滅から約二百年後、要法寺系の帰伏僧であった左京日教の『類聚翰集私』に、

「天母原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」(『富士宗学要集』二─三二三)

と記しており、ここに初めて「天母原」の名称が確認される。
これについて、日亨上人は、

「この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれ(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに空談にもせよ、天母原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎が建設せらるべきや」(『富士日興上人詳伝』二六八)

と一蹴されている。
浅井が「天生原・天母山」固執する根底には、「総本山大石寺が戒壇建立ではない」と定義し、会員が宗門に靡くことないようにするための念押しのつもりであろう。
なお、昨今の浅井発言には、「天母山」に関する記述がみられず、富士山下の広大な「すその」を意味する「天生原」を多用し、「天母山」の記述は見られない。
これまでの宗門側の破折によって、今後は天母山説を主張しない方針へと転換を謀った可能性も想定される。

三、顕正会の勤行について 「遙拝勤行」を破す

顕正会で行われている遥拝勤行とは、

「信心の修行はまず朝晩の遥拝勤行から始まります。遥拝勤行とは、富士大石寺にまします戒壇の大御本尊を、はるか遠くから、眼前にまします思いを以て拝みまいらせることであります。
この遥拝勤行を、誇りと確信を以て実践してほしい。すなわち御在世の信行を今に移すという誇り、功徳において全く同じという確信に立って実践することが大切であります」(『冨士』昭和五十九年十一月号)

また、

「遥拝勤行とは、冨士大石寺にまします本門戒壇の大後本尊を、わが家より遥かに拝みまいらせる勤行であり、その功徳は御本尊の御前で行う勤行と全く同じである。

遥拝勤行において大切なことは、我が家と戒壇の大御本尊といかに距離があろうとも、眼前に大御本尊まします、直接拝みまいらせる、との思いに立つことである。
信心に距離は関係ない。もし信心がなければ眼前に御本尊ましますとも通ずることはなく、もし信心があれば、千万里を隔てるとも直ちに御本尊に通じて大功徳を生ずるのである。

ゆえに大聖人は、身延より千里を隔てた佐渡に住する千日尼に対し、「譬えば、大月は四万由旬なれども大地の池には須史に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須良に聞こゆ。御身は佐渡の国にをはせども、心は此の国に来れり。乃至、御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」(千日尼御前御返事)と仰せ下されている。「心こそ大切に候へ」と。まさに日蓮大聖人を恋慕渇仰し奉る信心こそ大切なのである」(基礎教学書一一三)

と記される如くである。さらに、

「遥拝勤行こそ、末法三毒強盛の凡夫を、直接、戒壇の大御本尊に繋ぎまいらせる秘術であり、広布最終段階の信行の姿なのです」(『顕正新聞』・平成30年11月5日号)

と発言している。
本来、本宗における「遥拝」とは、代々の御法主上人が丑寅勤行の終了後、総本山客殿の西側に設置される遥拝所より、本門戒壇の大御本尊を拝する化儀のことを指す。
この定義を根本とし、広義として日蓮正宗の御授戒を受けて帰依した僧俗が大石寺に向かって勤行をすることをも意味する。

つまり入信したものの、御本尊を自宅に安置できる環境が整うまでの期間、あくまでも暫定的に大石寺に向かって朝夕の勤行を行うことも「遙拝」と呼称される。
近年入会した顕正会員は、かつて顕正会でも本宗の化儀に従い、五座三座の勤行を行っていた過去をほとんど知らない。浅井は、

「勤行の上げ方は化儀に属する。化儀は時代によって多少変って来る事もある。 現今の五座の勤行も方便・寿量の両品を読誦して、お題目を上げるという基本は御在世から変わらなくても」(『冨士』昭和三十九年七月号)

「日蓮正宗七百年の伝統は、化儀化法純然として大聖人仰せのままに実践して来た事にある。ゆえに日興上人は、『富士の立義いささかも先師の御弘通に違せざる事』と宣言遊ばしたのです。 仏法に己義を交えば由々しきひが事であります」(『御遺命守護の戦い』四十七)

と述べていた。しかし、

「広く大衆を教化し実践せしむる時においては、五座の形はあり得ない。(中略)私は、この五座の勤行というのは、広宣流布を待つ総本山の化儀、ひたすら時を待たれる歴代先師上人の、尊い御所作であると思っています」(『顕正新聞』平成十年六月十五日号)

と何の教義的根拠もなく、「五座の形はあり得ない」として勤行を改変するに至ったのである。これは、浅井の思いつきで改悪された勤行であり、

第二十六世日寛上人
「若し堪えたらん人は本山の如く相勤むべし。若し爾らずんば 十如・自我偈・題目なりとも五座三座の格式、相守るべし」(『報福原式治状』)
との御指南に背反する悪行である。

次に浅井は遙拝勤行を正当化する根拠として、『千日尼御前御返事』を引用し、「信心に距離は関係ない」として、学会の「大聖人直結」さながらの邪義を吐いている。
実際に、法論においても遙拝勤行の文証提示を要求すると該文を提示する会員が多い。
まず同抄の対告衆である千日尼は、阿仏房の妻である佐渡の女性檀越であるが、『阿仏房御書』に、

「あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづる事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり。阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし。浄行菩薩はうまれかわり給ひてや日蓮を御とぶらひ給ふか。不思議なり不思議なり。此の御志をば日蓮はしらず上行菩薩の御出現の力にまかせたてまつり候ぞ。別の故はあるべからず、あるべからず。宝塔をば夫婦ひそかにをがませ給へ(御書七九三)

とあるように、阿仏房・千日尼には、大聖人様から御本尊を下付されている事実がある。
現存する大聖人の御真筆御本尊の中にも夫妻に授与されたとの伝承を持つ御本尊が二幅残っている。
つまり阿仏房夫妻は遙拝ではなく、御本尊を拝した信行であり、遙拝勤行を正当化する文証になり得ない。

四、「不敬の御開扉」について

平成12年、正本堂解体の途上、浅井は

「不敬冒涜の御開扉を中止し、近き広布の日まで秘蔵厳護」すべき(『顕正新聞・平成12年4月5日号)

と述べ、突如として「御開扉」を否定する暴挙に至った。以降、「御開扉料稼ぎ」「金儲け」などと、御開扉否定路線は継続している。

『諌告書』

「(一)本門戒壇の大御本尊は、広布の日まで秘蔵すべき秘仏にてまします
謹んで惟(おも)うに、本門戒壇の大御本尊は、御木仏日蓮大聖人の出世の御本懐にして、この大御本尊こそ唯授一人・法作付嘱の正体と拝承するところである。

ゆえに大聖人は、この大御本尊を二祖日興上人に密かに付嘱し給い、広布の暁の国立戒壇に安置すべき旨を遺命あそばされた。この御遺命を奉じて、日興上人は入御本尊を堅く秘蔵され、もっぱら広宣流布・国立戒壇建立をめざして、大規模なる死身弘法を全国に展開し給うたのである。
したがって日興上人・日目上人の上代には、今日のいわゆる「御開扉」などは、あり得べくもなかった。このことは、近年の大学匠・第五十九世日亨上人の次の仰せにも明らかである。

「未来勅建国立戒壇のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのが、いまの本門戒壇大御本尊であり(中略)開山上人は、これを弘安二年に密付せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代からか、遠き広布を待ちかねて、特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついには今日のごとき常例になったのは、もったいない事であるから、四十余年前には、有名な某居士が懇願して月一回という事にもなった事があったが、永続しなかった。開山上人より三祖日目上人への富士総跡の御譲り状にも『日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊』として、戒壇本尊とは書かれなかったのは、大いにこの味わいがある」(冨士日興上人詳伝)と。

この仰せを拝見すれば、日興上人・日目上人の上代には、御開扉など全くなかったことは明らかである。そしていつの時代からか、「遠き広布を待ちかねて」の「内拝」が行われるようになったという。しかしこの内拝は強信者にのみ特別許されたものであるから、まだ許される辺もあろう。

しかし大正時代になって、内拝が安易に流れていることに恐れ多さを感じた「有名な某居士」―荒水漬勇居士と思われる―が、せめて「月一回」に、と懇願したという。これを見ても、戒壇の大御本尊が本来秘蔵し奉るべき秘仏であられることは分明である。まして今日宗門が強行している「御開扉」なるものは、中古に始まった「遠き広布を待ちかねて」の内拝でもなければ、荒水漬勇居士が憂えた大正時代のそれでもない。まさしく今日の「御開扉」こそ、大御本尊に対し奉る許されざる冒涜であり、危害を招くものであれば、速かに上代に立ち還って秘蔵し奉らなくてはいけない』(同書)

【過去の浅井発言】
「私共の思いには、御開扉を許す許さぬは、昔より血脈の御一人の為されるところにして、一般僧侶すら口にする所ではないと」 (『試練と忍従の歴史』三〇」)

「およそ総本山大石寺に秘蔵し奉る『本門戒壇の大御本尊』は、御本仏日蓮大聖人の御法魂にてまします。一分の信心あらん大石寺の信徒が、どうして御内拝を願わぬことがあろうか」(『試練と忍従の歴史』三〇)

「以来、妙信講は総本山の御会式に参詣も叶わず、正月登山も出来ずにおります。およそ御開扉を断絶される事は、正宗信徒として『死ね』と云うことであります」
(『試練と忍従の歴史』三六)

正本堂建立の翌年である昭和四十八年に、

「御遷座の翌年五月、妙信講は久々の御登山を総本山に願い出た」(『日蓮大聖人の仏法 改訂版』二五五)

と「誑惑が顕著になった」後も、妙信講は御開扉を願い出ている。
平成三年には、

「顕正会も、御遺命守護の御奉公のゆえに登山を妨害されてすでに歳久しい。しかしこの重大な御奉公を命かけて成し遂げたとき、必ず大聖人様の御意に叶って登山が叶うことを、私は確信しております。

その時こそ、全顕正会員ともに手を携え、晴れて、涙の中に、戒壇の大御本尊様にお目通りをさせて頂こうではありませんか。(大拍手)」 (『「学会・宗門」抗争の根本原因』四五一)

と、御開扉の意義を述べた上で、「御遺命守護」が完結すれば全会員で「大御本尊様にお目通り」、つまり御開扉に行こうと発言している。

顕正会が根拠とする文証

「開山上人は、これを弘安二年に密附せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古)からか、遠き広布を待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついには今日のごとき常例となったのは、もったいない事である」
(『富士日興上人詳伝』二七七)

日亨上人は、今日のように、文明が進み、平和な時代を迎え、多くの信徒が登山し、御開扉が日常的に行われるようになり、戒壇の大御本尊を眼前に拝し奉ることに対して、「もったいない事」と仰せになっただけであり、「広宣流布の暁まで秘蔵厳護することが望ましい」などとは、悪意の曲解でしかない。

浅井は、日亨上人の内容を教条主義的な解釈に誘因して指導し、「御開扉は本当は広布の時なのである。ただ篤信の信者にのみは特別に許される」という旨の内容を何度も指導しているようである。

その上で「法華講の登山は数集め・金儲けであり、広宣流布の熱意もない上に御遺命に違背している。更には昨今の時代ではどんな不審者が戒壇の大御本尊に危害を加えるかわからない。ましてや大地震の恐れもある。その状態で登山など不敬千万」という認識を会員は抱いている。

しかしながら、事実として浅井は妙信講時代に何度も登山し、正本堂建立後にも二度、御開扉を願い出ており、「偽戒壇の正本堂に浅井会長は登山を願い出た」、という事になる。
そして会員にも「御遺命守護が完結すれば顕正会は宗門に復帰できる。その暁には全会員で登山して御開扉を受けよう」と推奨し、会員を欺いて来た
のである。

しかし、正本堂解体によって「不思議の還御」といって大騒ぎした「御遺命守護完結」の後も、浅井の公約は果たされることなく、依然として顕正会員が御開扉を受ける立場になることはなかった。

そこで浅井は、慌てて邪知を巡らし、思いついたのが「不敬の御開扉」、いわば前代未聞の邪義、「御開扉不要論」なのである。
これは、御開扉が叶わない顕正会員を納得させるための「ごまかし」に過ぎない。と同時に宗門上古より総本山にて行われてきた御開扉の意義と歴史を冒涜する大謗法である。

第二十六世日寛上人『寿量品談義』
「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則は本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ
(『富要』十巻一三一)

日寛上人は、ここに「登山参詣して戒壇の大御本尊を拝しなさい」と仰せの御指南に真っ向から対峙する暴論である。