日達上人御遷化の疑難について

総本山第六十六世 日達上人の御遷化に関する疑難について 

昨今の顕正会は総本山第六十六世 日達上人に対し、筆舌に尽くしがたいほどの誹謗中傷を犯している。

その内容とは日達上人が御遷化されたときの御臨終の相を「悪臨終」「阿鼻獄の相」と口汚なく罵っているものだ。これまでも顕正会は「細井日達は臨終に際して、バケツ3杯の血を吐き、苦しみながら死んだ」という妄想による悪口を吹聴してきた過去があり、その教団体質は今も変わらない。

これらの疑難は、すでに大白法や慧妙の紙面上で大方、破折済みであるが、いまだ顕正会員が宗門攻撃の材料としているため、これまでの破折の要点に加え、新たな疑難についてもとりあげ破折していく。

日達上人の御臨終の相に対する疑難の経緯

顕正会の平成三十年九月度総幹部会における内藤某という男子部組長の発言が、平成三十年十月五日の『顕正新聞』に掲載された。当時、大石寺の宿坊に勤めていて、日達上人の縁戚にあたる母親からの伝聞だ、というのである。その内容は、日達上人の葬儀に参列した内藤の母(みどり)は御臨終の相をみて、

「なんとその相は、今までに見たこともないほどドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるかのような相だったとのことです」「母親はひとめ見た瞬間、あまりの恐ろしさに親戚の背中に隠れてしまったそうです」(顕正新聞平成30年10月5日付)

つまり御臨終の相が「ドス黒く」「阿鼻獄」の相であったと語った、というのである。この内藤発言をきっかけとし、会長・浅井は、

「宗門側の誰もが(日達上人の御臨終の相について)隠して何も言わないので、今日までわからなかった。それを、きょう始めて(内藤某から)聞いた」

「男子部組長(内藤某)のお母さんは、細井日達(上人)の縁戚だったことから葬儀に参列したとのことでしたね。そしてお母さんから聞いたその臨終の相は『今まで見たこともないほどドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるかのような相だった』『母は一目見た瞬間、あまりの恐ろしさに、親戚の背中に隠れてしまった』とのことでした」(顕正新聞平成三十年十月五日)

などと、あたかも誰も口をつぐんで語らなかった事実(浅井の言葉でいえば「日達上人の悪臨終」)が、内藤某の発言によって発覚したかのごとくの指導をしたのである。

ここから日達上人の御臨終の相にまつわる誹謗が、浅井の口車に乗せられる形で、急速に末端の会員たちにも普及し、いまや多くの顕正会員がこの悪言を信じ、宗門への誹謗攻撃の一端としている。

御法主上人の御臨終の相は成仏の妙相

御遷化に至るまでの動向

宗祖大聖人に連なる御法主上人が成仏の妙相を現ずるのは至極当然の理であり、これまで宗門内においてわざわざ御臨終の相について積極的に語る必要はなかった。

浅井が新たに発覚したなどとして事実と異なる御臨終の相を喧伝しても、洗脳された会員たちは騙せても、当宗僧俗には通用しない。しかしながら、後世に禍根を残さぬためにも客観的な証拠と道理をもって迷妄を晴らそう。

さて、実際の日達上人の御遷化に至るまでの経過は次のとおりである。
昭和五十四年七月十八日、九州福岡の妙流寺における御親教から御帰山あそばされた日達上人は、翌十九日、四大に不調を生じられ、御弟子方の強い勧めによってフジヤマ病院に入院あそばされた。そして、七月二十一日の夕食を召し上がり、就寝されて数時間後、にわかに心臓が停止して、安詳として非滅現滅の寂をお示し遊ばされ御遷化を迎えられた。

総本山へ御尊体が移されてから、枕経が厳修されたのちに御剃髪の義がご遺族により行なわれた。遺族遺弟による読経が絶え間なく続いてるなか、訃報を聞きつけた全国各地の僧侶や親族の方々も総本山に参集し、日達上人の尊い御姿・御尊顔を拝して、深い悲しみのなかにも報恩謝徳の念をもって合掌申し上げ、読経唱題を唱え奉った。

実際の御遷化の御尊顔について

では、実際に日達上人の御尊体を拝した数々の証言をみてみよう。

●ご親族の証言

「二十一日の夕方をご家族と一緒に穏やかに過ごされ、夕食も普通にとられました。その際、翌日の御自身の予定を側近の方に伝えられていたほどです。そして就寝され、その数時間後に、常住壊空の法理のもと、肉体としての寿命を全うされて、日達上人は御臨終を迎えられました。その御姿は穏やかで御尊顔はふっくらと、頬は赤みをおびていました」

●数多くの僧俗の証言

◇遺弟 高木伝道御尊師(当時は宗務院庶務部主任)
御生前と少しも変わらぬ穏やかな御温顔をしておられた。
◇総本山塔中久成坊住職 関快道御尊師〈当時は仏寿寺住職〉
お顔を拝見し、とてもきれいで眠っているように安らかなお顔をされていました。顕正会がいうような、どす黒いなんてあり得ない。

◇妙相寺住職 落合尊福御尊師〈当時は大坊所化頭〉
全く生前と変わらない、眠られているような素晴らしい御尊顔でした。

◇要行寺住職 磯村如道御尊師〈当時は大坊・奥番〉
日達上人の御臨終の相は安らかな、きれいな御尊顔でありました。顕正会が言うような「ドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるような相」などは全くの嘘であります。

◇総本山塔中南之坊住職 藁科鑑道御尊師〈当時は大石寺在勤教師〉
病院から対面所への移動の間や、枕経とその後の御剃髪、御剃顔のときに、日達上人の御尊顔を間近に拝見する機会がたびたびありましたが、きれいな御臨終の相でした。

◇総本山塔中了性坊住職 原田輝道御尊師〈当時は妙光寺在勤〉
素晴らしく、きれいな御姿であったことをハッキリ憶えています。

◇総本山塔中理境坊住職 小川只道御尊師〈当時、総本山内事部〉
幾度も御霊棺の中を拝見する機会がありましたが、生きている時のままの御姿で、眠っているような御尊顔でありました。

◇井出信子さん〈当時の大石寺総代・井出潔氏夫人〉
その御顔は、生きていらっしゃる時のそのままで、まるで眠っておられるかのようでした。

◇岩松信彦さん〈当時は大白法編集室勤務〉
日達上人の御尊体は終始、生きておられた時のまま、お綺麗で、今にも目を覚まされるのではないかと思うほど、穏やかに眠っておられるかのようでした。

●当時の公式的な文章記録を列挙する

①大日蓮
「半眼半口の御温顔に一同新たなる感慨を禁じ得なかった」(『大日蓮』昭和五十四年九月号八十四頁)

②妙観創刊号 大草大講頭の寄稿文
「猊下の御尊顔は、むしろ御生前よりもふっくらとし、頬(ほお)に赤みすらさして、半眼半口、神々(こうごう)しいまでの御姿で、眠っておいでのようでありました」(『妙観』(昭和五十四年八月十日号))

③山崎正友の手記(公式ではないが、参考までにとりあげる)
「何の苦しみもなく瞬時のうちの大往生であられた」(週刊文春)

以上、御遷化間際から御出棺までの間に実際に半眼半口の成仏の相を拝した証人は多数存在するが、顕正会の証人は内藤某ただ一人。その差は歴然である。もちろん、この他にも宗内には多くの僧侶と代表信徒が成仏の相を拝見している。

また、大日蓮等の当時の機関誌に報じられた公(おおやけ)の記録と、四十年も経ってから急に出てきた死人(内藤某の母親はすでに死亡しているという)からの又聞きでは、そのいずれが信憑性が高いかは、もはや言うまでもなかろう。

内藤某の発言の信憑性を検証する

内藤みどりは日達上人の縁戚ではない

次に、デマの発生源である〝日達上人の縁戚〟と称する内藤某の母親「内藤みどり」であるが、結論から言えば、この人物は日達上人の縁戚などではない。

その理由は、第一に日達上人のお身内の証言、第二に内藤家の親族の証言である。
第一に、大白法に「日達上人のご親族や直弟子の方々、さらには当時総本山に勤められていた御僧侶や従業員の方にお聞きしたところ、全員が『そんな人物に心当たりはない』とのこと」(大白法 平成三十年十二月一日号)と記されているように、日達上人の御身内の方々が皆、「そのような親戚はいない」と断言されている。

第二に、内藤家の親族に調査をしたところ、内藤みどりの姪にあたる方が「内藤家と日達上人とは全く関係がない」と言われ、さらに内藤家の縁戚となる宗門御僧侶も「うちは日達上人と縁戚にはならない。そんなのはデタラメだ」と証言されている。さらに決定的ともいえるのが、内藤家の系図にも日達上人との関係はみられないと、内藤家の親族が断言されていたことだ。

このように、日達上人のお身内と内藤家の親族との双方が関係を否定されているのであるから、内藤某の発言を誰が信じようか。身内が誰も知らない自称「縁戚」、普通はこれを他人というのであり、虚言もしくは妄想というほかない。

性懲りもなく、『顕正新聞』(平成三十一年一月五日号)には、「今回の騒動を機に内藤某は母親の戸籍を辿(たど)ってみた」としているが、内藤の母親が本当に日達上人や細井家の縁戚であったならば、この戸籍調べにより、日達上人とどのような縁戚に当たるのか、が判明したはずであるが、その説明は一切できていない。

その代わりに、内藤の母親の前夫は柳沢喜惣次氏(元総講頭)の兄だった、とか、内藤の母親の姉の親戚が高野日海御尊能化の高野家に養子に行った、などの、日達上人と全く関係のない話を挙げて、内藤某の母親に何とか箔(はく)を付けようとしている。逆説的に言うならば、内藤某の母親「内藤みどり」が日達上人の縁戚だった、との事実は全く見出せなかった、ということに他ならない。

これらのことから、内藤某の母親が日達上人の縁戚だった、などというのは全く根拠のない虚言であることが明白となった。

今回の騒動は「日達上人の縁戚にあたる母」という一点から生じた誹謗であり、ここが否定されたいま、すべての疑難は根底から崩れ去っている。

内藤みどりは見舞いに来ていない

内藤某は「細井日達(上人)が富士宮市のフジヤマ病院に入院した際には、母は三回ほど見舞いに行っておりました」と述べている。

しかし、先述したように、内藤みどりは日達上人の縁戚ではないので見舞いできる立場にはない。常識的に考えても、御法主上人のお見舞いをできるのはご親族と一部の御僧侶ぐらいであろうから、縁戚でもない一従業員の内藤が見舞いなどできないことは言うまでもない。

それを裏付けるように、当時、日達上人の奥番(随従役)の御僧侶であられる磯村如道御尊師(現・要行寺住職)は、「日達上人が十九日にフジヤマ病院に入院されてからは、病室の警護を任され、二十二日の早朝、病室で日達上人が御遷化になられた瞬間にも立ち会いました。この間、「内藤みどり」という女性が病院に見舞いに来た、などという事実は絶対にありません」と、内藤みどりが見舞いに来ていないことを証言されている。

また当時から総本山でご奉公されている日達上人の縁戚(こちらは正真正銘の御親類)の方々も、「日達上人の遠戚が、自分たち以外にいたなどという話は聞いたことがないし、まして、そんな素性のよく分からない人が、日達上人の病室に自由に出入りできるはずはない」と言われている。

虚言であるからこそ、わずか二日間の入院の間に「三回ほど見舞いをした」などという、あり得ないウソを露呈してしまうのだ。

「三回の見舞い」の苦しい弁明

大白法の「わずか二日半の入院で、お身内以外の者が三回もお見舞いに行くことなど、到底あり得ないことである」との指摘に対し、顕正会は、宗門機関誌『大日蓮』(昭和五十四年九月号)の記事のなかの、「日達上人猊下には、その以前(日達上人より日顕上人へ御内付の相承があった昭和五十三年四月十五日を指す)よりお身体の不調を訴えられ、特に心臓機能 の障害によって、しばしば御入院遊ばされ、治療に専念遊ばされておりました」を引用し、

「この記述から、細井日達(上人)が臨終を迎える一年以上も前から「しばしば御入院」していたことは明らかである」「わずか二日半の入院で三回も見舞うことはありえない、などと虚偽を弄して、当時のことなど知らないだろうと高をくくって取り繕っているが、実際には「しばしば入院」 していたのである。実に姑息なウソである」

と苦しい弁明をしている。

当時のことを知らないのは顕正会の方である。事実を全く知らず、陳腐な嘘の上塗りをしたが為の失態である。

ここに引用される「しばしば御入院遊ばされ」とは、総本山付近のフジヤマ病院への入院ではなく、主治医のいる東京都の大病院であり、しかも長期的な入院ではない。入院の時期も場所も知らない富士宮在住の内藤が、三度も見舞いにいけるはずもないし、だいたい、親族でも身内でもない一従業員に対して入院先の病院を教える義理などないし、常識からしてあり得ない話である。苦し紛れの反論をした結果、より嘘偽りが浮き彫りとなった。

この反論に対して顕正会が、フジヤマ病院ではなく東京の病院だった、と慌てて訂正しても無駄である。それは内藤某自身が「フジヤマ病院に入院した際には」と証言しているからだ。

内藤みどりはお別れの場にいなかった

日達上人の御葬儀は、昭和五十四年七月二十四日の御密葬と、八月八日の御本葬とに分かれており、御本葬は正本堂東広場において約一万四千人という空前の参列者を得て執行された。

この御本葬には、希望する宗内僧俗は参列できたから、「内藤みどり」等もここに参列したのかもしれない。だが、この時はすでに御火葬も済んでおり、当然のことながら、日達上人の御尊顔を拝することなどできない。

一方、七月二十四日の御密葬は当時の大客殿において執行され、大客殿内には約二千名の僧俗が参列したが、出棺前に御尊顔を拝する御別れの儀については、時間の関係上、信徒は学会首脳や法華講連合会執行部をはじめ五十名ほどの代表者しか参列できなかった。

そして、この中には、「内藤みどり」の前夫(柳沢金次郎氏)はもとより柳沢喜惣次氏(当時は連合会の役員ではなかった)すらも入っていなかったのだから、ましてや、宿坊の一従業員にすぎぬ「内藤みどり」が参列できる道理がない。

その証拠に、当時の記録(大日蓮)にご密葬におけるお別れの儀は、

「午前十時五十一分 御棺を祭壇より大客殿内陣にお移し申し上げ、お別れに移る。一般信徒は参道に整列し、教師、遺族、親族、信徒代表にてお別れ」(昭和五十四年九月号)

と記されているように、一般信徒は直接御遺体にお別れせず、総本山の参道に整列して棺の行列が通るなかお別れした(棺の蓋はしまったままの状態)のである。日達上人の御遺体を間近に拝見することができたのはご遺族、御僧侶方、代表信徒のみであり、一般の信徒が日達上人の御遺体を拝見できることは皆無だった。

要するにこの話は、御別れの儀と、御密葬・御本葬のことを混ぜ合わせて、当時の様子を知らぬ人々を欺(あざむ)いているのである。

【心臓マッサージに関する疑難を破す】

内藤某は母からの伝聞として「医師が二時間にも及ぶ心臓マッサージをしたが助からなかった」と聞いたとし、浅井もまた「退院の前日に激甚の発作を発して倒れ、医師が二人で心臓マッサージを交替で二時間ほど施したが蘇生せず」と語ってる。

日達上人御遷化時、すでに日蓮正宗の信徒でない浅井昭衛や、病院に立ち入れる資格のない内藤某(先述のごとく内藤みどりは縁戚ではなく見舞いにも行っていない)が、なぜ病室での出来事を語れるのかといえば、それは山崎正友氏の『手記』をもとにしたからであろう。それは浅井自身も認めるところである。(参照 顕正新聞平成三十年十月五日付)

山崎氏の手記の該当箇所には、「病室では二人の医師が、額から汗をしたたらせて、絶望的な胸部マッサージを三時間近くも続けていた。すべてが終わったことは明白だった。H博士の丹念な診察のあと、二人の医師の三時間にわたるマッサージの努力に敬意を表して、御遷化の時間は五時半とされたが、正しくは午前二時前、それも、何の苦しみもなく瞬時のうちの大往生であられた」(週刊文春)とある。これをみた浅井が宗門誹謗の格好のネタにできると悪用し、御相承の否定の根拠となしたのである。

一、『慧妙』は心臓マッサージのことを隠蔽しているとの邪難

慧妙に山崎氏の手記を引用する際、「大往生」という部分のみを掲載したことから顕正会では、「慧妙は都合の悪い心臓マッサージのことをあえて隠したのだ」と言っている。

しかし、そもそも該当する慧妙の記事は日達上人の御臨終の相についての反論であり、争点である日達上人の御臨終の相について、山崎正友氏が述べた「何の苦しみもなく瞬時の大往生」という部分を隠して、浅井が好き勝手に歪曲し「激甚の発作を起こした」などと書き殴ったことを、慧妙では破折したまでだ。

山崎氏の「大往生」の証言がよほど都合が悪いのか、臨終の相から心臓マッサージに論点をすり替え、「隠すとか、隠蔽している」などと慧妙を悪口しているが、まずは議論の焦点である御臨終の相について根拠(縁戚ではない内藤の母の証言ではなく)を示すべきである。

二、『大白法』と『慧妙』の報道内容に相違があるという愚問

顕正会は「大白法の記事では心臓マッサージを行った事実を『二時間にも及ぶ心臓マッサージなど行われていない』と完全に否定しているが、大草(大講頭)が余計な反論をした ことによって大白法の記事の大ウソが図らずもバレてしまった」として、大白法と慧妙の掲載内容に相違があるかのように誹謗している。

ことの詳細は、平成三十年十二月一日号大白法に掲載された顕正会破折の記事のなかに「二時間にも及ぶ心臓マッサージなど行われていない」との文言があり、また平成三十年十二月十六日号の慧妙の一面の記事中に山崎氏の手記を引用しているが、その手記の他の部分に「医師による三時間の心臓マッサージ」(この文言そのものは慧妙に掲載されていない)と記載されていることから、顕正会では大白法と慧妙(正しくは山崎氏の手記)との見解の相違を指摘している。

これをもって顕正会員が金科玉条のごとく「大白法と慧妙、どちらかがウソをついている」と、詰問してくるのである。

まず、大白法の記事は心臓マッサージを完全否定しているわけではない。大白法には「御臨終に立ち会われたのは、日達上人令夫人とご子息、そして側近の方のみである。 しかも『二時間にも及ぶ心臓マッサージ』など行われていない」と、当時の状況を記している。

「二時間にも及ぶ心臓マッサージ」との表現を、顕正会では大白法の記述を心臓マッサージの完全否定と勘違いしているようだが、二時間にも及ぶ心臓マッサージを否定したのであって、心臓マッサージ自体を否定したわけではない。

つぎに、顕正会では慧妙が「三時間の心臓マッサージ」を肯定したかのような勝手な解釈をしているが、すり替えも甚だしい。慧妙の紙面を熟読すれば明らかなように、該当記事は、浅井が山崎氏の手記を都合よく歪めて利用したことを批判したものであって、心臓マッサージに要した時間のことなど全く触れていない(別にあえて隠したわけなく、引用する必要がないためだ)。慧妙は心臓マッサージの件を記していないのであるから、大白法と比べても意味がない。

ちなみに慧妙ではカッコ書きとして、「大往生という表現を使うことについては少々疑問もあるが、御臨終の模様を述べた当時の唯一の記事なので引用した」と付記してあるとおり、手記という性質上、山崎氏の主観的な表現も多いが、前述のとおり、山崎手記を歪めて利用した浅井を批判することを主目的に引用したのであり、山崎手記を全面的に肯定しているわけではない。

つまり、顕正会が勝手に相違しているかのごとく言っているだけのことで、大白法と慧妙の主張には、齟齬もなければ、「ウソ」もないのである。

なおまた、山崎氏が東京からH医師を連れてフジヤマ病院へ駆けつけたのは、全てが終わった後、とあるとおりで、二時間三時間の心臓マッサージを見たわけではない。おそらくは聞いた話を山崎氏なりに解釈して述べたものである。

これに対し、病院に付き添った奥番の磯村御尊師も、またお身内の御僧侶も、それぞれ2時間の心臓マッサージなど行なわれなかった、と否定しているのである。どちらが信憑性のある証言かは明らかだろう。

したがって、医療行為としての心臓マッサージはあったかもしれぬが、二時間にわたるものなどではなかった、というべきである。

三、宗門の証言には成仏の相である「白色」という表現がないという珍説

顕正会は、御書の「臨終に色変じて白色となる」(御書一二九〇)との一文をもって、「日達上人の臨終の相について証言している宗門僧俗の言葉に「白色」と表示されていないから成仏の相ではない」と難癖をつけている。

まず成仏の相が説かれる先の御文は『千日尼御前御返事』という御書の一文で、千日尼は阿仏房と共に佐渡に於いて大聖人様に帰伏し、死身弘法で常随給仕された大聖人門下の信徒である。

これに対し、大聖人様の師弟相対から逸脱し、本宗の教義ではない国立戒壇を教宣し、元妙信講講中解散処分に重ねて信徒除名処分に付された浅井昭衛率いる顕正会は、教団独自のニセ本尊を作製・安置し、大聖人様の仏法に違背する故に、成仏が叶わないことは火を見るよりも明らかである。

その邪宗たる顕正会が日達上人を誹謗する目的のために、純真な信心を貫く千日尼が賜わった御書を我田引水して引用する立場になく、また成仏の道を踏み外す彼らに成仏の相を語る資格はないことを忠告しておく。

さて、成仏の相はさまざまな形で顕現されるが、とくに象徴的なものに「半眼半口」の相がある。「半眼半口」とは、単に眼と口を半分開いていなくてはならないという狭い意味にとどまらず、苦しむように大きく口を開けたまま硬直し閉じないという状態ではなく、自然に眼と口を開けた眠るがごとき相という意味である。

ここで勿体なくも御歴代上人の御遷化の様子が拝せられる文献が現存しているので紹介しよう。

第三祖日目上人の御臨終の相
「臨終の御勤めましまして両眼眠るが如く口唇誦するが如く息止まりたまふ」(家中抄中〈日目伝〉)

第二十六世日寛上人の御遷化
「大曼荼羅に向ひ一心に合掌して題目を異口同音に唱え身躰少しも動せず半口にして猶眠るが如く安詳として円寂したまふ」(富要集五巻三五九)

この日目上人、日寛上人の御遷化の様子には、いずれも半眼半口の成仏の妙相が示されている。先に示したの日達上人の御葬送の記録や、立ち会われた宗門僧俗の証言には「半眼半口の御温顔」「とてもきれいで眠っているように安らかなお顔」「生前と変わらない、眠られているような素晴らしい御尊顔」「生きている時のままの御姿で、眠っているような御尊顔」「半眼半口、神々(こうごう)しいまでの御姿で、眠っておいでのよう」との表現があり、まさに日目上人、日寛上人と同じ成仏の御尊容を日達上人も現じられたのである。

先に挙げた宗門僧俗の証言をみれば、日達上人の御臨終が成仏の相であることは火を見るより明らかであり、これを、ただ白いと書いていないから不成仏というなら、日目上人や日寛上人に対しても不成仏の相と言い張るのか。顕正会員の言は、一を知って二を知らぬ輩の暴言という他はない。

四、心臓マッサージを施した者は悪臨終となるという難癖

顕正会では、日寛上人は『臨終用心抄』の

「断末魔と云ふ風が身中に出来する時、骨と肉と離るる也、死苦病苦の時也、此の時指にても当る事勿れ、指一本にても大磐石をなげかくる如くに覚ゆる也」

との御教示を引用し、

「死後、遺体に指一本であっても当たれば大磐石をなげかけるように感じること を御指南くだされているが、これを以て思うに、肋骨を折るほどの心臓マッサージを数時間も続けることが、どれほどの大苦痛を与え続けたことか、想像を絶する。これでも細井日達(上人)の臨終は良いといえるのか」

と、日達上人が心臓マッサージをうけたから悪臨終、と決めつけている。臨終用心抄の御教示は、題名の如く臨終を迎えるうえでの、一般的な心構えや遺体の取り扱いを御教示された書であるが、そもそも即身成仏された場合について述べられたものではない。

即身成仏の境界は金剛不壊であるから、外的要因によって破壊されることなどありえないのである。ゆえに、遺体に触れたり心臓マッサージをすると成仏の相を現わせない、などと主張する、その姿勢こそが御本尊様の絶大なる功徳力と成仏の境界の絶対性を疑っている証拠である。

たとえば病気や事故などにより通常であれば死相に悪影響が出るはずの状況であっても、正法を信仰している者は不思議と成仏の相を現ずることが可能であることは当宗僧俗ならば誰もが知るところである。その実証は枚挙に暇がないが、いまその一例をあげると、

「黄疸が出やすい胆のうガンで亡くなるも、臨終の相は、生前よりも若返ったようになった」

「病院で長年寝たきりで、顔も茶色だったのが、葬儀の時は色も白くなり、実年齢とは思えないほど若返って綺麗な相になった」

「慢性の白血病で、生前は皮膚の内出血がいたるところにあり、アザのようになっていたが、御僧侶に枕経をあげていただいた直後に、アザがきれいに消えた」

「肝臓がんのため、黄疸がひどく、また亡くなる直前はほおがこけていたが、亡くなって御僧侶に通夜葬儀と引導いただき、最後出棺の時には、ほおもふっくらとして黄疸も消えて、肌色で、病気の前の元気な時の顔つきに戻っていた」

「リュウマチで手脚に障害があり、生前は指など硬直し、身体をくの字形にして寝起きしていた。死後葬儀までの三日間、唱題していたところ、足はすっと真っ直ぐのばせて、無理なく胸に手を組ませ、指にお数珠を掛ける事が出来た」

これらの実証は、凡夫には計り知れない成仏の相である。まして、仏法の一切を御所持遊ばす御法主上人の御臨終の相においてをやである。ゆえにたとえ心臓マッサージを施したとしても、何ら御臨終の相に支障はないし、大苦痛を感じられることもありえない。
なお、御書の『上野殿後家尼御返事』(御書三三七)には、

「地獄と云ふ二字をば、つちをほるとよめり。人の死する時つちをほらぬもの候べきか。これを地獄と云ふ。死人をやく火は無間の火炎なり」

とて、人が死んで火葬する火は無間地獄の火であり、土に埋葬するのは地獄に入ることと御教示されているが、これは一般のことで、その後に

「此の法華経をたもちたてまつる人は此をうちかへし、地獄は寂光土、火焔は報身如来の智火」

とて、即身成仏の境界はこうした外的要因によって左右されないことをお示しである。日寛上人の『臨終用心抄』も、一般的な臨終の用心を述べられているが、間違いなく即身成仏を遂げた方については、遺体に触れても、大苦痛どころか仏の慰撫抱擁と感じられるであろうことは言うまでもない。

顕正会の疑難は、不思議なる広大深遠の大功徳力や、金剛不壊の即身成仏の大境界を知らぬ、不相伝の宗徒の誹謗でしかないと断じておく。

【日達上人から日顕上人に対して相承が無いとする誹謗】

顕正会がことさら心臓マッサージを強調する理由のひとつに血脈相承の否定がある。顕正会では、

「臨終の後、三時間も心臓マッサージを施さなければならなかった理由とは何か。それは、細井日達(上人)は臨終を迎えた日の翌日、一日だけ大石寺に戻り、御相承を行う予定だったからである。大事の御相承を行っていなかったため、心臓マッサージを施してでも絶対に蘇生させなければならなかったのである。逆に言えば、仮に御相承を行っていたのであれば、心臓マッサージなどする必要などない筈で心臓マッサージを行った事実こそ、御相承を行っていない証左ではないのか」

と強弁している。
「三時間の心臓マッサージ」は、以前から御相承を否定している浅井の恰好の材料となった。それまでの浅井は

「細井管長は昭和五十四年七月二十二日、入院していたフジヤマ病院で、臨終思うようにならず急死を遂げた。貫首の立場にある人が、誰もそばにいないとき、一人で急死してしまった。よって御相承をすることができなかったのであります」(顕正新聞 平成十一年四月二十五日付)

と言っていたものの、この時点では「心臓マッサージ」のことには触れていなかった。

内藤某の悪臨終の発言を機として、さらに三時間の心臓マッサージを織り交ぜて相承否定の根拠としようと企んだのだ。心臓マッサージを施したのは翌日に控えた相承を行なうためと、浅井お得意の妄想をしているが、しかし、申すに及ばず血脈相承はすでに前年に日顕上人に内付されているので全く問題ではない。

また心臓マッサージは一般的な延命治療であって、医師として心臓マッサージを施すことはごく当たり前のことだ。だいたい、医師が患者個人の理由によって心臓マッサージの有無を決定するはずがなかろう。
このように心臓マッサージと血脈相承は直接関係のないことは自明である。

浅井狂義「相承は断じても、血脈は断じない」

浅井は

「最も重大なことは『大事な御相承もなし得なかった』ということです。(中略)大聖人様が、御遺命に背いた細井日達(上人)に、また次のさらに腹黒く学会にへつらっていた阿部日顕(上人)に対して、御相承の『授・受』をお許しにならなかったのです」「しかし血脈は断じて断絶するものではない。御遺命を堅持あそばす貫首上人がお出になれば直ちに蘇(よみがえ)る」

などと、相承は断絶しているが、血脈は断絶しないという、聞いたこともない珍説を作出して、取り繕っている。

しかも、もし、浅井の言うごとく「御相承の授・受がなくても、正信の貫首上人が出れば直ちに蘇る」のだとすれば、もとより「御相承の授・受」は必要なかったことになり、「大事な御相承もなし得なかった」などと嘯く浅井の主張そのものが成り立たなくなってしまうではないか。

日達上人・日顕上人を誹謗したいあまり、こんな自家撞着に陥っていることにも気付かないのだから、もはや哀れを通り越して無様としか言いようがない。

いまでは相承を否定している浅井も、実は以前は

「かくて日道上人・日行上人・日時上人・日阿上人・日影上人・日有上人と、『本門戒壇の大御本尊』を付嘱の法体として代を重ねること六十七、清浄の法水はいささかも断絶することなく今日に至っている。これが正系門下・富士大石寺の伝統である」(『富士』)

と述べ、日顕上人への血脈の不断を認めていたのであるから、自語相違、自己矛盾も甚だしい。

浅井が血脈の否定をはじめた契機は、平成十年に正本堂から奉安殿へ大御本尊を御遷座した後、日顕上人が浅井を認めてくれるかと期待したものの、全くそのようなことがなかったため、もはやこれまでとばかりに、日顕上人の血脈を否定し、自ら独自の宗教法人格の取得に踏み切ったのである。所詮、破門され日蓮正宗の根幹である血脈を否定した正信会、創価学会と同じ穴の狢なのである。

最後に 日達上人の御臨終を誹謗する顕正会の目的

日達上人の御遷化から四十年もの時を経た今になって、葬儀にも参列していない浅井を筆頭に会員総出で顕正会がこのような誹謗を言い出したその目的は何かと言えば、ひとえに「国立戒壇を否定し、正本堂を建立し御遺命破壊した日達上人が悪臨終を示した」と事実無根の情報を喧伝して、浅井の邪義を正当化させようと試みることに尽きる。

要は彼らの前身である「妙信講」を講中解散処分に付した日達上人への逆恨みでしかないのである。

かつて江戸時代に北山本門寺(現在、身延派)の邪僧が、「大石寺の第九世法主である日有(上人)は、板本尊を偽作した。その結果、癩病という重大病を発症し、苦しみ、のたうち回りながら死んだ」という事実無根の悪口となんら変わらない。

我々は、日達上人の御威徳を汚す顕正会の悪口を、聞き逃すことなく破折していかなくてはならない。