資料集

菅原某の疑難に対する、妙観講・異流義対策センターの破折①

先般来、『顕正新聞』紙上で、顕正会法務部次長・教学部員の菅原克仁君の独り善がりが止まらない。

菅原は、
「浅井先生を物狂おしく誹謗する大草一党のペテン性  全ては「敵前逃亡」の過去を隠すためのパフォーマンス」
などという、見ただけでも吹き出してしまうようなタイトルを付け、『寄生虫破折論文』とやらを掲載している。浅井を唯一無二の師匠と仰ぎ、その舌をペロペロ出しながら繰り広げる謀りの数々を、あたかも仏言の如く尊んで疑わない、顕正会に洗脳されきった文章は、哀れとしかいいようがない。

その文中、本宗全ての僧俗に関わる邪義・悪義については、『慧妙』紙が破折済なので、ここでは、それ以外の妙観講・大草講頭に的を絞った低次元な誹謗について、破折を加えていくことにする。

まず、今回は『顕正新聞』(八月五日)所載の菅原の独り善がりの駄文を破す(以後の駄文についても、これから一つ一つ破折していくであろう)。

妙観講・異流義対策センター

菅原某の疑難に対する、妙観講・異流義対策センターの破折①

疑難①
平成十七年の浅井からの対決申し入れから大草講頭が逃避した。最近の顕正会、浅井に対する異常なまでの怨嫉は、平成十七年の法論逃避を誤魔化すためのパフォーマンスでしかない。大草講頭が顕正会を徹底粉砕する機会が到来した途端に敵前逃亡した事実は、最大の汚点、急所であったようだ。

回答①
大草講頭が敵前逃亡した、それが最大の汚点、急所だ、などと戯言(たわごと)を言っているが、それは、こちらのセリフである。
昭和六十三年より、大草講頭から浅井昭衛に内容証明で直接対決を要求したことが、何度あったことだろうか。証拠として、全ての内容証明が残っている。

さらには、平成元年一月二十九日の高槻法論の当日には、大草講頭から浅井宅に直接電話をかけて、「こちらの破折にあなたの名前で堂々と反論してみなさい」と要求しているが、結局は浅井は逃亡を続けている。その音声記録も残っており誤魔化しようもないのに、今更何を寝言を言っているのか。

さらには、浅井の「大草講頭等の悪人を追放しよう」との檄に煽られた男子部・支隊長の宮下某が、平成十六年十一月十七日、長野県の大草講頭の実家を訪れて、「大草講頭と浅井先生でぜひ法論をしていただきたい」と申し入れをしてきた際も、大草講頭はただちに応諾したのである。

ところが、またもや浅井が逃げの態勢に入ったので、講員有志が浅井宅周辺に「大草講頭との法論から逃げるな」との趣旨のチラシを撒いて、法論要求を続けた。すると、この法論を回避せんと邪智を巡らせた浅井は、平成十七年三月、なんと、日顯上人に無理難題の条件の付いた「対決申し入れ書」を、門前払いになることを計算済みで、送り付けたのである。当然、日顯上人は、この卑劣な門外漢であり在俗である浅井の「対決申し入れ書」を門前払いに処された。

しかして、自ら門前払いにされた法論について、日顯上人が大草講頭を代理人として指名される道理がないし、また、大草講頭自身も、日顯上人が門前払いにされた法論を「私が代人である」などと言って出るわけもなく、そもそも浅井からの対決申し入れを受け取っているわけでもない。よって、逃げたなどと言われる筋合いは一切ないし、逃げたと罵られたところで痛くも痒くもないのである。

なお、浅井がこの法論申し入れによって、迫られていた大草講頭との法論をかわしてしまう魂胆であることを見抜いた宗門では、青年僧侶邪義破折班が「まず浅井は逃げずに大草講頭と法論せよ」と切って捨てる文書を浅井宛に送付している。だが浅井はこれを完全無視し、「日顯上人が法論から逃げた」「大草講頭も逃げた」という筋書きを会員に宣伝し、またもや大草講頭との一対一の法論から逃避してしまったのである。

さて、顕正会による寺院攻撃が目立ってきたことから、『慧妙』平成三十一年四月一日号において、再度、大草講頭は浅井に法論対決を要求したが、あろうことか浅井は、御法主日如上人猊下に「大草講頭を宗門から追放してほしい」などと懇願している。

さらには、令和元年十二月、顕正会男子部副長のマツサカ某が、大草講頭から内容証明で申し入れれば浅井会長は法論に出られる、などと発言したことを受けて、再び大草講頭は浅井昭衛宛に公開法論要求文書を送り付けたが、浅井は回答不能となり、代わりに顕正会教学部が「法論をしてくださいとお願いしてくれば、教学部が法論をしてやろう」などというふざけた回答をしてきて、浅井の完全逃亡が決定となったのである。

かくして、いかに菅原が浅井の法論逃亡を誤魔化すためのパフォーマンスを繰り広げても、これだけの経緯が証拠付きで残っている以上、その目論見は無駄に終わったと言うべきである。なお、これらの経緯は、ホームページ『顕正会からの脱出』上の『顕正会・浅井昭衛 遁走の歴史 その全経過』に詳細が掲載されているので、確認するがよい。疑難②

大草講頭ごときの寄生虫に御本仏日蓮大聖人の御遺命を守り奉らんとされる浅井センセーの崇高な御心などわかろう筈もない。

回答②
浅井の崇高な御心(笑)など、まともな人間であれば誰もわかる筈がない。そんなものがわかるのは、浅井と同レベルの低劣な人種のみであろう。

疑難③
浅井センセーが必死護法の「御遺命守護の戦い」に臨まれたのに対し、大草講頭は、正本堂の誑惑について呵責するどころか、昭和六十三年十月には偽戒壇、正本堂を擁護するタバカリを並べた悪書『摧破異流義考』を発行し、正本堂を賛嘆していた。

この悪書中で大草講頭は、正本堂の意義について次のように述べている。「まさに大石寺正本堂は御宝蔵・奉安殿とは異なり、今日の大石寺の本堂にして、やがて広布の時至れば大本門寺本堂たるべき堂宇である」「本門戒壇の大御本尊まします我が日蓮正宗富士大石寺こそ、本門事の戒壇の根源にして、広布達成の暁においては、『一期弘法抄』『三大秘法抄』に御示しの意義を顕現する大本門寺戒壇なのである」(同書二十二頁)と。

このように、大草講頭も池田大作と同様に、正本堂は「御宝蔵・奉安殿とは異なり」、御遺命の戒壇に当たる旨の悪言を堂々と吐いていたのである。

回答③
まず確認しておきたいが、「御遺命守護の戦い」などと仰々しく自慢しているけれども、平成十年四月五日、戒壇の大御本尊が新奉安殿(当時)へ還御されたことに勝手に舞い上がった浅井は、五日後の四月十日、多数の顕正会員を召集して「御遺命守護完結奉告式」なるものを行ない、内外に“御遺命守護完結”を宣言している。

ならば、この時点において「御遺命守護の戦い」なるものは完結したのではないのか。それとも、御遺命守護完結は浅井の間違いであったというのか?完結したのか、しなかったのか、どちらなのかはっきりと説明せよ。

「完結しなかった」と言うなら、浅井が全顕正会員を欺いたということになり、「完結した」と言うなら、今頃、何を寝言を言っているのか、ということになる。

次に、『摧破異流義考』の「まさに大石寺正本堂は御宝蔵・奉安殿とは異なり、今日の大石寺の本堂にして、やがて広布の時至れば大本門寺本堂たるべき堂宇である」との記述は、訓諭の内容に基づくものであり、教義的にも全く問題がない。つまり、「たるべき」というのは、未来に属することで、「未定・予定の意」であると日顯上人も解釈なされている通りである。未確定である未来のことについて、こうなったらこうなるであろう、という推定を言っているのであって、現時点で既にこうなった、と述べているわけではない。

『摧破異流義考』の中に重大な問題を発見したかのように言っているが、当たり前のこと述べているだけではないか。邪教の害毒で日本語も理解できなくなっているのであろう。

また、「本門戒壇の大御本尊まします我が日蓮正宗富士大石寺こそ、本門事の戒壇の根源にして、広布達成の暁においては、『一期弘法抄』『三大秘法抄』に御示しの意義を顕現する大本門寺戒壇なのである」との記述にも難癖をつけているが、広宣流布の暁に富士大石寺が本門寺の戒壇であるというのは、当時も今も全く本宗教義のままであり、何の問題もない。

二十六世日寛上人は、「富士山下に建立する戒壇を本門寺と名づく」( 聖典八五六頁)と仰せられ、三十一世日因上人は、「広宣流布の日は、当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号す可し」(研究教学書十六巻七一頁)と仰せであり、四十四世日宣上人の御説法には、「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す」(『世界之日蓮』)と仰せのとおりである。

これらの御先師方の御指南を拝すれば、大石寺が広宣流布の暁に本門寺戒壇となることは疑いない。これが本宗の伝統教義なのである。何が問題だというのであろうか。

かつては、浅井も

「下条より約半里ほど離れた北方に大石カ原という茫々(ぼうぼう)たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地として最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。かくて、日興上人は弘安2年の戒壇の大御本尊をここに厳護されると共に、広宣流布の根本道場として地名に因んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号されたのである。これが日蓮正宗富士大石寺の始まりである」(『富士』昭和三十九年九月号)

と正論を述べていたではないか。

それから「正本堂は御宝蔵・奉安殿とは異なり」というのも、当然のことである。御宝蔵・奉安殿は、広宣流布を待つ間、仮に戒壇の大御本尊を御安置申し上げるための堂宇であった。これに対し正本堂は、未来に広宣流布ができた暁には、本門寺戒壇になるであろう建物として建てられたのであり、それは日達上人が訓諭で仰せになられたとおりである。

しかし、それはあくまでも将来のことであるから、訓諭では「たるべき」と仰せられ、これに則って『摧破異流義考』でも「広宣流布の暁には〜たるべき」という未来の推量であることを明記しているのである。全く日本語が解らないのか、と言いたい。

疑難④
しかも、大草講頭は、この悪言の裏付けとして、正本堂訓諭(昭和四十七年四月二十八日)を持ち出している。このことは、大草講頭一党をはじめ宗門僧俗が得意げに弄する「細井管長が御遺命違背を『訓諭』で訂正した」との痴論が“ウソ”であること、つまり、正本堂訓諭は御遺命違背を訂正するどころか、三大秘法抄の厳格な御定めを無視して建立される正本堂を“前以て建てておいた御遺命の戒壇”と断定した御遺命違背の代物であることを、他ならぬ大草講頭が認識していた証左である。

回答④
昭和四十七年四月二十八日の訓諭で示されていることに則って、『摧破異流義考』でもそのように述べているのである。大草講頭が言いたいことの裏付けとして、訓諭を持ち出しているのではなく、訓諭ではっきり決まっていることであるから、そのとおりに言っているだけのことである。

また、「細井管長が御遺命違背を『訓諭』で訂正した」などということも、大草講頭は一度たりとも言っていない。「得意げに弄する「細井管長が御遺命違背を『訓諭』で訂正した」との痴論が“ウソ”である」などと、そもそも大草講頭が言ってもいないことを、既成事実のようにしてしまうのが、ペテン師の手口である。

なお、御遺命違背を訓諭で訂正した、などという事実はどこにもない。それまでに、いろいろな議論があったとしても、結句、訓諭が宗門としての正式な最終決定であるということである。

また、「三大秘法抄の厳格な御定めを無視して建立される正本堂を…」と騒いでいるが、誰もそんなことを考えてはいない。将来、『三大秘法抄』に定められる広宣流布の時が至ったら、その時には正本堂は御遺命の戒壇になるであろう、と言っているだけである。

この件について、もう一つ言えば、日興上人が創建あそばされた大石寺は、広宣流布の暁に本門寺(広く言えば本門寺戒壇)となるべき根本道場だが、菅原の頭で考えれば、これも三大秘法抄・一期弘法抄の厳格な御定めを無視して建立された、ということになってしまうのだろうか。まったく謗法者の考えることは矛盾撞着だらけだ。

疑難⑤
正本堂が崩壊した平成十年十一月二十日、大草講頭は『新編・摧破異流義考』を慌てて発刊し、正本堂崩壊に辻褄を合わせるように次のようにシレッと修正した。

「大石寺正本堂は、近年における急速な広布進展の相に鑑み、やがて広布の時至れば大本門寺本堂となることを期して建てられた、今日の大石寺の本堂としての堂宇である」(同書四十八頁)「本門戒壇の大御本尊まします我が日蓮正宗富士大石寺こそ・・・大本門寺戒壇の前身なのである」(同書四十九頁)と。

整理すると、大草講頭は、正本堂崩壊以前、正本堂を「御宝蔵・奉安殿等」とは異なる「大本門寺本堂たるべき堂宇」、つまり“前もって建てておいた御遺命の戒壇”と断定・賛嘆していた。ところが、正本堂が崩壊した途端、大草講頭は辻褄を合わせるように、正本堂は“前もって建てておいた御遺命の戒壇”ではなく、“将来的に御遺命の戒壇になってほしいと期待して建てただけ”といけしゃあしゃあと自説を変更した。大草講頭の自語相違、無節操な変節ぶりに呆れるしかない。

回答⑤
「シレッと修正」など、全くしていないではないか。
該当箇所を比較してみると、表現こそ違うものの、意図するところは何ら変わっていない。いったい何を修正したというのであろうか。

この『新編・摧破異流義考』が発刊された平成十年には、十年前に出版した『摧破異流義考』は既に完売し、絶版となっていた。再版する必要が出ていたので、その際、既に正本堂の解体が始まっていたので、その時の状況に合わせて表現を変えただけのことである。

この、何ら問題のない、状況の変化に合わせた表現の違いを、菅原は、わざと全く見当違いの解説をつけて誹謗ネタを造り上げている。「整理すると…」などといって、大草講頭が言ってもいないことを勝手に書き並べ、話をねじ曲げている様は、これでも弁護士か、と言いたくなるような愚劣さであり、「無節操ぶりに呆れるしかない」のはこちらのほうである。

疑難⑥
本年一月、大草講頭は、過去の大謗法の悪言の存在が宗門僧俗に露呈しないように、その隠蔽を図った。
大草講頭は、妙観講が発行する冊子『暁鐘』(令和二年一月号)に修正済みの『新編・摧破異流義考』(平成十年十一月二十日発行)に更なる修正を加えた代物を掲載したが、そこには「昭和六十三年十月『暁鐘』別冊号より転載」との“ウソ”が付記されているのである。「転載」とは、既刊印刷物の文章などを写し取って、そのまま他の刊行物に載せることをいう。修正した文章を載せることを「転載」とは言わない。思うに、大草講頭は、保身のために大謗法の悪言の隠蔽を目論み、昭和六十三年に発効した悪書の内容が、修正済みのそれと同一であったかのように謀ったのだろう。まさに「ペテン師」の面目躍如である。

回答⑥
こんな些末なことから勝手に妄想を膨らませてしまうのだから、全く始末に負えない輩である。これは、該当箇所の文の趣旨が何も変わっていないことを踏まえ、暁鐘の編集部が「〜より転載」と記載しただけのことであり、大草講頭のあずかり知るところではない。お門違いも甚だしい。そもそも、「過去の大謗法の悪言」など何もないのだから、隠蔽を目論む必要など全くないのである。これが顕正会顧問弁護士の程度なのだから、呆れて、ため息を禁じ得ない。

疑難⑦
大草講頭は、修正済みの『新編・摧破異流義考』において「宗祖御遺命とは、前にも述べたとおり、広宣流布による立正安国であり、大本門寺戒壇の建立は、その御遺命の広宣流布達成を象徴する大目標である」などと、実に大それたことを述べている(同書八十三及び八十四頁)。つまり、大草講頭の理解によれば、“日蓮大聖人の御遺命は、戒壇建立ではなく、広宣流布・立正安国”であり、本門戒壇は広宣流布達成の“記念碑”のようなものに過ぎないようである。三大秘法抄・一期弘法抄をまともに読んだことがないのだろうか。

回答⑦
勘違いしてはいけない。大草講頭は、新編に限らず、最初から一貫して、同じことを言い続けている。すなわち、大聖人の戒壇建立の御遺命とは、広宣流布・立正安国の御遺命と同義である。

そもそも広宣流布して国土が安穏になるという利益は、何によって生じるのか。顕正会では、戒壇の建物によって生じると思っているようであるが、さにあらず、戒壇の大御本尊から生じる大利益なのである。

すなわち、広宣流布する(正法を立てる)ことによって、戒壇の大御本尊の利益が全世界に光被する(国土が安穏になる)。それが立正安国である。その功徳の根源は、三秘総在の大御本尊にあるのであって、戒壇の建物それ自体にあるのではない。それが明確にわかっていないから、こんな訳の分からぬ疑難を言うのであろう。

まさに、大御本尊から離れ、浅井教に洗脳されているために、戒壇の建物に何か利益があるかのように思い込んでいるのであり、それこそ、浅い教学であり、浅識・我見の極みである。なお、大草講頭は「“記念碑”のようなものに過ぎない」などとはどこにも言われていない。勝手な妄想から、言ってもいない文言を作り上げ、難癖をつける。このマッチポンプのような手口で人を陥れる、卑怯な論法はやめるがいい。

さらに言えば、仏教における戒壇について、日顯上人が研究論証あそばされているように、もともと釈尊の時代においても、また滅後かなりの期間においても、戒壇の建造物というものは存在しなかった。

その証拠に、経文中に戒壇という言葉は一か所も出てこない。後世になって、戒を授ける場所が戒壇と呼ばれるようになったもので、最初から経典にあったわけではない。いかなる山谷荒野であっても、仏法と、戒を守って修行する者とが住する処は、即道場である、との金言があり、やがてそこが戒壇と呼ばれるようになり、また建造物としても造られるようになっていったのである。

したがって、戒壇の建物それ自体が大事である、などという思想は、もともと経典自体にも説かれていない。ゆえに、二十六世日寛上人の御指南を四十三世日相上人が書き留められた『三大秘法之事』にも「富士山戒壇の御本尊御在所は事の戒也」と仰せられ、戒壇の大御本尊おわします処が本門事の戒壇である、との根本義が示されるのである。

そして、将来、広宣流布が成された時には、この大御本尊おわします処が、事相の上において日本乃至一閻浮提の人々が詣でる信仰の根本道場となるので、そこに実際の建物として戒壇堂を建立せよ、と御遺命になったのが『三大秘法抄』『一期弘法抄』の御金言であるものと拝する。

かつては、浅井も、正本堂が建立される約一年前、

「戒壇の大御本尊おわします所は何処・何方にても『事の戒壇』と定義せられたのである。従って、嘗ての御宝蔵も、また現在の奉安殿も『事の戒壇』であり、将来正本堂にお遷り遊ばせば同じく『事の戒壇』であるとの御意であられる」(『富士』昭和五十年三月)

と述べていたことをおもうべきである。

疑難⑧
関快道御尊師(総本山塔中・久住坊御住職)が、『慧妙』(令和二年二月一日号)に掲載した痴文において、御遺命の戒壇建立に疑問・推測を差し挟んだことにも合点がいく。結局、大草講頭一党は、御遺命の戒壇が「国立戒壇」であることはおろか、そもそも大聖人様の御遺命が「本門戒壇の建立」であることすら理解できていないようである。ゆえに、顕正会教学部に破折されても、破折されたことに全く気が付けない、ということなのだろう。

回答⑧
関御尊師は、戒壇建立に疑問・推測を差し挟まれてなどいない。要は、「勅宣・御教書を申し下して」という手続きについて、これは、常にいつの時代にも「勅宣・御教書」があるとは限らないから、「か」という疑問を表わす字が入ったのではないか、と言われたのであって、それはかつて日顯上人も同じ御指南をされている通りである。

また、日本語の解釈として「か」の字は、断定ではなくて、疑問を含んでいる意味だが、何を疑問としているかというと「勅宣・御教書」に決まっている。なぜならば、『一期弘法抄』には、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とて、広宣流布の暁に本門寺戒壇を富士山下に建立すべきであると、はっきり定まっているのであるから、戒壇建立を疑問視するなどという意味であるわけはない。

したがって、疑問符としての意味は、「勅宣・御教書を申し下す」ことについてであり、それ以外ありえない。「破折されても、破折されたことに全く気が付けない」というのは、まさにこちらのセリフである。浅井教の教えしか聞いておらず、本来の日蓮正宗の伝統的な教学を何も知らないから、破折されても理解できないのである。いや、異流義の害毒で頭がどうかなっているから、日本語すら分からなくなっている、というべきか、呵々。