資料集

顕正会会長 浅井昭衛の急死に想う 理境坊所属妙観講・講頭 大草一男

自ら法論を仕掛けながらリングアウトした浅井

去る十月十六日、顕正会会長・浅井昭衛が急死した。浅井は、小生としては昭和六十三年九月以来、三十五年間にわたって対峙してきた法敵であるが、今は御本尊に対し奉り、浅井が無量劫の果てに救われんことを願い、追善回向の題目を唱えるものである。

ただし、この三十五年間の経緯については、顕正会が事実を歪め、隠蔽する宣伝を繰り返してきたため、顕正会の一般会員はほとんどその事実を知らず、浅井を無謬(むびゅう)にして真正と信じている。

そこで、ここに三十五年間の真実を概括的に示しておくことにする。

自ら法義論争を仕掛けてきた浅井昭衛 反論・再反論の果てに、沈黙して遁走!

事の起こりは、昭和六十三年夏、妙観講の折伏教線が顕正会とぶつかり、顕正会の支区部長らが次々と脱会・帰伏したことに始まる。
当時は顕正会から脱会・帰伏する者が全くおらず、顕正会は〝向かうところ敵なし〟と思い込んでいたようで、この事態に会長・浅井昭衛が逆上した。

浅井は自らペンを執って、『顕正新聞』(九月二十五日号)に「宗内の痴犬・妙観講の実態」と題する誹謗記事を発表、妙観講攻撃を開始したのである。(写真①)

これを御覧になった妙観講指導教師である理境坊御住職・小川只道御尊師より、「これを放置しておいたらいけない。徹底的に破折するように」との命を受け、小生は浅井の戒壇論を破した『摧破異流義考』を執筆した。

その内容は、これまで六十六世日達上人と六十七世日顯上人が、様々な機会に示されていた顕正会破折の御指南を体系的にまとめたものであった。そして、これを十月三十日付で浅井に送付し、反論を求めたのである。(写真②)

その期限は十二月十三日としておいたが、浅井は、その期限を大幅に過ぎた翌・平成元年一月二十五日付『顕正新聞』(実際の発行は更に遅れて二月に入っていた)紙上に、『摧破異流義考』に対する反論らしき駄文「誑惑正当化のこじつけ理論を破す」を発表。


これを「御遺命守護のミサイルともいうべきもの」と自賛した。(写真③)


同時に浅井は、同年二月五日、長男・克衛らに命じて、男子部六十名で街宣車を押し立て妙観講本部を襲撃、敷地内に乱入して集団暴行事件を起こし現行犯逮捕者まで出した。(写真④)

この襲撃計画を立案した時、浅井親子は「これであいつらは震え上がるだろう」などと言っていたそうだが、このような暴挙に怯んで邪義破折の手を緩めるわけにはいかない。

同年三月末、小生は〝浅井の反論らしき駄文〟を破折した『続・摧破異流義考』を執筆し、浅井の邪義を残らず粉砕した。

ことに、五十九世日亨上人の、いわゆる「堀ノート」の原文を写真で示し、浅井の反論が笑うべき妄説であると証明したことは、浅井の戦意を喪失させるに充分であったものと思われる。(写真⑤)

ここに至って、浅井からの反論は途絶えた。プロレスでいえば、フォールされることを恐れて、リングから逃げ出してしまったのである。

対決再燃を奇策で逃れた浅井昭衛
悪口誹謗を繰り返した末に哀れな幕切れ

それ以来、顕正会には風穴が開いたかのように、男子部・女子部が一度に二百名以上脱会したのを始め、各地で脱会者が止まらない事態となってしまった。

このような状況が続くことに我慢ならなくなった浅井は、平成十六年九月頃から、突如、理境坊御住職や小生らの名を挙げて、口汚なく誹謗すると共に、「これらの悪人を追放しよう!」と会員に訴えた。(写真⑥)

この檄に勇み立った男子部・支隊長の宮下某が、同年十一月十七日、小生の長野県の実家を訪れ、「浅井先生をお連れするから、ぜひ法論をしていただきたい」と申し入れてきた。

もちろん小生に異存のあろうはずがなく、直ちに応諾し、宮下某はそれを顕正会に持ち帰ったのだが、以後、宮下某とは連絡が取れなくなってしまった。

この、せっかくの法論再開のチャンスを逃がすわけにはいかない、と考えた妙観講の講員有志は、法論実現を促すチラシを顕正会に向けて大量配布に踏み切った。すると、顕正会の隊長クラスからも、随所で「この一対一の法論に期待する」等の声が上がり始めたのである。

だが、浅井自身は、二度と法論のリングには戻りたくなかったようだ。
そこで浅井は平成十七年三月二十五日、窮余の一策として、なんと時の御法主・第六十七世日顯上人に無理難題の条件を付けた法論を要求する、という挙に出た。

何が無理難題かというと、浅井は、もし日顯上人が法論に破れたときは直ちに大御本尊の御開扉を中止せよ、として、宗旨の根本にして仏法の極地たる大御本尊を法論の条件に利用したのである。このような話を御宗門として呑めようはずがない。当然である。

その上、浅井は狡猾にも、もし日顯上人が不都合の場合には、日顯上人と同等の責務を負うことを条件として、僧侶・信徒を問わず代人を立てることを認める、などという付帯事項を付け加えていた。

こうして浅井は、実現するはずのない「対決申入れ」を行なった挙げ句、日顯上人が法論から逃げた、大草も逃げた、という筋書きを盲信の会員達に信じ込ませ、まんまと小生との一対一の法論から逃げ切ってしまったのである。


さらに浅井は、『顕正新聞』(平成十七年五月十五日号)に、小生の女性スキャンダルなるものを掲載して、ダメ押しのように悪口中傷による攻撃を加えてきた(この誹謗記事については、顕正会の代表である浅井と顕正新聞発行人を相手に、直ちに名誉毀損〔きそん〕による訴訟を起こし、浅井らの全面敗訴で決着している。写真⑦)。

こうした浅井の奸計(かんけい)に煽動された顕正会員達が、妙観講の講員に向かって「大草はいつも浅井先生との法論から逃げてきた」等と叫ぶので、小生は呆れつつも『慧妙』(平成三十一年四月一日号、及び令和元年六月一日号)の紙面を借りて、浅井昭衛に厳しく法論再開を促した。

だが、これまでも法論を逃げ続けてきた浅井は、またしてもこれを無視黙殺し、小生及び妙観講を「寄生虫」呼ばわりする等の口汚ない誹謗をもって報いてきた。

その上、学会の怪文書を丸呑みにする形で、「大草は阿部日顕(上人)と相図って、三年にわたり五件もの電話盗聴という犯罪行為を犯している。

(中略)狡猾なペテン師、まさに『寄生虫』」(『顕正新聞』九月五日号)などと大々的に発表、〝そのような犯罪者を相手に法論などしない〟という態度を鮮明にしたのである(この件も、小生及び妙観講が名誉毀損で浅井昭衛らを提訴し、結果、浅井は敗訴して、令和三年九月十三日、強制執行を受けるはめとなった。写真⑧)。

かくして浅井昭衛は、昭和六十三年九月に自ら仕掛けてきた法義論争から遁走したまま、去る十月十六日に急死してしまった。これで法論再開の機会はなくなった。浅井のリングアウトで決着である。

思えば、浅井と対峙してから今に三十五年、ちょうど五度目の七年という節目でもあった。まことに仏法の不思議を感じる次第である。
心ある顕正会員は、今こそ浅井昭衛の無謬神話から目覚め、正法正師のまします真の「富士大石寺」に帰伏すべきである。

(『慧妙』令和5年11月16日号より転載)