資料集

顕正会の誤てる戒壇論を破す

一、本門事の戒壇とは

三大秘法

本門の本尊(我々の信仰の対境たる御本尊)
本門の戒壇(御本尊御安置の処)
本門の題目(御本尊に向かって唱える題目)

三大秘法の開合

三大秘法の開合

本門戒壇の法門

大聖人は三大秘法のうち、本門の本尊と題目については種々の御書に説かれているが、戒壇については、その名目は明かされていたものの、その内容に関しては、わずかに弘安五年の『三大秘法抄』と『一期弘法付嘱書』においてのみ、明かされている(以下に引用)。

「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり。此の戒法立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじ」云々。
(三大秘法抄・御書一五九五ページ)

「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。」(一期弘法付嘱書・御書一六七五ページ)

そして、戒壇の建立とそれに関する事柄の一切は、『一期弘法付嘱書』に「白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」「血脈の次第 日蓮日興」(御書一六七五ページ)と仰せのように、第二祖日興上人ただ御一人に唯授一人血脈をもって付嘱され、それが御歴代上人を経て大石寺に伝わっているのである。

このように、本門戒壇の法義が広く説かれなかったのは、秘蔵の本門戒壇の大御本尊と密接に関係するため、と拝せられる。

しかして、この戒壇についての法門は、御歴代上人方がその時代その時代において、分々を示されてきたが、近代に至り、六十六世日達上人が血脈相伝の上から、初めて体系的に明かされたのである(それは次項で説明)。

事の戒壇と事・義の立て分け

三大秘法の中の本門の戒壇は、六大秘法に開いた場合、事の戒壇と義の戒壇に分かれる。

まず、事の戒壇であるが、これは前に引いた『三大秘法抄』の文意からも明らかなように、天台宗の迹門理の戒壇に対して、本門事の戒壇というのである。それは、天台宗では迹門理の一念三千によって立てる戒壇なので迹門理の戒壇となり、対して、大聖人の仏法は本門事の一念三千によって立てる戒壇なので本門事の戒壇となるが故。

しかして、本門事の一念三千の実体は、二座の御観念文に明らかなように、大聖人の顕わされた本門戒壇の大御本尊であり、この大御本尊だけを専一に信じて行ずることが末法における唯一の戒であり、その戒を行なう場所が戒壇であるから、本門戒壇の大御本尊のおわします処が本門事の戒壇となるのである。

その上で、大御本尊以外の数多の御本尊は、大御本尊を本体とすれば、その一分の意義に当たる御本尊であり、これらの御本尊を信受する場所も戒壇の意義に通じるので、これを義の戒壇という。

こうした事と義の立て分けについては、二十六世日寛上人の御指南を四十三世日相上人が書き留められた『三大秘法之事』に

「在々処々本尊安置之処は理の戒也
富士山戒壇の御本尊御在所は事の戒也」(この中の理の戒壇とは、日寛上人の『報恩抄文段』に「理は謂く、義理なり。••••故にまた義の戒壇と名づけんのみ」とあるとおり)

と明かされ、同じく三十六世日堅上人も、寛政二年三月の御説法で

「事の戒壇 一幅の板御本尊を掛け奉る所を云う
道理の戒壇 御代々御書写の御本尊を掛け奉る所を云う」(妙光寺所蔵文書No.58)

と仰せられているのである。
さて、この事の戒壇について、さらに大聖人は、将来、広宣流布が成された暁には、大御本尊まします処が、日本乃至一閻浮提の人々が詣でる信仰の根本道場となるので、そこに実際の建物として戒壇堂を建立せよ、と御遺命になった。それを端的に示されたのが、前の『三大秘法抄』『一期弘法付嘱書』の御金言に他ならない。

すなわち、大御本尊まします処の事の戒壇は、さらに広布の暁に事相(実際の形)の上に戒壇堂として建立される、つまり事を事(事相)の上に顕わす、という二重の意味を持つのである。

二、顕正会の戒壇論の誤り

顕正会の主張

「本門事の戒壇とは、広宣流布の暁に、勅宣と御教書を得て建立される国立戒壇であり、それ以前に大御本尊が安置される処は、その意義が事の戒壇に通ずるが故に義の戒壇であって、けっして事の戒壇ではない。したがって『大御本尊まします処は、いつ何時なりとも本門事の戒壇』とする大石寺の立場は、大聖人の御遺命に違背している。」(趣意)

顕正会は、このような主張を骨子として、さらに大石寺への疑難を並べてくる。以下に、その邪義と、それに対する破折の要旨を挙げる。

御遺命の事の戒壇に関して

〈邪難〉事の戒壇とは、事相に立てるから事の戒壇という。広布の暁に事相に立てる前は、事の戒壇はない。

【破折】
そもそも本門事の戒壇という名目は、迹門理の戒壇に対するもので、それは迹門理の一念三千による戒壇と、本門事の一念三千による戒壇という、仏法そのものの異なりを示すもの。事相に立つからではない。その証拠に、日本天台宗比叡山の戒壇は、事相に立っているが、あくまでもこれは理の戒壇であって事の戒壇ではない(三大秘法抄ほか)。
また、広宣流布以前には事の戒壇はない、というなら、それでは六大秘法ならぬ五大秘法になってしまい、それを合したら二・五にしかならず三大秘法も欠けてしまうではないか。

〈邪難〉日蓮正宗のホームページには、広布の事相に立てられる戒壇をもって、事の戒壇としているじゃないか。

【破折】それは、事の戒壇の二重の意義のうちの一方を示されただけであって、それが全てだとか、それしかないと述べているわけではない。よく読んでみよ。そういう読み方を、一を知って二を知らない、というのだ。

〈邪難〉そもそも『三大秘法抄』『一期弘法付嘱書』にも、また日寛上人の六巻抄にも、事の戒壇として示されているのは、広布の暁の事相の戒壇だけである(注・六巻抄は『三大秘法抄』の御金言をそのまま引かれて、事の戒壇の説明とされている)。広布達成の前に事の戒壇はないのだ。

【破折】
それは、大御本尊まします処が事の戒壇という本義を露わに述べてしまうと、謗法者による弾圧・法難の頻発していた時代に、大御本尊の存在そのものを露わにすることになり、大御本尊をお護りできなくなる恐れがあるため(だから大御本尊は広宣流布の暁まで秘蔵とされてきたのである)と拝せられる。

よって、大聖人は多くの御書の面に、大御本尊の御事も、大御本尊まします事の戒壇のことも明示されることなく、これらを日興上人御一人にのみ付嘱されたのだ。

それが後代の上人方に伝わり、後に、二十六世日寛上人の『三大秘法之事』や三十六世日堅上人の御教示となって、内々に説かれるようになった。

さらに後世に至り、五十二世日霑上人の『三大秘法談』に「未だ広宣流布の時至らず事相の戒壇御建立なしといへども此の道場即事の戒壇真の霊山事の寂光土」、また六十世日開上人の『戒壇御説法』に「戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在す事なれば、此の所即是本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」等々、徐々に本義が明かされてきたのだ。こうした、血脈相伝による甚深の御指南を知らぬ浅井教学は、やはり浅い狂学だ。

〈邪難〉
日寛上人の『三大秘法之事』に「富士山戒壇の御本尊御在所は事の戒」とあるのは、広布の暁に富士山に建立される国立戒壇のことを言っているのだ。

【破折】
どこに広布の暁だとか、国立などと述べられているのか。ありもしない言葉が見えるのは、精神がおかしくなっている証拠だ。この御教示は、事相に「建立」するというのではなく、あくまでも、戒壇の御本尊の「御在所」を事の戒壇とされている。よく両の眼を開いて拝せ。

〈邪難〉
五十九世日亨上人の『日蓮正宗綱要』の中に、「事相の堂は将来一天広布の時に勅命で富士山下に建ち、上は皇帝から万民にいたるまで授戒すべき所であるが、それまでは本山の戒壇本尊安置の宝蔵がまずその義に当たるのである」と言われているではないか。

【破折】
それは、日亨上人が血脈相伝を受けて五十九世に御登座される前の書だ。

日亨上人御自身も、同じ『日蓮正宗綱要』の中で「戒壇建立についての詳細は口伝により代々上人の腹中に存するのであろう」と仰せである。

よって、血脈相伝を受けて御歴代の中に入られる前の書を引いて、文証とするのは不適当である。

〈邪難〉
広布以前に事の戒壇が無ければ三大秘法にならない、というが、ならば、大聖人が入滅された今は人本尊が無くなって三大秘法にならなくなるではないか。また、御本尊が顕わされていない立宗宣言の時点でも、三大秘法が欠けていることになるではないか。

【破折】
自分で自分の首を絞めるに等しい愚論だ。大聖人が御入滅になった後も、大聖人の御命は人法一箇の大御本尊の中に存するのだから、人本尊が無くなったわけではない。德薄垢重の者の目に見えぬだけだ。同じく、広宣流布の以前に事相の戒壇が無くても、大御本尊の処に事の戒壇は具しているのだ。汝の疑難は、疑難になっておらず、かえって当方の主張を裏付けている、ということがおわかりか。立宗宣言の時点で法本尊が無い、というのも全く同じで、これ以上論ずるに値しない

国立戒壇論について

邪難〉
国立戒壇は、宗開両祖以来の正義であり、歴代上人方も国立戒壇を主張している。

【破折】
そもそも国立戒壇などという語は御書にはない。
また、御歴代上人といっても、近代における五十九世日亨上人・六十四世日昇上人・六十五世日淳上人(ただし、御登座前)・六十六世日達上人の四上人が一時的に使われただけで、明治以前にはどこにも見当たらない。

そもそも、この「国立戒壇」という語は、明治三十五年、邪宗・国柱会の田中智学が『本化妙宗式目』の中で初めて使ったもの。それが当時の日本国体思想の時流に乗って大いに使われるようになり、大正時代になってから、本宗でも次第に使うようになった。

要するに世界悉檀の一環として使ったのだが、時代は変わり、国立戒壇というのは、誤解を招きやすく今後の布教の妨げとなる語である故、日達上人の時代からこれを使わないことにしたのである。

〈邪難〉
国立戒壇の語はなくとも、国立戒壇の義は御書にある。

【破折】語だけではなく、義も全くない。『一期弘法付嘱書』に
「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書一六七五ページ)
とあるのも、よく読めばわかるように、国主が立てるのは此の法(この法を信受するの意)であって、戒壇ではない。

そもそも、究極の法体たる大御本尊を、国立の戒壇に安置したら、そこに取り返しのつかない問題が起こる。すなわち、命に替えても厳護すべき大御本尊を、国家の手に委ねてしまうことになるのであって、仏弟子たる者、かようなことを断じて許してはならない。ゆえに国立戒壇は誤りと言わざるをえない。

〈邪難〉
国立といっても、国が立てて管理するという意味ではない。顕正会でいう国立とは、『三大秘法抄』に「勅宣並びに御教書を申し下して」とあるように、戒壇建立には一国としての意思表明が必要だ、という意味だ。

【破折】
「国立」とは、仏法用語ではなく通途の日本語であり、その意味は「国家で立てて、国家で管理すること」(広辞苑)である。

それを、国立といっても国で立てたり管理するという意味ではない、というなら、それはもはや日本語ではなく浅井語であって、もとより国立には当たらない。

また、戒壇建立の先例たる日本天台宗の迹門戒壇も、勅宣を賜わり国の許しを得て建てているが、建てたのは天台宗宗門であり、もちろん誰もこれを国立戒壇などと称していない。よって、この際、「国立戒壇」なる誤った日本語は捨てるべきである。

天母山戒壇伝説について

邪難〉
本門戒壇を立てるべき場所は天母山である、というのが大石寺古来の正義である。

【破折】
それは誤謬伝説である。その伝説がいつ、どうやってできたか、ということも明らかになっている。すなわち、大聖人滅後二百年頃、京都要法寺の僧侶・左京日教が富士重須方面に来て大石寺に帰伏し、その数年後、『類聚翰集私』という書の中に「天生ヵ原に六万坊を建て、法華本門の戒壇を立つべきなり」と述べた。これが天生原に戒壇、という説が出てきた最初(これを日亨上人は「まじめな後人を誤らす空談」と非難している)。

さらに八十年後、京都要法寺の日辰が重須方面での伝聞として、『御書抄・報恩抄下』の中に「富士山の西南に山あり、名をば天生山と号す。(略)彼の山において戒壇院を建立」と書いた。これが天母山戒壇伝説の始まり。

この天生山(天母山)戒壇説について、二十九世日東上人は「尤も辰抄の如きなり」と仰せられ、日辰から始まったものである、と断ぜられている。ゆえに、これは要法寺系の左京日教と日辰から始まった誤謬伝説であり、それ以前の記録には片鱗も見られないのである。

〈邪難〉
日興上人の認められた大石寺大坊棟札の裏書に「天母原に三堂並びに六万坊を造営」とあるように、これは宗開両祖以来の正義である。

【破折】
大坊棟札の裏書については、すでに本宗の碩学・日亨上人が、その文字を江戸時代の御家流と呼ばれる書体であることを明らかにして「徳川時代のもの」(堀ノートより)と断定されている。

また、大坊棟札といいながら、その日付は大石寺大坊の完成より半年も後である他、日興上人の御名が間違っていたり、あるべき花押がなかったり、すでに後世の贋作たることが確定しているのである。このことを三十年も前から教えてあげているのに、淺井は唖法の婆羅門のごとく、いまだにまともな反論もできていない。

〈邪難〉
顕正会では戒壇建立の勝地を天生原と言っており、天母山などと言っていない。

【破折】何を言っているのか。これまで浅井は

「事の戒壇は天母山に立つべし」(『冨士』昭和五十年三月号)

とか、

「天母山と天生原は、果たして離れた異地にあるのであろうか。(略)中心の小高い丘を天母山といい、そのふもとの広がりを天生原という。まさに一体の地名」(『顕正新聞』第四五七号)

などと、言い続けてきたではないか。

今さら、黒を白と言いくるめようとしても手遅れである。そして、かの天母山には戒壇を立てられるような広大な場所はどこにもなく、また、「一体の地名」も何も、天生原という具体的地名の場所は存在しないのである。

〈邪難〉
しかし、大石寺の歴代上人方も「天生原に戒壇建立」と言っているではないか。

【破折】
それはすでに明らかにしたとおり、要法寺系の日教・日辰から始まった誤謬伝説が大石寺にも入ってきてしまったためであり、ゆえに六十六世日達上人は「だから、どなたがおっしゃったからといって、あながちに、そのまま取っていいというものじゃない。(略)よく噛み分けて進んでいかなければならない」と仰せられたのである。

その上で、御歴代上人方は、誤謬伝説とはいえ、先師から伝えられた天生原に戒壇という説を軽々にせず、また実際に天生原という特定の地名も存在しない故に、大石寺の所在する大石ヶ原を天生原なりと拝されたのである(注・天母山ではない)。以下に引用する文をよくよく吟味せよ。

「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。」(二十六世日寛上人『報恩抄文段』)

「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。(略)広宣流布の時は天子より富士山のふもと天母ヶ原に本門戒壇御建立ある。」(四十四世日宣上人『世界之日蓮』)

念のため言っておけば、事の戒壇とは即ち本門寺であり、大石寺が広宣流布の暁に本門寺となる。それは次の御指南に明らか。

「富士山の下に戒壇を建立して本門寺と名付け」云々。(日寛上人の六巻抄)

「広宣流布の日は、当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号す可し。」(三十一世日因上人御指南)

もって御歴代上人方の御意(天生原すなわち大石ヶ原、大石ヶ原に所在する大石寺が広宣流布の暁に本門寺戒壇となる、との御意)は明らかである。

〈邪難〉
大石寺は広宣流布を待つまでの仮の宿であり、天生原こそ本門戒壇の立つ霊地である。そこが大石ヶ原(大石寺)と異なる異地だからこそ、名称も違うのだ。

【破折】
かつて顕正会では何と教えていたか。すなわち、

「下条より約半里ほど離れた北方に大石ヶ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。

かくて、日興上人は弘安二年の戒壇の大御本尊をここに厳護されると共に、広宣流布の根本道場として地名に因んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号されたのである。これが日蓮正宗富士大石寺の始りである」
(『冨士』昭和三十九年九月号)

として、本門戒壇建立の地が大石寺である、と説いていたではないか。それを後になって、都合で正反対の主張に変えて知らん顔をしている─これでは顕正会の主張が魔説たること、明々白々ではないか。