―浅井昭衛一派の妄説を摧く―
摧破異流義考
内容の目次
はじめに
宗祖日蓮大聖人は、『三大秘法抄』に
「所説の要言の法とは何物ぞや。(中略)実相証得(じっそうしょうとく)の当初(そのかみ)修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(御書一五九三㌻)
「此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり」(御書一五九五㌻)
と仰せられ、三大秘法(本門の本尊と戒壇と題目)が久遠(実相証得の当初)より常住する法であること、そして、それは大聖人の御一身即本門の本尊の御当体に具備することをお示しである。
ゆえに、我が日蓮正宗においては、古来、本門の本尊なかんずく宗祖出世の御本懐たる弘安二年の大御本尊を、「三大秘法総在」とも「一大秘法」とも申し上げ、信仰の根本として尊崇申し上げているのである。
しかるに、浅井昭衛なる増上慢の一在家(昭和四十九年に日蓮正宗より破門)率いる一派が、この三秘総在の深義も弁えず、第六十六世日達上人・第六十七世日顕上人猊下の戒壇に関する御指南に異義をはさみ、宗門を誹謗中傷し続けている。
彼らの邪義・主張は、すでに日達上人の御代に様々な角度から破されており、付け加えるべき何物もないのであるが、哀れ、彼らの末端は浅井から全てを知らされておらず、浅井らに煽動されるまま、目の色を変えて会員増やしに狂奔しているのが現状である。
しかも、厚顔無恥といおうか、日蓮正宗から破門されていながら、なお、日蓮正宗を詐称し、勝手に顕正会などと名乗っている(※平成八年以降は宗教法人格を取得し、「冨士大石寺顕正会」と自称している)ため、構成員のほとんど大半は、この一派が、すでに即身成仏の血脈の断絶した、異流義の門外漢と成り果てていることに全く気付いていない。
これを、このまま放置すれば、彼らのみならず多くの人達が成仏への道に迷う結果となるは自明である。
そこで、これまで浅井一派が当方との誌上法論を逃げている経緯や、浅井と息子の克衛が苦し紛れの讒言を吹聴している現状(顕正会機関紙『顕正新聞』昭和六十三年九月二十五日号に代表される)を鑑みて、この際、彼等の妄説の根源を一気に摧破すべく、小稿を起こすことにした。
なお、この内容の大半は、別段、目新しいものではない。すでに何年も前に『暁鐘』誌上に掲載せる小論等を、何も知らぬ浅井一派の末端会員のために、一篇に集め、加筆し、まとめ直したものである。
一、本門事の戒壇について
日蓮大聖人の御化導中、三大秘法の名目が初めて示されたのは、佐渡流罪中の文永十一年に御認めの『法華行者値難事』においてであり、以後、種々の重要御書をもって三秘の内容・意義を明かされている。
しかし本門の戒壇については、ただ名目のみを挙げられ、その内容、意義については直接に説き示されることはなかったのである。
そして、御入滅間近の弘安五年に至って、初めて『三大秘法抄』に、
「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり。此の戒法立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なればやく益あるまじ」云々(御書一五九五㌻)
と説かれ、さらに日興上人への御付嘱状たる『一期弘法抄』に、
「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり」(御書一六七五㌻)
と示したもうたのである。
以来、この本門戒壇の意義については、本宗の御歴代上人方が時に応じて分々を御指南あそばされてきたが、近年、浅井昭衛らのごとく、この本門戒壇の深義に異見を生ずる誹謗の輩が出来してきたために、第六十六世日達上人は、御相伝の法門によって本門戒壇の意義と内容を整理・体系化せられ、戒壇に関する教義の詳細を初めて明確にお示しくださったのである。
今、その御指南を拝して、本門戒壇の意義を簡略に述べてみる。
戒壇に事義の立て分け
大聖人の仏法における戒法とは、爾前迹門の教法を捨てて独一本門の本尊を受持(この受持とはむろん受持信行の意である)し、即身成仏を遂げることであり、天台の理の戒に対すれば事の戒となる。
それは天台の説く教法が迹門理の一念三千であるのに対し、大聖人は文底独一本門事の一念三千であり、しかも末法今時においては、『上野殿御返事』に
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」
(御書一二一九㌻)
と説かれるごとく、いかに法華経に即身成仏の教はあっても、事実として即身成仏の利益を生ずるのは大聖人の南無妙法蓮華経に限られるからである。さらに第二十六世日寛上人の『文底秘沈抄』に
「当流の意は事を事にあら顕わす」(聖典八三八㌻)
とお示しの意によれば、天台が理念的に法華経を受持するのに対し、事の一念三千の法体を事相の上に本尊として建立されていることもまた、天台仏法を理、大聖人の仏法を事とする所以といえよう(むろん事理の立て分けの正意は、教法の体そのものに事理の異なりがあることによる)。
したがって、大聖人の顕わされた本門の本尊を受持し即身成仏を遂げていくことが、末法における事の戒法となるのである。
また、本門の本尊を受持するということであるが、最初に授戒を受けるのも、以後の修行も、すべて本門の本尊御安置の場所で行なわれる。その場所を戒壇といい、即身成仏の戒法を成就せんとする者は、必ず、この戒壇に詣でて信行に励むのである。
ところで、大聖人一期の御化導は、弘安二年十月十二日の大御本尊に極まる。この大御本尊こそ、末法の一切衆生即身成仏のための事の一念三千の当体にして、本門の本尊の究極の実体にあらせられる。
ゆえに、この弘安二年の大御本尊御安置のところ、すなわち本門事の戒壇でありこれに対すれば、天台宗延暦寺の戒壇は末法に無益な迹門理の戒壇となるのである。
次に、この事の戒壇に対し、他の大聖人御認めの数多の御本尊、また日興上人以来御歴代の書写せられた御本尊所住のところを、義の戒壇と申し上げる。
それは、これらの御本尊は悉く根源の弘安二年の大御本尊の分身散影であり、根源に対する枝葉の関係にあたっているから、信行者が各寺院・家庭において御本尊に向かうところ、その意義は事の戒壇にあたり即身或仏の戒法を成就する。すなわち義理が事の戒壇にあたるところから、あえて根源の事の戒壇と分けて説明するときには、義の戒壇と称するのである。
以上のような事の戒壇・義の戒壇の立て分けは、日寛上人の御説法を四十三世日相上人が科段に分けてお書きになった『三大秘法の事――大貳(たいに)阿闍梨(日寛上人)御講の聞書』にも「在々処々本尊安置の処は義(理)の戒壇なり」とされ、「富士山戒壇の御本尊御在所は事の戒なり」と示されているのである。
さて、こうした事・義の立て分けによる根源の事の戒壇は、『御義口伝』に
「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云ふなり。此(ここ)を去って彼(かしこ)へ行くには非ざるなり。(中略)今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処は山谷廣野皆寂光土なり。此を道場と云ふなり」(御書一七九四㌻)
と仰せの意、また御相伝の『戒壇御説法』に
「戒壇の御本尊いま眼前に当山に在す事なれば、此の所すなわち是れ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」とお示しであることから拝すれば、何時、いかなる場所であろうとも、根源の大御本尊を奉安格護申し上げるところが即、事の戒壇である。
広布事相における戒壇
この根源の意における事の戒壇の上に、さらに広宣流布の事相において建立される事の戒壇がある。
それは、日寛上人の『文底秘沈抄』において、本門の本尊に関し、
「当流の意は事を事に顕わす」(聖典八三八㌻)
と仰せられ、事の法体を事相の上に本尊として顕わすことを示され、また本門の題目に関し、
「事を事に行ずるが故に事と言うなり」(聖典八三二㌻)
として、事の一念三千を事行の上に題目くしよう口唱することを示されている意をもっていえば、本門の戒壇についても、大御本尊まします事の戒壇(この戒壇は、何時いかなる所であろうとも事の戒壇、という根源の意である)を、さらに現実の広布達成の事相の上に全世界の信仰の根本道楊として建立する、との二重の意義が拝せられるのである。
その、広布の事相の上に事の戒壇を建立せよとのごゆいめい御遺命こそ、さき前に掲げた『三大秘法抄』及ひ『一期弘法抄』の御文に他ならない。
かかる「事」の二重の意義を、初めて体系的に明示あそばされたのは、日達上人であられるが、これを浅井の息子の克衛あたりが、小生の初めてなした大誑惑、とわめ喚いているらしい。じつに恐るべきち無知という以外ない。
そもそも、本尊・題目については「事」の二重の意義を認め、戒壇についてだけは認めない、というならば、三秘それぞれの円融相即性を否定する邪見となり、理の通ぜぬ闇者と呼ばれてもしかたかないではないか。
また、日寛上人ほか御歴代が、この意義を直接的に文の面に顕わされなかったことにも理由が拝せられるが、それは後述する。
ともあれ、
「仏法と申すは道理なり」(御書一一七九㌻)
との御金言のごとく、戒壇の事・義の立て分け、根源の事の戒壇と広布事相における事の戒壇の立て分けという、戒壇に関する日達上人の御指南は、理これ明らかにして、万代に揺るぎなき正義てある。
しかるを、あくまでも「広宣流布の暁に初めて事の戒壇が建立される。ゆえに広宣流布以前は事の戒壇はない」と固執し、ついには「広宣流布の以前は事の戒壇を建ててはならないはず筈なのに、宗門・日達上人は正本堂をさして事の戒壇と称する大誑惑をなした」等と誹謗するのが、浅井昭衛の妄説の大要であるが、それは、一切の法義の根本を御相承によって掌にされている、血脈嗣法の御法主上人に離反したために陥った浅見というべきてあろう。
およそ、広宣流布以前に事の戒壇がなかったり、広宣流布によって初めて三大秘法・六大秘法が成就するなどということは、よくよく考えてみれば、大聖人が宗旨を成就せられぬまま御入滅されたことになってしまうのであり、本仏日蓮大聖人の円満無欠の御化導において、かかることがありえようはず筈がない。
もとより三大秘法・六大秘法は、悉く一大秘法たる弘安二年の大御本尊に収まり、大聖人一期の御化導中において究竟しているのである。ゆえに日寛上人は、『依義判文抄』に
「三大秘法総在の本尊を明かすなり、総在の本尊とは題目・戒壇の功能を具足する故なり、また亦一大秘法の本尊と名づく、題目・戒壇の功能を具すと雖も但是れ一個の本尊なるが故なり」(聖典八六七㌻)
と仰せられているのである。また、事の戒壇について明かされた『三大秘法抄』に、
「此の戒法(※事の戒法・事の戒壇)立ちて後、 延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじ」(御書一五九五㌻)
と仰せられている一節についても、広布を待って初めて事の戒壇が顕われるというならば、それまでは迹門の戒壇によっても益がある、ということになってしまうではないか(むろん、すでに延暦寺には真言の邪法が混じり、像法適時の迹門戒壇という意義すら喪失していたのが実態ではあるが)。
やはり、大聖人によって末法適時の大法たる事の一念三千・三秘総在の大御本尊が開顕せられた時、すでに大御本尊の当体のところに根源の本門事の戒壇は具足していたのであり、同時に、日輪の光明に月の明かりが消えるごとく、迹門の理戒もその一切の利益を失ったのである。
日寛上人御教示について
また、日寛上人の『文底秘沈抄』には、本門の戒壇を事・義に分かたれ、本門の本尊所住のところは義理が事の戒壇にあたるが故に、一般的に
「義の戒壇とすなわは即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり」
(聖典八四九㌻)
とせられ、さらに事の戒壇については、
「正しく事の戒壇とは一閻浮提の人、懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天・帝釈も来下して蹋みたもうべき戒壇なり」(聖典八四九㌻)
として、根源の意を含ませつつも、次下に、『三大秘法抄』の広布の事相における戒壇の御文を事の戒壇の文証として挙げられている。
しかしながら、この御教示とて、広布の事相における事の戒壇の根源には三秘総在の大御本尊がましますのであり、その三秘総在の大御本尊の所住、さらにいえば当体そのものが根源の事の戒壇であることと、何ら矛盾するものではない。
ただ、日寛上人の『六巻抄』における教学体系の表面に、この根源の事の戒壇の意義が記されなかった理由については、当時の富士門流の状況と『六巻抄』御著述の背景を考えてみなくてはならない。
まず第一に、弘安二年の大御本尊は、唯授一人において相伝せられ、大石寺の奥深く秘蔵厳護されて広布の時を待っておられたのであるが、当時の富士門流の布教は徳川幕府の圧政に妨げられ、内拝の信徒もごく少数に限られていた。
こうした状況のもとにあっては、広布の時も程遠いと思われ、富士門流としては、大御本尊はまだまだ秘蔵中の秘蔵の扱いをもって、未来の時を待たねばならなかった。
したがって、日寛上人が三大秘法の開合を御書に基づいて述べられるにあたっても、弘安二年の大御本尊の御事を軽々に表に顕わさず、「一大秘法」「本門の本尊」等の抽象的表現と、『三大秘法抄』等の御書の面に顕われている文証とをもって、三大秘法の開合、本門の本尊と戒壇との関係、戒壇の事・義の立て分け等々を示されたのである。
しかしながら、その奥に、日寛上人が弘安二年の大御本尊を拝され、大御本尊の当体及び所住を根源の事の戒壇とせられていたことは、『依義判文抄』の
「本門戒壇の本尊をまた亦三大秘法総在の本尊と名づくるなり」(聖典八六三㌻)
との仰せ、また日相上人の御代まで伝承されてきた『大貳阿闍梨御講』中の御指南によって明らかであろう。
第二に、『六巻抄』の理論体系は、当時の他門流の不相伝家なる故の邪義に対し、これを破折するため、御書の文証を基準として組み立てられた。
そのため、事の戒壇についての御教示においても、広布の事相における戒壇を示された『三大秘法抄』の御文をもって、ただちに事の戒壇の文証とせられ、弘安二年の大御本尊の当体及び所住を根源の事の戒壇とする表現を避けられたのである。
以上のような日寛上人の、当時の時代性に応じた法門の表現と、対他のために著述された『六巻抄』の性質をよく弁え、その御真意を誤りなく拝すべきであろう。
なお、また、日寛上人以降の御歴代におかれても、こうした『六巻抄』の理論体系を基として、戒壇についての御教示を展開あそばされた故に、あたかも、広布事相上の戒壇を基本の事の戒壇として、それ以前は、戒壇大御本尊所住の処を(義理が事の戒壇にあたる故に)義の戒壇とするやの表現が拝せられる。
しかしながら、これは、戒壇に関する法義の全てを、未だ明かすべき時至らざる間の、時代に応じた御教示たることを知らねばならない。
先例として、本宗で方便・寿量の二品のみを読誦する深義についても、途中までは全く体系的に明示されることがなかったが、他門流から我見の議論や批判が出るに及んで、方便品読誦については日興上人、寿量品読誦については日寛上人の代から、初めて、その全てが説き明かされた。
同様に、戒壇の本義については、今日、浅井昭衛の妄説出来を待って、第六十六世日達上人が、甚深の御相承の法義を拝されつつ、初めて体系的に明示あそばされたのである。
ここに至って、日寛上人が、三秘中、本尊と題目についてのみ示され、戒壇については残されてあった、「事」の二重の意義が顕然となり、また、戒壇御本尊と他の御本尊との関係による事・義の立て分けの真義が明瞭となった。
浅井らは、ともかく、御歴代のどなたが仰せである、ゆえに宗門古来からの定義である等きようべんと強弁するのみで、法門の道理よりも、単なる「言った、言わない」論に終始しているが、じつに低次元きわまりない、文字どおりの浅い教学ではないか。
そもそも、広布の暁に建立されるという戒壇の建物と、大聖人出世の本懐たる大御本尊の当体及び所住と、いずれを事の戒の根本として法義を展開すべきか、寛尊の「一大秘法」「三秘総在」との御教示を拝すれば、筋道は明白である。
したがって、日達上人が御相承の法門の上から、戒壇に事・義を立て分けられ、さらに根源の事の戒壇と広布の事相における事の戒壇とを説き示された御指南は、日寛上人の御教示の奥に拝せられる御真意と、いささかも異なるものではないのである。
まさに、「唯仏与仏。乃能究尽」の文を見るごとくであり、浅井ごとき一在家がこれに異義をさしはさむなど、増上慢の極み、狂気の沙汰と断ずる以外にない。
もっとも、浅井の妄説出来が、戒壇に関する大事の法義開示の機緑となったのであるから、
「魔及び魔民なりとも皆仏法を護る」
の意味において、正法興隆の役に立ったと言えなくもない。その逆即是順の功徳によって、浅井は、千劫阿鼻地獄に堕ちた後、再び日蓮大聖人の正法に値遇することであろう。
二、戒壇建立の勝地について
前にも引いたように、宗祖日蓮大聖人は『三大秘法抄』に
「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」(御書一五九五㌻)
また『一期弘法抄』に
「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり」(御書一六七五㌻)
と仰せられ、国主が正法に信伏した暁(広宣流布達成の時)、一閻浮提の人の信仰の根本道場として、富士山下に大本門寺戒壇を建立せよ、と御遺命あそばされている。
ここで、大聖人が
「本門寺の戒壇を建立」
と御示しになっているのは、『百六箇抄』に
「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書一六九九㌻)
とあることからも明らかなように、富士山下に本門寺を建立し、その本堂に三大秘法総在の弘安二年の大本尊を安置せよ、の意である。
ゆえに、二十六世日寛上人は『文底秘沈抄』に、
「富士山下に建立する戒壇を本門寺と名づく」(聖典八五六㌻)
と仰せなのであり、〝広布の事相に建立される事の戒壇〟とは、まさに富士山本門寺(なかんずく本門寺本堂)のことをさすのである。
この点を見誤って、何か〝本門寺〟と〝事の戒壇〟とを各別に考えている向きもあるようであるが、本来、広布の暁に建立する戒壇とは富士山本門寺のことであり、その大本門寺建立の御遣命を奉じ、一天四海広布をめざして折伏弘教に邁進するところが、我が日蓮正宗七百年の伝統なのである。
兼日の治定は後難を招く
さて『三大秘法抄』『一期弘法抄』また『百六箇抄』等を拝するかぎり、大聖人は戒壇建立の勝地は富士山下である、とだけ御示しあそばされて、それ以上、具体的に、どこそこに、どういう方向で、どのような形をもって建立せよ、とまでは述べられていない。
その理由については、日興上人の御弟子で、『五人所破抄』の著者として有名な三位日順師が、『本門心底抄』に
「戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後難を招くあり、寸尺高下き註記する能はず」
と述べているごとく、戒壇の建立は将来に属することである故、あらかじめ詳細を限定することを避けられたものと拝せられる。
さらに、これにつき五十九世堀日亨上人の『富士日興上人詳伝』には、
「大聖人は、本門戒壇のあるべき所を『富士山に』と定めて日興上人に内示せられたけれども、将来のことであるから、『三大秘法抄』にも『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を』等と下総の太田殿に示された」と。すなわち、本門寺戒壇の御遺命は将来に属する事柄である故に、大聖人は、「富士山に」という御構想を、御相承書たる『一期弘法抄』及び、『百六箇抄』をもって日興上人にのみ内示せられ、太田殿に与えられた『三大秘法抄』においては、あくまでも慎重を期されて「富士山に」という広い地名すら伏せられているのである。
いわんや、戒壇建立のさらに具体的な場所(例えば何郷・何村・何字というような場所の限定)、方角、建築様式等については「兼日の治定」を避けられた、と拝するのが当然といえよう。
かくて大聖人は、「富士山に本門寺の戒壇を」という御内意を唯授一人の付弟日興上人に示され、その実現を後世に委ねられたのである。
四神相応の大石ヶ原
日興上人におかせられては、身延ごりざん御離山後、この大聖人の重大な御遺命を胸に富士へ赴かれ、大石ヶ原の地を選んで本寺を建立せられた。申すまでもなく、これが富士大石寺の創建である。
ここで、日興上人が大石ヶ原を選ばれた理由であるが、『富士一跡門徒の存知事』には、大本門寺の建つべき所、日蓮大聖人の本願の所として、
「駿河国富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり、二には四神相応の勝地なり」(御書一八七三㌻)
と述べられている。
この「四神相応の勝地」とは、後・北・玄武蛇亀丘陵、左・東・青竜水流、右・西・白虎道大、前・南・朱雀地汚の地形をいうが、『存知事』においては、この四神相応の地形を富士山下の実際の地勢にあてて述べることはされていない。
これを、五十九世堀上人が『富士日興上人詳伝』中で詳しく研究せられ、大石ヶ原こそ、四神相応の地形に近似した勝地であることを証明せられた後、
「まさに四神相応に近からずや。富士四山(おもす重須、下条、小泉、西山)の地勢は、大いにこれに遠きにあらずや。おのおの、その開基時代相地の用意・不用意、深く味わうべきことで、ことに我れら開山日興上人・開基旦那南条時光の、遠き未来を鑑みての十二分の御用意に感謝すべきである」
と仰せられている。
すなわち、日興上人は、広布の暁に大本門寺を建立するにふさわしい四神相応の勝地として、大石ヶ原を選ばれ、この地に本寺を建立あそばされたのである。
大石寺は将来の大本門寺
寺号は、地名をもって「大石の寺」と称されたが 日目上人への譲り状たる「日興跡条々事」には、この大石寺について
「大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり」(御書一八八三㌻)
大石寺を整備拡充しつつ広宣流布の時に備えよ、と仰せられている。
それは、後に三十一世日因上人が、
「広宣流布の日は当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号すべ可し」
(研究教学書十六巻七一㌻)
と仰せられ、また、四十四世日宣上人の御説法に、
「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す」
(『世界之日蓮』)
と仰せられていることからも、すでに四神相応の勝地を選ばれ、しかも、そこに建立した大石寺を整備拡充し広布の時を待て、と遣命された日興上人の御胸中には、この大石寺こそ広布の暁に大本門寺へと発展すべき根本道場である、との御構想があったものと拝せられるのである。
しかしながら、おそらくは日蓮大聖人が「後難を招く」ことを御配慮あそばされて「兼日の治定」を避けられていることからであろう、日興上人も、いまだ「大石寺が即本門寺となる」と断ずる表現おおやけは公に用いられず前の『跡条々事』の御文のごとく、すべてを後継の三祖日目上人へと託されたのてある。
そして、七百星霜を経た今日に至るまで、日興上人の選ばれた大石ヶ原の勝地に、寺域を整備しつつ、大石寺は、戒壇の大御本尊と御歴代上人のまします聖域として存続してきた。
今日、大石寺の三門には、『日蓮正宗総本山』と記した大看板が掛けられているが、山号・寺号は何処にも掛けられていない。それは、富士大石寺の名称が地名をとって仮に用いられたものであり、やがて広布の時至れば、〝富士山本門寺〟を公称するが故である、と伺っているが、日因上人、日宣上人等御歴代の御指南のごとく、この大石寺が広布の暁に大本門寺戒壇となるべきことは、今日の状況からみてもはや確実といえよう。
また、それをめざして、さらに弘教に励み大石寺を外護していくことが、日興上人以来、御歴代上人の御遺志に応え奉る道に他ならぬのである。
なお、浅井昭衛は、前掲の日因上人・日宣上人の御指南について、「これは、身延等の不相伝家諸山に対し、大石寺には戒壇の大御本尊ましますが故の御指南であり、大石寺が広布の暁を待って大本門寺となるという文意ではない」というような支離滅裂・意味不明の怪釈を加えているが、このような天をさして地というごとき珍無類の説は、口頭で一方的にまくしたてている中では取繕えても、後になって物笑いの種になるだけである。
念のため申し添えておけば、日因上人は『富士記』中、身延や北山に対して大石寺を「当山」と仰せられ広宣流布の時至れば、その「当山」をもって「多宝富士大日蓮華山本門寺」と号せよ、と仰せられたのであり、また日宣上人の『世界之日蓮』中の御教示は、三歳の赤子にでもわかるように、今は「多宝富士大日蓮華山大石寺」であるが、広宣流布の時至れば、「本門寺」と号するのである、と明確に仰せられているのである。
これが全く逆の意味に読めるとすれば、すでに浅井昭衛は、永年にわたる宗門誹謗の失によってずは頭破七分しているのではないか。浅井の側近幹部は、一日も早く、強引にでも、浅井に精神鑑定を受けさせた方がよい。衷心より忠告申し上げておく。
天母山戒壇説とその起こり
さて、以上のごとき重大意義を有する大石寺をさして、浅井昭衛は、広宣流布の時を待つまでの仮の寺くらいに軽賤し、天母山戒壇説をもって宗開両祖以来の正義であると主張するのである。
だが、すでに述べてきたことからも明らかなごとく、宗開御両祖等、上古の時代の富士の教義においては、富士山に本門寺戒壇を建立すべきことが示されていても、天母山に戒壇建立などという説は片鱗もみられない。
しかるに、それが何時の頃から、誰によって唱えられ始めたか。
まず、大聖人滅後二百年頃、京都要法寺僧であった左京日教が、大石寺・おもす重須方面へ来て本宗にきえ帰依し、その数年後の一四八八年にあら著わした『類聚翰集私』に、
「あもうがはら天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」(富要集二巻三二三㌻)
と、天母山ではないが、初めて「天生原」云々と述べている。
しかるに、昔も今も、富士山下に「天生原」という地名はなく、これが具体的にどこを指すのか不明であるのみならず、現実問題として、六万の坊舎を建立できるほどの場所は何処にも見出だせない。それ故、五十九世日亨上人は、これを、日教師が心の中の観念・空想を述べた文であるとして、
「まじめなこうじん後人を誤らすこと大なり」(富士日興上人詳伝二六八㌻)
と指摘されているのである。
次に、「天母山」ということが初めて出てくるのは、日教師の説より八十年後の一五六七年、同じく京都要法寺の日辰が著述した御書抄(報恩抄下)においてである。それは、
「富士山の西南に当たりて山あり、名をば天生山と号す、この上において本門寺の本堂・御影堂を建立し、岩本坂において二王門を建立し、六万坊を建立したもうべき時、彼の山において戒壇院を建立」云々
という文であり、ここで初めて「天生山(天母山)」名が出てくるのであるが、それ以前においては、天母山という固有名称そのものがあったか、どうかすら、定かではない。
いずれにせよ、この日辰の記述が、同じ要法寺から出た左京日教師の謬説に基づいて展開されたものであることは確実で、これより以後、天母山戒壇説が世に出ることとなったのである。
しかして、この日辰の時代以降、本宗では、十五世日昌上人より二十三世日啓上人に至るまで、要法寺を出身とする御歴代の時代が続き、この時期、日辰の御書抄はじめ要法寺の文献書籍の大半が大石寺へ移された。
こうした経緯によって、次第に要法寺日辰の天母山戒壇説が本宗に入ってきたのであり、そのことについては、二十九世日東上人が、
「順緑広布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を建て、岩本に二王門を建つ等なりもつと、尤も辰抄の如きなり」
と、天母山戒壇説は日辰の言葉によるものである、と明らかに仰せである。
また、御先師日達上人も、これについて、
「この辺(要法寺の書籍が大石寺へ移された頃)から要法寺系統の法門が入ってきてしまい、六万坊とか天生原、天生山という説が伝わってきた。(中略)だから、どなたがおっしやったからといって、あながちにそのままとっていいというんじゃない。やはり、日興上人、日有上人――日有上人までは立派な本宗の御法門である、それをとって、よくかみ分けて進んでいかなければならない」
と御示しくださっているのである。
大石寺大坊棟札の裏書きについて
なお、また浅井らが、天母山戒壇説を宗開両祖以来の正義なりとする根拠として、金科玉条のごとく尊ぶ『日興上人御筆の大石寺大坊棟札の裏書き』であるが、棟札というからには大石寺上棟の時に人れるはず筈なのに、裏書きの日付は、大石寺が完成した正応三年十月十三日より半年も後の正応四年三月十二日となっており、文字の特徴も徳川時代のもの、内容的にも疑義が多い。
そして、何よりきわめつけは、日興上人の御名の文字が、(※1)日興 と書かれるべきところ、(※2)日興 と間違えているのである。日興上人御筆であるならば、どうしてこのようなことがありえようか。また本来、末尾には筆者の自署・花押が記される筈なのに、「日興日目」という不自然な記名のみあって花押がどこにもない。これも日興上人の御筆ではない証拠である。
※1
※2
姑息にも、浅井は、この件を当方から突かれることを察知して、六十五世日淳上人がこの裏書きの一部、「修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく、広宣流布を待つ可し」の箇処を引用せられていることを挙げ、「この裏書きを後世の偽作というのは日達上人の大嘘だ」などと強弁しているが、日淳上人は元朝勤行のいわれを述べられる中でこの裏書きのうちの、本宗教義と合致する箇処を引かれただけであって、もとより、裏書きの真偽を論ぜられたわけてはない。このような、全く論証性に欠けた反論は、単なる子供騙しであって、恥の上塗りと知るべきであろう。
また、同裏書きに対する疑義は、日達上人が初めて示されたものではない。本宗の碩学・五十九世日亨上人も、すでに、
「この小本尊を模刻して薄き松板に裏に御家流のやや豊かなるふうにて薬研(やげん)彫りにせるも文句は全く棟札の例にあらず。また、表面の本尊も略の本尊式なるのみにて、また棟札の意味なし。ただ頭を角に切りてふち縁をつけたることのみ棟札らし」
と仰せられ、この棟札と称するものは、表が模刻された略式御本尊で、棟札としての意義を具足しておらず、裏書きの文は徳川時代の御家流の文字で、まったく信用するに足らず、ただ全体の形ばかりが棟札らしく似せてあるだけの代物、と断ぜられている。
浅井昭衛は、こうした日亨上人御教示を知っていながら、なお自らの己義を通すために、あろうことか、日達上人に法を付された日淳上人の御指南の一部を故意に悪用して、日達上人を大嘘つきであることにしてしまったのである。こんな不正直の代名詞のような悪人が、もとより難信難解・甚遠甚深の正法を正しく信解できよう筈がない。
提婆達多は、六万蔵を暗記しながらも、正直な信なき故に無間に堕ちたが、丸暗記だけが得意で、不正直を絵に描いたような浅井昭衛も、この提婆の先例を
「敢へて人の上と思しめ食すべからず」(御書八七七㌻)
である。
天生原について
以上のごとく、天母山戒壇説が、本宗本来の教義によるものでないことは明白である。しかしながら、二十六世日寛上人の『報恩抄文段』に、
「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」
と仰せられ、左京日教師が使った天生原(天母原)の名を用いられていることについては、さらに、また一考を要する。
すなわち、四十八世日量上人の御指南に
「本門寺に掛け奉るべしとは、事の広布の時、天母原に掛け奉るべし」
また、五十六世日応上人御指南に
「富士山のふもと麓に天母ヶ原と申す曠広たる勝地あり、ここ茲に本門戒壇堂建立あって」云々
等と述べられているように、日寛上人をはじめとして御歴代上人方の御筆記中においては、ほとんどすべてが天生原と示されており、天母山説をとってはおられないのである。
さらに、四十四世日宣上人におかれては、
「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。此の寺則ち霊山浄土なり也。(中略)広宣流布の時は天子より富士山のふもと天母ヶ原に本門戒壇御建立ある」(『世界之日蓮』)
と仰せられ、大石寺が未来の本門寺戒壇、そして、その在処は天生原であることを御教示され、また、日達上人も、日亨上人の御指南を引用して、
「堀猊下が、四神相応の地として、南は朱雀、汚地としております。今考えると、それよりも南、下之坊の下の田尻の湿地帯があります。北は一の竹よりも北の朝霧から、あるいは毛無山、あれらの高原地帯をさしてもいいのであります。この広大なる地辺こそ、すなわち四神相応の大石ヶ原の大構想である。天生原こそ、ここにありと信じてこそ、真実の我々の心である」
と御指南あそばされているのである。
そこで今、天生原について、字義的な面から考えてみると、天とは、一と大の合したもので、至上最大という意義、また生とは、生ずる、蘇生するの意義(これが転じて母という字を用いる場合が出てくる)、原とは、厂 すなわち岩、岩の下に泉があることをさしており、源、根源という意義を表わしている。
また、実際の地名としては、前にも触れたとおり、富士山下に天生原という特定の場所を見出だすことはできない。
これに、前述した四神相応の勝地という意義、大石ヶ原の地名、また大石寺即本門寺という御歴代上人の御指南等々を思い合わせるとき、天生原とは、まさに大石寺を中心とする広大な大石ヶ原の勝地をさすものと拝してさしつかえがないのである。
分を超えての述ぶるを畏れるも、このことは、要するに、本宗七百年の歴史の途中から天母山説が混入してしまい、後代の御法主上人方は、本宗のもともとの教義にはないことであるけれども、いちおう前代からの伝である故、これを軽々になさらず、会通を加えられて、広域をさす表現として天生原の呼称(ひいては天生原即大石ヶ原という解釈)を用いられたものと拝するのである。それは、大聖人の
「予が法門は四悉檀を心にか懸けて申すなればあなが、強ちに成仏ことわりの理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか」(御書一二二二㌻)
との御金言、また本宗伝統の厳格なる師弟相対信を想い合わせれば、至極当然のことであるが、浅井ごとき増上慢には、こうした絶対の師弟の道を踏まれる御歴代上人の御苦衷など、窺い知ることすらできぬであろう。
なお、本宗御歴代の数多の御筆記中、例外的に、三十五世日穏上人の書の写本といわれる『五人所破抄一覧』、及び『法器抄』に、天生山(天母山)説を述べられた文はあるが、本宗の本来の教義信条と天母山説混入の経緯が明らかとなっている以上、ごく曲意をもっての悪用は慎まなくてはいけない。また何よりも、御先師にあたる三十一世日因上人が、大石寺即大本門寺と御教示せられ、さらに後代の御法主であられる四十四世日宣上人が、天母山説を、大石寺即本門寺の在処が天生原という説に是正せられていることを思うべきである。
しかるに、これが、勝他の念にかられる浅井昭衛の手にかかると、「日穏上人を要法寺亜流と罵っている、日穏上人を誹謗するつもりか」等と、またまた強引な宗門攻撃の材料となる。
いったい、浅井の息子の克衛も同様であるが、自分の已義に都合の悪い御法主の御指南に対しては、口を極めて悪し様に謗り、都合よく悪用できそうな御指南の断片を見つけては、水戸黄門の印籠よろしく仏の金言として振りかざす――このようなあくらつ悪辣なまでのむせつそう無節操を仏教者と呼べるであろうか。じつに、かの提婆達多も、浅井親子の悪逆ぶりには唖然とするであろう。
なにも日宣上人も今日の御宗門も、師弟相対信を弁えぬ浅井ではあるまいし、天母山と云われた日穏上人を罵ったりなどはしておらぬ。常に師の絶対の御徳を仰ぎつつ、どこまでも宗開両祖以来の正義を護持しぬいていく――その峻厳なまでの、弟子としての赤心を知るべきである。
現時における事の戒壇
以上、縷々述べてきたが、今日、天母山戒壇説などを得意満面に振りかざし、本宗が宗祖以来の伝統を忘失したかのごとく、とんでもない言いがかりをつけて、「この戦いは、大聖人がなさしめているのである」等々と、何か、自分達が宗祖遺命を果たす特別な任にでもあたっているかのように思い込んでいる浅井らは、文字どおりの勉強不足、いま未だ得ずをこれ得たりの増上慢と呼ぶ他はない。
いずれにしても、本門戒壇の大御本尊まします我が日蓮正宗富士大石寺こそ、本門事の戒壇の根源にして、広布達成の暁に『一期弘法抄』『三大秘法抄』に御示しの意義を顕現する、大本門寺戒壇の前身なのである。
これに関連して、昭和四十七年四月二十八日の、戒壇に関する日達上人訓諭を拝したい。
「正本堂は一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり、すなわち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。ただ但し現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。」
この御教示について、重ねて説明をしておくと、
まず第一に、大石寺正本堂には戒壇の大御本尊が御安置せられており、大御本尊まします所は何時いかなる場所であっても事の戒壇である、との根源の意義の故に
第二には、『百六箇抄』の一節に
「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書一六九九㌻)
とあるが、大石寺正本堂は、近年における急速な広布進展の相に鑑み、やがて広布の時至れば大本門寺本堂となることを期して建てられた、今日の大石寺の本堂としての堂宇であるが故に
正本堂を現時における事の戒壇とされたのである(※だが、平成三年、大謗法と化した創価学会が本宗より破門となり、これに伴って広布達成の時も遠のいたことで、正本堂が近い将来に本門寺本堂の広布の事相における戒壇となる可能性は失われた)。
じつに、正義は明々にして赫々ではないか。こうした日達上人御指南を「御遺命破壊」などと誹謗する浅井の妄説は、まさに言いがかりの浅い狂学である。
三、戒壇建立の時期について
大本門寺戒壇が事相の上に顕現するのは、すでに明らかなとおり、広宣流布達成の暁である。
しからば、それは何時、どのような状況となった時をさすのであろうか。
日蓮大聖人は、これを、『三大秘法抄』に、
「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」(御書一五九五㌻)
と仰せられ、また『一期弘法抄』に、
「国主此の法を立てらるれば」(御書一六七五㌻)
と仰せられている。
すなわち、仏法と一切世間の法とが深く冥合し、国の主権者および一般民衆の多くが三秘を受持し、しかも仏法を断絶せしめないだけの確固たる外護の体制が成った時、その時を広宣流布達成の時とせられているのである。
日達上人の御指南
こうした大聖人の御金言を体され、日達上人は、昭和四十九年十一月十七日、広宣流布の意義について、
「日本国全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に、純真な、しかも確実な信心をもって、本門の題目、南無妙法蓮華経を異口同音に唱え奉ることができた時、その時こそ、日本一国は広宣流布したと申し上げるべきことである」
と御指南あそばされた。
この御指南は、要するに、今日の日本国の主権者が、天皇でも幕府でもなく、国民であるという、主権在民の現実を鑑みられた上で、さらに、一国に正法が流布され渡り、実質的に、正法によって一国の動向が決せられるまでの状態(『全人口の三分の一以上の人達が』)が実現した時、しかも末法万年の先々までも、この正法正義を断絶させぬという確固たる状態(『純真なしかも確実な信心をもって』)を作り上げた、まさにその時を、広宣流布達成の時と御示しになったものである。
前の大聖人の御金言と照らし、拝するならば、この日達上人御指南は、大聖人の御聖意をそのまま現代に移して展開せられたもので、その間にごう毫のこと異なりも存してはいない。
しかるに、浅井昭衛は、これを、「広宣流布のごまかし、考えるだに恐ろしい御遺命の破壞である」として、『諸法実相抄』の
「広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地をまと的とするなるべし」(御書六六六㌻)
の一節を引き、「必ず、上一人より下万民まで、一人残らず正法を信ずる時が来る。それが広宣流布である。この御金言がどうして信じられないか」等々と強弁するのである。
この、守文の徒ともいうべき偏頗さこそ、浅井教学の何たるかを如実に物語るものといえよう。
もし、御金言をどうして信じられないか等というなら、『災難対治抄』
「日本国中の上下万人深く法然上人を信じ」(御書一九六㌻)
との仰せ、また『撰時抄』の
「上一人より下万民まで延暦寺を師範と仰がせ給ふ」(御書八四五㌻)
「日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり。此の五十年が間、一天四海一人もなく法然が弟子となる」(御書八五三㌻)
等の仰せを、浅井は、いったい、どのように信ずるかであろうか。
これらの御金言は、いずれも、一国の動向を左右するほど広く流布していることを強調して、かく形容せられているのであり、前の『諸法実相抄』の御文も、また同様である。
一文一句にのみ拘泥して、御聖意を読み誤り、かえって、大聖人の血脈を継承せらるる御法主に対し謗言ほしいままも恣にする――こうした浅井の姿勢こそ、浅井らが異流義化した根元であって、未だえ得ずをこれ得たりとおも謂うとは、まさに、浅井のためにあるような経文ではないか。
「建立」の意味について
なお、また浅井は、正本堂建立に関して、「いま未だ広宣流布の時至らざる以前に、究極の建物だけは建ててよい、という文証・道理があったら出してみよ。大聖人は広布の時を待てと仰せなれば、建物を先に建ててしまうことは御金言いはい違背である」等々といっている。
これも、また一文一句にのみ拘泥して、大聖人が、
「本門寺の戒壇を建立」
と仰せられた「建立」の二文字を、ともかく「建築する」という狭い意味にのみ限定して思い込むからいけない。
そもそも、「建立」という語の元意は、はじめて現われる、確立する等の意であり、その用い方によって、さまざまな意味を表わすのである。
たとえば、『百六箇抄』の
「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書一六九九㌻)
との御文における「建立」とは、建築することではなく、御本尊を安置するという意であるし、その他にも、御本尊の御図顕や、一国に仏法が広宣流布することを「建立」と表現された御文等、例を挙げれば枚挙にいとま暇がない。
しからば、御遺命の「本門寺の戒壇を建立」という場合はいかん、というに、その主たる意味は、建築物を建てること自体の重要性を示されたものではなく、まさしく、広布の時至って、一閻浮提の人々が大御本尊まします本寺に詣でるならば、事の戒法の大功徳がはじめて全世界に光被する、という本門寺戒壇の意義の顕現にこそ主眼が存するのである。
しかるを、建物を先に建てるか、後に建てるか、などという論議にこしつ固執する浅井は、本宗信仰の根本がまったく身に染まっていなかったか、あるいは勝他の念から何とかなんくせ難癖をつけんとする修羅の境涯に住しているのか、いずれにせよ幼稚この上ない人間ではある。
また、かくいえば、浅井は、「戒壇建立の手続きたる『勅宣並びに御教書』はどうした、国家意志の表明なくして戒壇は建たぬ」等というのであろうが、いくど幾度も述べているように本門寺戒壇の顕現は未だ将来に属する事柄なのであり、また、その時に重要なのは、広宣流布の達成という厳たる事実であって、それが自ずから国家意志を表わすことに通じていくともいえよう。
大切なのは、勅宣を出すために天皇制を復活させることでもなければ、幕政下における御教書を今日の国会の議決であるなどとこじつけることでもなく、まず一国の動向が正法によって決せられるだけの、確たる状態を確立していくことである。また、「時を待つべきのみ」の御金言のままに、かかる状態が確立するときの早からんことを待望して、折伏弘教に挺身し続けている我が日蓮正宗は、浅井ごとき時代錯誤の守文の徒から、御遺命破壊などと誹謗されるべき謂れは何ひとつとしてないのである。
自らの偏狭さをかえり省みることも能わず、とんでもない言いがかりをつけるのはたいがいにするかよかろう。
しかも、こうした恐るべき増上慢の上から、さらに邪推に邪推を重ねた浅井は、「日達上人が御遺命を破壊して正本堂を建立したのは学会の権力への諂いであり、広布の解釈をごまかしておいて、広布でもないのに昭和六十五年に大石寺を本門寺に改称せん、との大陰謀が今なお宗門ぐるみで進められている」等、甚だ勝手な憶測に基づく筋書き作りをしている。そして、「顕正会が日蓮正宗にあるかぎり、このような誑惑の完結は断じて許さない」等と、憂宗護法の士を気取って檄を飛ばしているのである。
しかし、門外漢の浅井昭衛よ、つまらぬ心配は無用である。すでに述べてきたように宗祖御遺命は何ら破壊などされておらぬし、また、本宗に戒壇の大御本尊と血脈嗣ほう法の御法主上人ましますかぎり、浅井のいうような〝昭和六十五年に本門寺への改称という大陰謀と誑惑の完結〟などの事態もありえぬのだから。
そんな余計な心配より、異流義と成り果てた、自らの後生を、深刻に心配する方が急務であろう。
四、浅井等の血脈軽視・猊座冒涜について
血脈は師弟相対のなかに
大石寺から離反した浅井昭衛一派は、自らを正当化すべく、日蓮大聖人御入滅後も、大聖人から直接に大衆(なかんずく浅井一派)へ血脈が流れることにしようとしている節があるが、これは大いに誤っている。
第九世日有上人は、
「師弟相対十界互具の事の一念三千の事行の妙法蓮華経」(聖典九七八㌻)
「師弟相対する処が下種の体にて事行の妙法蓮華経となる」(聖典九七八㌻)
「手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり云云」(聖典九七四㌻)
「先師先師は過去して残る所は当住持ばか計りなる故なり、住持の見たもう所が諸仏聖者の見たもう所なり」(聖典九七七㌻)
等々と仰せられ、師弟(仏界と九界)相対するところが十界互具・事の一念三千であり、しかも、現在の師(大石寺住持たる血脈付法の御法主上人)に信順して師弟相対する姿を通じ、御本仏日蓮大聖人に師弟相対するところが事行の妙法蓮華経であって、そこに即身成仏が存する、と御示しくださっている。
また『蓮盛抄』にも
「止観に云はく『師に値はざれば、邪慧日に増し生死月に甚だしく、稠林に曲木を曳くが如く、出づる期有ること無し』云云。およ凡そ世間の沙汰、なおもつ尚以て他人に談合す。況んや出世の深理、寧ろ輙く自己を本分とせんや」(御書二九㌻)
と仰せのように、大聖人の教義を学び御内証の法体を信ずるといっても、そこに現実の師を仰がなければ、知らず知らず自己の智慧を中心として法を見る――いわば己心中心の信仰に陥って邪見が増長していくこととなり、けっして大聖人に師弟相対する姿とはならないのである。
したがって、我々大聖人御入滅後の衆生は、大聖人御内証の法体を継承される御当代上人を大導師と仰ぎ、師弟の誠を貫いていく姿を通じて、はじめて御本仏日蓮大聖人に師弟相対することができ、そこに御内証の法体から即身成仏の血脈を取り次いでいただける、と銘記せねばならない。
遺誡置文と師弟子の道
さて、この師弟相対のあり方についてであるが、五十九世日亨上人は、『有師化儀抄註解』に
「『もたげられたる』とは・もちあげたるなり・興起したるなり・奉上するなり。弟子は師匠を尊敬して奉上すること・三世十方の通軌なれば・釈尊は迦葉仏に宗祖は釈尊に開山は宗祖に寛師は永師に霑師は誠師に師侍し、もたげ給ふ、師は針・弟子は糸の如く・法水相承血脈相伝等、悉く師に依って行なはる、師弟の道は神聖ならざるベからず・世間の利害を離れて絶対ならざるベからず(中略)信の手続きに依りて師弟不二の妙理を顕はし・能所・一体の妙義をしよう証する」(富要集一巻一二四㌻)
等と仰せられ、師を尊敬し信じ順うところに師弟の道が成就することを示されている。
しかるに、浅井昭衛等は、『日興遺誠置文』の
「時の貫主たりといえど雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事」
(御書一八八五㌻)
との一節を引き、〝御法主といえども誤りはある、その誤りを命がけでただ糺し、誤りある師をば捨ててこそ、本師大聖人に対する弟子の道である〟等の師弟論を立てるのである。
こうした浅井等の在り方は、けっして真の師弟の道ではありえない。
なんとなれば、まず本宗の御歴代上人は、本仏日蓮大聖人御内証の法体を展転相承され、余の僧俗大衆に法体の功徳(即身成仏の血脈)をお取り次ぎくださる大導師位にましますのである。これは、たとえ、いかなる時代、いかなる状況下においても変わらざる根本であって、この法体を所持あそばされる御歴代上人を、宗祖の御代管(大導師)として伏して尊敬申し上げ、信順しぬくことが、事行の上に師弟相対を顕わす姿なのである。
この根本に立ったうえで、前の『遣誠置文』の一節について考えてみよう。
この一節だけを取り挙げ、その表面的な文意を見るかぎりにおいては、たしかに「時の貫主の説といえども、もし仏法の大綱に相違する己義であるならば、これを用いるべきでない」との意に拝せられる。がもとより、このような事態は、日亨上人が『富士日興上人詳伝』に
「時代はいかように進展しても、無信・無行・無学の者がにわかに無上位(※大導師位)に昇るべき時代はおそらくあるまい。一分の信あり、一分の学ある者が、なんで仏法の大義を犯して勝手な言動をなそうや。(中略)いかに考えても、偶然に、まれに起こるべき不祥事であるとしか思えぬ」
と仰せのように、たとえば寛尊以前の、本宗教学が整理体系化されておらなかった上古の時代などに、ごくまれ稀に起こりうることに対する備えであって、日常の通例と考えるべきではない(幸いにして、そのような事例は発生しなかったけれども)。
しかも、この『遺誠置文』の次の一項には
「衆義たりといえど雖も、仏法に相違有らば貫主之をくじ摧くべき事」(御書一八八五㌻)
と仰せあって、前の「用ふベからざること」に対し、ここでは「摧くべき事」と、師弟の厳然たる筋目が立て分けられている。すなわち、弟子分に許されるのは、あくまでも己義を用いぬ事に止まるのであって、これを逆にいうならば、弟子分にある者が貫主(御歴代上人)を摧くことは許されぬとの師弟相対の深旨が含められているものと拝すべきである。
しかして、貫主の御教示が正義か己義か、その用否を判ずるのは誰かといえば、何よりも第一に後代の御法主上人が判ぜられ、その説を用いられないのであって、これを余の僧俗大衆が軽率に用否を決することは、あまりに分限をこ超えていよう。
もし万一、不幸にして、御歴代上人の御教示に何らかの疑問が感ぜられるとき、弟子分としての取るべき道はただただ、何回となく御法主上人に言上し具申させていただくところに尽きるのである(その中で、かえって、自らのとら捉え方に誤りがあることに気づく場合がほとんど、であろうが)。
それが法体御所持の御法主上人に対し奉る、根本の信に住したうえでの、師弟相対の道を弁えた振る舞いである。
こうした師弟の道のあり方は、師弟相対を主軸とする法華経、なかんずく師弟相対信の上に建立された本宗の信仰においてこそ、もっとも大切な守るべき姿勢といえるであろう。
しかるを、「誤れる貫主と命がけで闘うことが本師大聖人に対する弟子の道」などと称し、宗門と対峙して独自の路線を進み、口汚なく御法主上人を誹謗したりすることは、まさに師弟の筋目を逸脱した異流義の輩となるのである。
日精上人の造仏・読誦問題
さて、こうした所論をなす浅井昭衛が挙げるのは、正信会と同様、十七世日精上人の造仏、一部読誦の問題である。
それは、日精上人が寛永十四年に大石寺に晋山して御登座(御相承を受けられたのは寛永九年)される以前、住職を勤められていた江戸の法詔寺ほか縁故の数ヶ寺に仏像を造立し、同時に『随宜論』等の著書中にも造仏・一部読誦を論ぜられた、というものである。
浅井等は、この問題をことさらに取り挙げて、「間違いだらけである。このような僻事に随ったら大事の仏法はどうなる。ゆえに日興上人は『時の貫主たりと雖も』云々と厳しく戒められたのである」と強調し、さらに、これと同様の非常事態が日達上人の時に再び起こったとして「日達上人が戒壇に関する御遺命に背いた、デタラメきわまる解釈をした、破廉恥だ、無道心だ」等々と口汚なく日達上人を罵り、あげくのはては「日達上人はバケツ三杯の血を吐いて地獄に堕ちた」等という。そして、「このような時は、命を賭して大聖人に忠誠をつ尽くさなくてはならない」などというのである。
だか、こうした浅井等の主張は、史実を自已に都合よく粉飾・悪用する奸計といわざるをえない。
そもそも、日精上人の時代の大衆が、今日の浅井等の如く、「命を賭して」御法主の悪宣伝を広く流したり、「バケツ三杯の血を吐いて地獄に堕ちた」等の事実無根の虚言まで用いて、口汚なく御法主を罵っているであろうか。
もし、当時の僧俗が、浅井等のいうごとく「命を賭して」日精上人を批判したのであれば、それなりに記録も残っているはず筈だが、そのような記録は何ひとつ現存しておらない。このことは、むしろ当時の僧俗大衆が、日精上人に対し奉り、師弟の礼節・筋目を守って大導師として尊崇申し上げていた証明といえよう。
つまり、浅井の言うごとき、大衆が「命を賭して」日精上人を諫め闘ったなどという事実はなかったのであり、それにもかか拘わらず、「大事の仏法はいったいどうなる」というような宗門謗法化の事態は起こらなかったのである。
また、日精上人の造仏・読誦問題そのものについても、今日の宗史研究では疑問符がつけられており、事実、御登座後の日精上人には、御遷化に至るまでの四十七年間、造仏をなさったり造仏・読誦を勧奨なさった、という記録はまったくないのである。そればかりか、日舜上人に血脈相承あそばされるまでの九年間には、御影堂・二天門の建立、総門の再建をはじめ諸堂塔の修復に尽力なさり、『家中抄』等、宗史研究に重要な書を御著述、そして、唯授一人の血脈を継承する御法主として、曼茶羅御本尊を書写あそばされて諸堂に安置され、また信徒に授与されている。
こうした日精上人の多大な功績と、そのごいとく御威徳について、四十八世日量上人は
「諸堂塔を修理造営し、絶えたるをつ継ぎ、廃れたるを興す勲功莫大なり、頗(すこぶ)る中興の祖とい謂うべき者か」(聖典七六一㌻)
とも仰せであるが、こうした数々の日精上人の御功績を、また何よりも、血脈相承を継がれた宝器であられることを忘れ、平気で極悪人か魔障のごとく述べた浅井等は、やはり日蓮正宗の外にある門外漢といわねばならぬと思うのである。
いわんや、日達上人が宗開両祖以来の正義に則って体系的にお示しくださった、戒壇に関する真実甚深の御法門に対し、日精上人の御事を絡ませて誹謗する浅井の説は、まさに荒唐無稽、師敵対の大謗法に他ならない。
大石寺の一門となり通す
浅井等の説く師弟相対のあり方の誤りについて述べてきたが、本宗における師弟相対信はいずこに本源を置くべきか。
『御本尊七箇之相承』には、
「代々の上人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典三七九㌻)
と仰せられ、唯授一人血脈付法の御歴代上人方を日蓮大聖人と拝し、その時代における大聖人の代理者と仰ぐベきことをお示しくださっている。
また、三十五世日穏上人は、先師日元上人より御相承を受けられた際の模様を、次のように御教示せられている。
「元師いわく『日蓮が胸中の肉団に秘し隠し持ちたもうところに、唯以一大事の秘法を、ただ今、御本尊並びに元祖大聖人・開山上人御前にして、三十五世日穏上人に一字一間も残さず悉く付嘱せしむ。謹んで諦聴あるベし』とて、すなわち一大事の秘法御付嘱あり。
並びに開山日興上人・日目上人・日有上人等御箇條の條々、残さず御渡しあってさて元師のいわれるよう、『この秘伝胸中に納めたもう上は、日蓮・日興・日目乃至日因上人・日元その許(もと)、全体一体にて候。なかんずく日穏には当今末法の現住・主師親三徳兼備にして、大石寺一門流の題目は皆、貴公の内証秘法の南無妙法蓮華経と御意得候え』との御言葉なり。」
さらに、日寛上人編『当家御法則』にも、
「末法の本尊は日蓮聖人にて御座すなり也、然るに日蓮聖人御入滅有りて補処を定む、其の次々々に仏法を相属す、当代の法主の処に本尊の体有るべ可きなり、此の法主に値うは、聖人の生まれ替りて出世したも給うゆえ故に生身の聖人に値遇し結緑す」
(研究教学書九巻七四〇㌻)
と示されているが、要するに、何時いかなる状況にあろうとも、富士大石寺の御歴代上人の門流となり通し、けっして離反せぬことこそ、本師日蓮大聖人の御意に適った師弟相対の姿であり、正しく血脈の流れ通う筋目なのである。顕正会員は浅井を信ずる前に、これら大聖人・御歴代上人の御教示を伏して信ずべきであろう。
なお、浅井は、前掲の『御本尊七箇之相承』の御文の文意について、「よく読んでみれば、法体の付嘱を受けたもう嫡々代々の上人が書写された御本尊は、ことごとく即戒壇の大御本尊、即日蓮大聖人の御魂と信ぜよとの御意にすぎない」などと述べている。
しかるに、浅井のいう、御歴代書写の御本尊に約して即日蓮大聖人の御当体と信ぜよ、との文意は、『七箇之相承』の次上の文に、すでに
「日蓮と御判を置き給う事如何。師の日わく、首題も釈迦・多宝も上行・無辺行等も普賢・文殊等も舎利弗・迦葉等も梵釈・四天・日月等も鬼子母神・十羅刹女等も天照・八幡等ことごとも悉く日蓮なり(長文ゆえに中略)本尊書写の事、予が顕わし奉るが如くなるべし。若し日蓮御判と書かずんば天神・地神もよも用い給わざらん」
(聖典三七九一㌻)
と示されているのである。
このことを踏まえ、虚心坦懐に拝するならば、
「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給う事如何。師の日わく、深秘なり、代々の上人悉く日蓮なりと申す意なり」(同㌻)
との御文は、御本尊を書写あそばす嫡々御歴代上人の位に約して日蓮大聖人と仰ぐべき文意であること、天日を見るがごとく明々白々ではないか。苦しい言い逃がれは、所詮、無理というものである。
また、浅井の息子の克衛にいわせると、前に引用せる『当家御法則』について、「この書の題号は『抜書雑々集』であって、これを『当家御法則』などと称するのは大誑惑で、切腹ものだ」そうであるが、この書を謹写せられた二十九世日東上人は、題号を『当家御法則』と御認めになっておられる。克衛のいう『抜書雑々集』というのは、じつは、同書の副題にあたるものなのである。
また、克衞は、ここに同書から引用した一節も、「日寛上人の文ではなく左京日教師の文であって、日寛上人はこれを破折のために引用されたのである」と強弁するが、克衛は何か夢でも見ているのではないか。いったい、どこに日寛上人がこの文を破しておられるというのか。
左京日教師の書中の文とはいえ、これが本宗の信条にも相適う内容である故に、日寛上人が自在に用い、しかも肯定的な意味に構成されているのだから、むしろ、この文は日寛上人の御教示と仰いで、なんら、さしつかえない筈である。笑うべき思いつきはやめるがよかろう。
さらに、浅井昭衛は、何としても御歴代上人を尊崇したくないために、「歴代上人のどなたが『自分は時の大聖人だ』などと云われていようか、そんなことは絶対にない」等として、例証に日達上人お言葉を引いたりしているか、どうやら浅井のような増上慢には、宗教的謙譲心などというものは理解ができぬらしい。
あえて浅井のために教えておくと、日寛上人の『当家三衣抄』には、仏法僧のうちの僧宝を日興上人・日目上人以下「嫡嫡付法歴代の諸師」(聖典九七一㌻)とされており、さらに『真言見聞』に、
「三宝一体」(御書六〇八㌻)
と仰せのごとく、仏法僧の三宝はもとより一体と仰ぐのが仏教の基本なのである。これで充分であろう。
もっとも、浅井教が外道であれば、仏教の基本もわからなくなって当然だが――。あるいは、何も知らぬ一般会員を欺いているうちに、本当に外道にまで堕ちたのかもしれぬ。ただ、ただ、呆れるばかりである。
むすび
以上、日蓮大聖人以来御歴代上人方の御教示を拝し、日蓮正宗を詐称せる浅井昭衛一派の戒壇論、猊座誹謗、師敵対の妄説の大筋を摧いた。
かつて、浅井一派を脱退せる幹部の言によれば、昭和五十一年当時、浅井一派の内部では、
「浅井親子は熱原三烈士の生まれ変わりであろう。その証拠に、甚兵衛・昭衛・信衛と、皆、百姓のような顔つきをしているではないか」
という、吹き出したくなるような話が、真面目に、公然と流れていたそうである(破邪新聞より)。
それが最近では、浅井が、事あるごとに、
「いよいよ日目上人御出現の大瑞。顕正会の使命は日目上人御出現までの露払い。広宣流布・国立戒壇が実現する時には日目上人が出現する」
等と叫び、同時に、宗門・御法主上人を徹底して罵るものだから、とうとう幹部の中からは、
「浅井先生御自身こそ日目上人の再来という見方もある」
との声が出ているとのことである(浅井昭衛が望むなら証言も提示しよう)。
こと、ここに至って、浅井昭衛の邪悪な慢心の正体が明らかではないか。はっきり言う、浅井昭衛よ、一間浮提の座主きどりはやめよ!!日目上人がご迷惑である。
日蓮大聖人は、『佐渡御書』に、
「出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは、これ是仏在世の六師外道が弟子なりと仏しる記し給へり。法然が一類、大日が一類、念仏宗・禅宗と号して、法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加へて、権経のみ弥陀称名ばか計りを取り立て、教外別伝と号して、法華経を月をさす指、ただ只文字を数ふるなんど笑ふ者は、六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし」(御書五八一㌻)
と仰せであるが、おそらくこの浅井昭衛というやから輩の過去の姿として、もっとも考えやすいのは、むろん熱原三烈士でも一閻浮提の座主日目上人でもなく、かの三位房日行であろう。
奸智に長けるのあまり、師をしのぐ慢心を起こし、論争・演説が好きで、師から与えられた名も勝手に変えてしまう。そして、ついには師を捨てるに至る――。
何やら気持ちの悪いほど、よく似ているではないか。
三位房の最期は横死であるが、浅井昭衛も、尊い猊座をあそこまで誹謗していては、末路が目に見えるようてある。
「およ凡そ謗法とは謗仏・謗僧なり。三宝一体なる故なり」(御書六〇八㌻)
との御金言を拝するに、まぎれもなく浅井昭衛こそ謗法者であり、謗法者は一人の例外なくだざい堕在無間というのが仏法の厳しき理である。哀れ、哀れ。