資料集

理境坊所属妙観講、顕正会会長 浅井昭衛との法論に決着を宣言!

自ら法論を仕掛けて途中で逃避した浅井

理境坊所属妙観講では、このほど、同講講頭・大草一男氏と顕正会会長・浅井昭衛との間で尾を引いていた法義論争につき、完全決着したものと認定する、と発表した。
事の次第を説明すると、今から三十四年前の昭和六十三年、妙観講の教線が顕正会とぶつかり、顕正会の中から脱会者が続出した(顕正会にとっては脱会者続出は初めての経験だった)際、これを巻き返そうとした浅井昭衛が、自らペンを執(と)って『顕正新聞』(第四四六号)に「宗内の痴犬・妙観講の実態」なる誹謗(ひぼう)記事を執筆、妙観講への攻撃を開始した。

これを受けて、指導教師の指示のもと、大草講頭が顕正会の誤りを教義上から破折した『摧破異流義考』を執筆、浅井に返答を求めた。
浅井は、これに対し、『顕正新聞』(第四五七号)紙上に「誑惑(おうわく)正当化のこじつけ理論を破す」と題する反論を発表、「この正しい道理に、まともに反論できる者はあり得ない」(第四六〇号)などと自賛した。
だが、浅井が自賛したその翌月、大草講頭は『続・摧破異流義考』を執筆して、浅井の反論を木っ端微塵に粉砕した。

この時点で、浅井らが主張してきた国立戒壇論は、その隅々まで破折され尽くしてしまい、浅井は反論不能に陥って沈黙したのであった。法論の途中で返答に窮(きゅう)すれば、その時点で法論は終結となる(もちろん窮した側の敗北である)が、卑怯未練な浅井は、敗北を認めることなく、部下達に悪口を言わせて逃避してしまった。

こうして、大草VS浅井の法論は平成元年に中断したまま、長い時間が経過したが、この恥ずべき汚点を拭い去ろうとして、浅井は十六年も経った平成十七年に至り、日顯上人に無理な条件を付けた対決申し入れ書を送り、これが予想通り相手にされなかったところ、「日顕上人が逃げた、大草講頭も逃げた」などと喧伝(けんでん)するに及んだ。

あまりの破廉恥な所業に、大草講頭は本紙紙上を使い、あるいは浅井への内容証明文書をもって、浅井に再び法論の土俵に乗るよう厳しく要求した。
だが、一旦逃避した浅井は、二度と法論の土俵に戻ろうとしない。
その上、手下達を使って、大草講頭に「自分が法論から逃げたと謝った上で、あらためて願ってくれば、顕正会教学部が法論の相手をしてやる」などとお門(かど)違いなことを言ってくる有り様だった。

このような状態にあった本年八月、顕正会教学部長・坪田某と対峙していた妙観講幹部・佐々木寛司氏が、「浅井先生は臆病者ではない」「浅井先生はカエリタマエなどと言っていない」(※本紙四月一日号を参照)と強弁して誹謗を続ける坪田らの態度に辟易して、直接、浅井の自宅に手紙を送り、大草講頭との法論に出るよう、要求した。

すると、坪田らは「先生が出るまでもない、法論は教学部が相手をしてやる」などと騒ぎ出し、妙観講本部に押しかけて、この筋違いな要求を繰り返すようになった。

筋違いというのは、すでに浅井から大草講頭に仕掛けた法論は始まっており、その途中で浅井が逃避して中断しているのである。それにも拘(かか)わらず、「先生が出るまでもない」などと言って、チンピラのような連中が出てくる(それも、浅井に代わる代表者という資格でもなく)というのは、浅井の反論不能を誤魔化す所業でしかない。あまりに見え透いているではないか。

これに対し、大草講頭はあくまでも「浅井を連れて来い! いつでも法論をしてやるぞ」と一喝(※本紙九月一日号参照)したが、坪田らはこれをもって「大草講頭が教学部との法論から逃げた」などと宣伝を始めた。
この恥知らずな所業に憤った妙観講・佐々木氏は、浅井昭衛を直撃して、大草講頭との法論に立つ意思があるのか、問い質(ただ)すことを発案。

去る九月二十六日、浅井昭衛を自宅前で捕まえることに成功したのである。(以下はその時のやりとり)

佐々木 浅井センセーじゃないですか!
浅井 何、何?
佐々木 妙観講の佐々木です、先日、お手紙を送りました。
浅井 あ、はぁ、はぁ、はぁ。
佐々木 大草講頭との法論!
浅井 はい、はい、はい。
佐々木 講頭はね、快諾(かいだく)されているんですけど
浅井 はい。
佐々木 浅井センセーは
浅井 はい。
佐々木 法論、立たれないんですか?
浅井 何?
佐々木 法論! 大草講頭との法論ですよ!
浅井 いやいや、もう
佐々木 もう三十年前から、逃げてばっかりいらっしゃるじゃないですか!
浅井 何を、何を言うか(と言って自宅に逃げ込む)
佐々木 逃げるんですか?一言どうぞ。
浅井 バカバカしいこと、言うでない(と言いながら戸を閉めてしまった)

三年前に妙観講の女性講員が訪問した際も、家に籠もったまま「カエリタマエ」などと言って逃げを打ったが、今回もまた「バカバカしい」と言って家に籠もってしまった。そして、浅井の口からは、ついに、大草講頭との法論に立つという言葉も、またなぜ法論に立たないのか、という弁明も、一切聞かれることはなかったのである。

事ここに至って、妙観講としては、もはや浅井が法論の土俵に戻ることはありえない、と判断し、長く中断していた大草講頭と浅井の法論は、浅井の敗北で完全決着した、と断定したものである。
以後、妙観講では、顕正会員に対する折伏をいっそう進めていく方針である、という。

(『慧妙』令和4年10月16日号より転載)