資料集

正本堂にまつわる疑難【Q&A】

御開扉は金儲けであるから即刻中止せよ。

浅井甚兵衛は、昭和四十六年八月二十八日に
「今私共は、宿縁深厚にして時至らざるに内拝を賜ることは、幸いこれに過ぐるものはありません」(『冨士』昭和四六年九月号五頁)
と述べているが、これは金儲けを幸いと喜んだ発言なのか、答えてみよ。

また御開扉を金儲けと思っているならば、妙信講はなぜ昭和四十八年五月、四十九年四月の二度にわたり、正本堂での御開扉を宗門に願い出たのだ、金儲けに荷担することになるではないか。それは妙信講員への裏切りとならないか、答えてみよ。

また、日寛上人は
「本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則は本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ」(寿量品談義・富要一〇巻一三一)
と仰せられているが、日寛上人は金儲けのために御開扉を悪用されたのか、答えてみよ。

阿部管長は細井管長の誑惑を踏襲した御遺命破壊の悪侶だ。

会長の浅井昭衛は、かつて

「自分で勝手に大聖人を崇拝して拝んでも本当の信心は出来っこないのです。功徳はありません。
何故かといえば大聖人の御法は付属を受けた方以外にはその極意がわからないからです(中略)御相承により大聖人の仏法の全体がそのまま唯一人から一人の御法主へと色もかわらずに体内に伝えられて来たからです。
この唯授一人の御相承以外に仏法を清純に後世に伝えて行く活手段はありません。
だからわれわれは唯付属を受けられた御法主上人に随順し信心して行けばよいのです」(『冨士』第二号・昭和三七年二月号二四頁)

と述べていたが、そもそも御遺命を破壊しているか否かは誰が判断するのか。まさに大聖人以来の極意を伝持される御法主上人ではないか。ならば、御法主上人の御指南に随順すべきであり、それに反する現在の浅井昭衛のすべてが御遺命破壊の大謗法ではないか如何。

宗門は国立戒壇を棄てた。その名称が紛らわしいから使わない、というなら、その具体的な事例を挙げてみろ。

日達上人が、一閻浮提広宣流布の観点、さらに民主主義国家における布教の阻害となる観点などにより、国立戒壇不使用の御指南をされたのは、昭和四十五年五月三日である。
しかし、妙信講顕正会は、その半年後に、国立戒壇の名称を不使用とした御遺命破壊の宗門と揶揄する総本山大石寺に御登山し、「御内拝に只々感涙」(『冨士』昭和四五年一一月号)等と感涙に咽んでいるのは、如何なる事か。

御遺命違背の謗法の山と罵るならば、登山して喜んでいる場合ではない。謗法与同ではないか。しかも同号において「日寛上人の仰せに云く、三大秘法いま大石寺にあり」と小見出しを付け述べる様は、本門三大秘法、本門戒壇の大霊地こそ総本山大石寺と、浅井妙信講が定め、その当時は御遺命破壊だとは思ってなかった何よりの証拠ではないか如何。

さらにまた「いざ広宣流布の日近し」と宣うにおいては、昭和四十年の浅井昭衛の「すでに広宣流布の時は来ております」との発言と軌を一にするものであり、その当時の日達上人や菅野日龍贈上人の広布を鼓舞する御指南や御発言を御遺命破壊と罵るならば、その矛先はそのまま過去の浅井や妙信講自体に向けられるべき自家撞着の愚難ではないか。

紫宸殿の御本尊があることからも明らかなように、もともと天皇家は日本の国主であり、皇室には戒壇の大御本尊を守護する大使命があるのだ。

紫宸殿の御本尊と伝わるものは、実質的には師資伝授の御本尊と称するのだ。それは、弘安二年の本門戒壇の大御本尊を中心に下種仏法のすべてを守護する大使命があるのは、大聖人から血脈相伝を受けられた日興上人であり、それ以降、日興上人からすべてを託された日目上人並びに嫡々付法の血脈上人が代々伝授されていることからも明らかだ。
なお、御書の中で、閻浮広布の上から、日本の国主のことを「小島のぬし」(『種々御振舞御書』御書一〇五七)とも呼ばれている御指南を深く拝せ。

国立戒壇を捨てた経緯は、共産党の追及に学会が怯み、その学会に宗門が屈したのだ。

そもそも大聖人の御指南に国立戒壇なる語は一切無い。あるなら出してみよ。
その後、昭和二年に至るまで、実に七百年もの間、国立戒壇なる単語自体、宗門に一切無かった呼称である。
ゆえに大聖人の本門寺戒壇の御遺命は国立戒壇では無い。大聖人は『三大秘法抄』で戒壇建立の手続きを「勅宣」「御教書」と示されたが、「国家が戒壇を建てる」とは一言も仰せられていない。

迹門の戒壇は「勅宣」が発布されて建立されたが、初代座主の義真が叡山の敷地内に建立したのであり、国家が建てたものではなく、国立戒壇ではなかった。
ゆえに本門の戒壇も同様、大石寺が大本門寺に改称され、その敷地内に戒壇本堂を建立することになるのであり、それは国立戒壇とはならない。

ではなぜ、本門の戒壇は、国立戒壇でなければならないのか、答えてみよ。
日達上人におかれては、時を鑑みられ、昭和初期以降、一時的に宗門においても使用された国立戒壇の語を、閻浮広布の観点、さらに布教の阻害となる観点などにより、下種仏法の本義の上より熟慮なされて不使用とされたのであり、証拠無き単なる非難中傷の類にすぎない当該邪難は舌爛口中の大罪に値することを断じておく。

正系門家は信心堕落して、偽戒壇・正本堂まで建てた。師敵対だ。

先に挙げたが、昭和四十年五月二十五日の総幹部会において、浅井昭衛が発言した「いよいよ意義重大なる正本堂」「宗門全体の重大な慶事」「妙信講も宗門の一翼として講中の全力を挙げ真心を込めて猊下に御供養をさせて頂く」「全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こう」とは、まさしく正本堂への本門戒壇の大御本尊を安置することを礼讃していた証拠ではないか。明らかな自語相違である。

広宣流布の以前に戒壇を先に立ててよい、という御金言を出してみろ。

『三大秘法抄』に
「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」(御書一五九五)
と、また『一期弘法抄』に
「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ」(御書一六七五)
とあるが、最終の戒壇義は未来なるも、一先ず日本国の人口の十分の一の衆生が広布を熱望して大御本尊御安置の堂宇を御供養して何が悪いのだ。
その堂宇を先に立ててはいけないとは書かれていないではないか。

では、広宣流布以前に、大御本尊安置の戒壇堂を建ててはいけない、という御金言を出してみよ。
日達上人は、昭和四十年の第一回目の建設委員会の御指南、昭和四十七年の訓諭において、正本堂は最終の本門寺戒壇ではない、との趣旨を仰せである。ゆえに当該邪難の戒壇が最終の本門寺戒壇を意味しているならば、質問自体が狂っており誤質だ。

なお、その戒壇が、大御本尊まします本門戒壇堂を指しているなら、御金言を示すまでもなく、かつて浅井昭衛が何度も奉安殿に登山参詣した過去を直視せよ。なお、平成十六年に日顕上人が正本堂の意義付けに関して「言い過ぎやはみ出し」があったとの悔悟の御指南をされたのは、現状における、池田大作が正本堂建立を切っ掛けに驕慢謗法になり、正本堂を供養した大多数の数百万の信徒が退転したからであり、逆に広宣流布していたら出てこない発言である。

それは、日顕上人の
「正本堂が『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を含むと言っても、それは大勢の信徒が本当に御戒壇様を拝する姿があって初めて、そう言えるのであります。しかし現在、その姿は全然なくなっているではないか。最近では、戒壇の大御本尊様にすら疑いや文句を付けている」(大日蓮・平成一六年一二月号)
との御指南からも明らかである。

ゆえに、それをとっこにして浅井昭衛が日顕上人を誹謗することは筋違いである。
なぜなら、浅井昭衛ら顕正会は、とうの昔に破門された本宗とは無縁の異流義、単なる邪宗だからである。本宗の御法主が本宗の僧俗に訓示した内容に関して、他宗他門に兎や角言われる筋合いはない。況んや、かつて浅井が
「正本堂は立派に完成いたしました」(『冨士』昭和四七年一一月号)
と讃歎したり、その後、昭和四十八年と四十九年の二回に亘り正本堂での御開扉を願い出ていた、においておやである。ならば、その当時の日達上人の御指南、つまり正本堂の意義付けに関して納得したから願い出たことになり、それを今になって「言い過ぎ」等の発言に対して文句を付けると言うことは、当時の浅井本人の行動自体が「はみ出し」ていたことになるではないか。呵々。

正本堂の誑惑の証拠は、これを御遺命の戒壇だとした日達上人の次なる言葉だ。「この正本堂が完成した時には、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華・昭和四三年一月号)

ではなぜ、その一年後の昭和四十四年に誑惑だとした総本山に妙信講は登山したのか、答えてみよ。
また昭和四十年当時、浅井昭衛は「すでに広宣流布の時は来ております」(『冨士』昭和四〇年九月号一二頁)と述べているが、これも御遺命破壊の言葉になるのか、答えてみよ。

なお、日達上人におかれては、昭和四十七年の訓諭に関する浅井への解説文の中で、流行と流溢の広宣流布を御指南されている。流行とは因の広宣流布を指すが、当該御指南は、流溢の広布を目指すべく、衆生を鼓舞されたものであることを熟慮せよ。

 

宗門の行う御開扉の付願は、大御本尊を利用した僧侶の私服を肥やす金儲けの謗法行為だ。

『千日尼御前御返事』に
「去ぬる文永十一年今年弘安元年まではすでに五箇年が間此の山中に候に、佐渡国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし」(御書一二五三)
と記されるように、身延の大聖人の許に、八十六歳の老体にもかかわらず、女房の千日尼から託され種々の御供養を携えた阿仏房は、わずか五年の間に三度も参詣している。
大聖人は、三度にわたり夫を身延まで送り出し付け届けをした千日尼の強盛な信心を讃嘆し、その渇仰恋慕の志は、大地よりも厚く、大海よりも深いものであると褒められている。

言うのも憚るが、では、阿仏房に託した千日尼の御供養を受けた大聖人は、金儲けとなるのか?事情があって参詣が叶わない信心の同志から御供養を託されて、それを届けたら、相手先が金儲けとなるのか、謗法行為なのか…。そうではあるまい。断じて、そのようなことがあろう筈は無い。
御開扉の付願とは、どうしても参詣が叶わない方の強っての志を、大御本尊様の御許にお届けする意であり、言うならば格別なる御慈悲である。
それを無下にする当該主張は、無慈悲以外のなにものでもなく、それこそ大御本尊の御威光を遮断するごとき大謗法と断ずる。

大聖人の御金言を正宗のように一般信徒に読ませるのはおかしい。僭越だ。

『日興遺誡置文』の
「当門流に於ては御抄を心肝に染め」(御書一八八四)
の御指南に背く邪義謗法だ。では、大聖人はなぜ在家信徒に御法門を書き留めたお手紙を多数出されたのだ。
波木井実長に充てたお手紙(御消息)の中には「御談義有るべし、大事の法門等粗申す」(『南部六郎三郎殿御返事』御書六八五)と、御書に記された未曾有の大法を学問するよう仰せられているが、その御指南を蔑ろにする邪義謗法である。
所詮、当該主張は、大聖人の大慈大悲の御化導の深意を理解していない己義我見に過ぎないと知れ。