資料集

顕正会雑感 -救いようのない人達-

莫迦(ばか)の一つ覚えのように、宗門に対し「国立戒壇」「御遺命破壊」を声高に叫ぶ顕正会。

大聖人の御金言に関する自己流の解釈が絶対正しいと主張し、七百年の長きにわたり大聖人の崇高な教えを死守してきた日蓮正宗教団、なかんずく血脈付法の御歴代上人を「教えを曲げた僧」として口を極めて悪口雑言している。

これが、既存の権威を利用しつつ破壊し、異流義を打ち立てようとする者の常套手段であり、こういうのを「法盗人」というのである。大聖人の教えに信じ従うのでなく、自らの名聞名利のために「信心利用」しているのであり、うわベは大聖人の信者を作ると見せながら、じつは自分の信者を作っている、無慙極まる人々である。

すでに別な信仰になった一闡提人

明治時代に国家主義が高揚したとき、本門戒壇の別称のように使われたのが「国立戒壇」の謂(いい)である。もとより御書にその語はなく、それも、たった四人の御法主上人が使われたのみで、最後に使われた六十六世日達上人が「今後は使わない」と決定された言葉である。

その上で、本来の呼称「本門戒壇」一本に戻しただけなのに、その決定を、池田大作の「圧力、権力、金力」に屈したとか、罵詈雑言を極めている。

まったく道理がわからないというか、一闡提の輩とはこういう人たちのことをいうのだろう。彼らはすでに、別の信仰を持っているので、三宝を敬ってもおらず、僧を罵倒しても怖くないのである。

提婆達多と同じ破和合僧の重罪

御書に
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書九二頁)
「伝持の人無ければ猶(なお)木石の衣鉢(えはつ)を帯持せるが如し」(御書六七八頁)

とある。相伝の人、伝持の人とは血脈付法の御歴代上人の御事であるが、顕正会には相伝も伝持も何もない、単なる新興宗教である。

このような偽物は、自らが本物を凌駕しているかのように吹聴しようとして、自分の偉大さを誇張する。前例としては、提婆達多の五法が有名である。自分の方が釈尊より、五点にわたって優れた修行をしていると称し、多くの仏弟子を引き抜き自分の弟子にしたのである。破和合僧である。

昔、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の大唐西域記に「伽藍の東、百余歩の所に大きな深い坑(あな)がある。提婆達多が毒薬で仏を害しようとして、生身で地獄に落ち込んだ処である」とあるのを読んだことを思い出す。

破和合僧は無間地獄に堕ちる重罪である。今日において、偽物の顕正会が、法華講員を惑わし顕正会に誘うことこそ破和合僧の大罪である。

誰もが広布達成を期待した当時

また、正本堂落慶の時の高僧方の讃嘆の辞を「御遺命破壊の言葉」と攻撃していることについて。

当時の正本堂は、その規模において、仏教史上未曽有の大建造物であった。
夜、新幹線に乗車した時、電光に浮かび上がった白亜の建物に、車内アナウンスで「皆様、左手に見えるあの白い建物は、日蓮正宗総本山大石寺の正本堂です」と放送があったことを記憶している。

正本堂は日本国民を驚嘆せしめた大建造物であったのである。そして、当時の日蓮正宗の御僧侶は誰しも「広宣流布は近きにあり」と感じた。

しかし、広宣流布が達成するとか、三大秘法が整足するとの言葉はあっても、正本堂には日蓮正宗僧俗しか参拝できなかった。大御本尊が公開されて何びとも自由参拝できる、という広宣流布の姿ではなかったのである。

よって高僧方の言辞は、称賛と同時に、未来に対する期待、目標であることは、誰もが了解していたことである。

仏の説示も実情も解(かい)せぬ狂信者

では、まだ完全に達成していないものを、達成するかのように言ったことは、仏法上いけないことであろうか。

法華経化城喩品にこんな説話がある。一人の導師が衆人を率いて、険難な道を案内して宝処に赴かんとしたとき、衆人が疲れてもう進めないと感じたとき、導師は壮麗な化城を作り、そこを宝処と称して衆人を歓喜せしめ、疲れを癒さしめた。十分疲れが癒されたと見た導師は「宝処は近きに在り、此の城は実に非ず。我が化作(けさ)ならくのみ」と。そして「汝今勤め精進して当(まさ)に共に宝処に至るべし」と。

この導師の言動、本物ではない化城を宝処と称して衆人を歓喜せしめ、その後、これが宝処でないことを示し、しかし本当の宝処は近いから、頑張って到達しよう、と激励したのは、不妄語戒に反するであろうか。反しない、というのが仏の教えである。

翻って、七百年間一日も休まず広宣流布達成の祈りが捧げられ、初めてようやく実現可能かと思われる時代が到来した。高僧方の最大の賛辞があっても当然ではないか。宗内僧俗への悦びと激励の言葉が述べられたことも、何の不思議はない。後から見て過大評価であった(広宣流布達成にならなかった、化城であることがわかった)ことになっても、謗法だとか御遺命破壊などに当たろうはずがない。

当時の実情もわからず、宗内僧俗の心情も知らぬ、今日の若い顕正会員が、浅井に踊らされるまま、日蓮正宗宗門を誹謗する様を見て、あまりの狂信ぶりにため息が出る。

狂信者の無間地獄滑落はほど近い

『四恩抄』には
「仏の為に髪をそり、袈裟(けさ)をかけている者(僧侶)なら、片時も禁戒を受けず無戒であっても、その僧を悩まし、罵(ののし)り、杖で打つなどすることがあれば、迫害を加えた者が積む罪は、万億の仏の身より血を出す者よりも多く確実に無間地獄に堕ちるのである」(趣意)
とある。

相伝の僧、伝持の僧である日蓮正宗の御僧侶を悩ます顕正会会員は、間もなく到来する自らの無間地獄滑落の日を、覚悟するがよいだろう。
また、道理も筋道もわからない、狂気の顕正会員が、「法論しろ」などと言って来たら、ただ一言あるのみ。

「御書にも無い国立戒壇という一言で御法主上人を侮辱(ぶじょく)し、会館に出所不明の本尊を祀(まつ)って礼拝させている大謗法の人間と話すことなど何もない。一日も早く脱会し、大謗法の罪を反省懺悔しなさい。無間地獄が口を開けて待っていますよ」と追い返すのみ。

むろん、一般の顕正会員に対する折伏は別として、後日の宣伝の意図をもって寺院にやってくるような狂信者には、この一言が折伏である。
真面目な法論をしようとすることなど無意味、時間の無駄であろう。

『慧妙』令和3年6月1日号より転載