資料集

これが顕正会の言い掛かりの手口だ 法論の現場ですぐに使える!5つの論難と破折

莫迦のひとつ覚えのように出してくる論難「高僧の発言に御遺命破壊があったら!?」うっかり術中に嵌(は)められないように注意

最近の顕正会教学部(※教学部などと呼ぶには値しない。言葉尻を捉〔とら〕えた言い掛かりを並べるだけの連中だが、適当な呼称がないので、「キョーガクブ」等とする)は、ニセ本尊疑惑についての追及に回答することができず、また、国立戒壇論の是非や天母山築壇の疑義についても正面からの反論ができないため、ともかく、日蓮正宗の過去の言説に矛盾(むじゅん)がある、これが御遺命破壊である、との切り口で論争を仕掛けてくる。

たとえば、「正本堂は御遺命の戒壇か?」と質問してくるので、当然こちら側が「違う」と否定すると、馬鹿の一つ覚えのように「過去において宗門が、正本堂を御遺命の戒壇であると言っていたらどうする? 宗門が御遺命破壊であったことを認めるか?」と言って、過去の宗門機関紙などを挙げて、追及を試みてくるのである。

もちろん現在も過去も、日蓮正宗に御遺命破壊など、あるはずもないのだが、うっかり彼らの口車に乗せられて術中に嵌(はま)ると、議論に詰まってしまうことがあるので、用心が必要である。

今回は、こうした顕正会キョーガクブが使う手口を紹介し、併(あわ)せてその疑難に対する破折を掲載する。

未来の広布達成を期待しての発言
それは御遺命破壊になど当たらぬ

顕正会の疑難①

宗門において、正本堂を御遺命の戒壇であると言っていた事実があったら、宗門が御遺命破壊だったことを認めるか?

回答①

昭和四十年代の初め、当時の創価学会による爆発的教線拡大を受けて、宗内には「このまま行けば、ごく近い将来、広宣流布が達成できるのではないか」との期待が高まっていた。

その期待を背景に、「広宣流布が達成されれば、いま建設中の正本堂が『三大秘法抄』『一期弘法付嘱書』にお示しの本門事の戒壇となる」との記述や発言があったのである。
しかし、実際に正本堂が完成した昭和四十七年の時点で、広宣流布は達成されなかったため、正本堂は直ちに御遺命の戒壇とはならなかった。そのことは同年四月二十八日の「訓諭」に明らかである。

それ故、正本堂が落慶して以降、宗門の誰も「正本堂が直ちに『三大秘法抄』『一期弘法付嘱書』にお示しの御遺命の戒壇である(もしくは、御遺命の戒壇になった)」などと言ってはいない。それを公(おおやけ)に発表していたというなら、御遺命に違背したと言えなくもないが、そのようなことはないのである。

重ねて言うが、正本堂が完成する以前に、広宣流布達成を期待して「正本堂は広宣流布の暁(あかつき)の戒壇だ」等の発言があっても、それは、まだ来ぬ未来に対する期待に過ぎないのだから、御遺命を破壊したことになどならない。

こんな簡単な道理もわからないか。だとしたら、顕正会キョーガクブというのは、狂義を学んで洗脳された狂学部だ。

「訓諭(くんゆ)」こそ日蓮正宗の公式決定
以降に「御遺命の戒壇」の記述なし

顕正会の疑難②

もし、宗門の公式出版物等において、「正本堂が御遺命の戒壇である」という発言があったらどうする?

回答②

すでに①で回答した通りである。
また、日蓮正宗における公式決定とは「訓諭」であり、昭和四十七年四月二十八日の日達上人の「訓諭」には「正本堂は一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず」云々として、正本堂を直ちに御遺命の戒壇とはされなかったのである。

この「訓諭」以降に、宗門で、正本堂を直ちに御遺命の戒壇である、とした発言や記述があったら出してみよ。出せまい。そのような発言や記述はないからだ。
所詮、顕正会狂学部の論難などというのは、言葉尻を捉え、相手を煙に巻くゴマカシでしかないのである。

池田と高僧の発言は根本的に違う
浅井の意も正本堂を御遺命の戒壇と

顕正会の疑難③

日蓮正宗の公式ホームページに
「昭和四十七年十月、池田の発願によって総本山に正本堂が建立された。池田は正本堂着工大法要の折り、正本堂の意義について『三大秘法抄』の戒壇の文を引き、『この法華本門の戒壇たる正本堂』(『大日蓮』昭和四十三年十一月号)と発言し、正本堂が広宣流布達成の暁に建立されるべき大聖人御遺命の事の戒壇であることを表明した。

しかしそれは、日蓮正宗の法義から逸脱したものであり、池田が自分こそ大聖人の御遺命達成者であると見せかけるための詐言(さげん)であった」
とある。要するに、池田大作は御遺命を破壊し法義から逸脱した、と書いてあるわけだ。
であるならば、当時の教学部長・大村寿顕(御尊能化。故人)の発言に、

「此の大御本尊安置の本門戒壇堂の建立をば、『富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり、時を待つべきのみ』云々と、滅後の末弟に遺命されたのであります。その御遺命通りに、末法の今、機熟して、『本門寺の戒壇』たる正本堂が、御法主上人猊下の大慈悲と、法華講総講頭・池田大作先生の世界平和への一念が、がっちりと組み合わさって、ここに新時代への力強い楔(くさび)が打ち込まれたのであります」
(『大日蓮』昭和四十二年十一月号)とあるが、この発言も御遺命破壊ではないのか?

回答③

池田大作は、自らが、大聖人ですら建立できなかった本門戒壇を建立した偉人であり、大聖人を凌ぐ仏である、との大慢心を懐(いだ)いており(※このことは暁鐘編集室発行『「池田大作本仏論」を破す』に詳しい)、それを裏付ける現証として正本堂を利用しようとしていたのである。

後から見れば、着工大法要における池田の発言も、このような大謗法の念慮(ねんりょ)から出ていたことが明らかになったので、日蓮正宗の公式ホームページでは「法義からの逸脱」「詐言であった」と批判しているのである。

それと、大村御尊能化が、正本堂が御遺命の戒壇になることを期待して述べられた言葉とは、まるで違うものである。御尊能化の発言は、当時の宗内情勢において、広宣流布達成への機運が高まる中での、純然たる期待の発言である。

これを御遺命違背だと言うのであれば、当時は浅井昭衛も、すでに広宣流布の時が来ている、と述べ、正本堂を広宣流布の暁の御遺命の戒壇としているではないか。その上で会員に、正本堂御供養への参加を積極的に推進していたではないか。これらも御遺命破壊というか。以下に浅井発言を挙げる。

「すでに広宣流布の時は来ております。」(『富士』昭和四十年九月号)

「今回総本山に於いて御法主上人猊下の御思召(おぼしめし)によりまして、いよいよ意義重大なる正本堂が建立される事になります。戒旦の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされるのであります。この宗門全体の重大な慶事に、妙信講も宗門の一翼として講中の全力を挙げ真心を込めて猊下に御供養をさせて頂く事になりました。(拍手)

実に日蓮正宗の生命は大聖人出世の御本懐であらせられる戒旦の大御本尊様にましますのであります。この大御本尊は大聖人様より日興上人へ御付属せられて以来広布の時を待って歴代の御法主上人によって厳護せられて来たのであります。今までの七百年はひたすら時を待たれて御宝蔵の奥深く秘せられて参りました。唯(ただ)そのスキマもる光を拝して一部の宿縁深厚なる信者が許されて猊下より内拝を賜(たまわ)っていたのであります。

その御本尊様がいよいよ時を得て除々に大衆の中に御出ましになる。御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い御思召により、大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります。その深い意義は凡下(ぼんげ)の我々のみだりに窺(うか)がう所に非(あら)ずとはいえ、容易ならぬ事であります。いよいよ大衆の中に人類の中にその御姿を除々におあらわしになる。私共はこの猊下の御思召に同心し奉って、たとえ微力たりとも赤誠を奉りたい。

先生(浅井甚兵衛)は千載一遇のお山への御奉公だと申されております。全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか。(拍手)」(昭和四十年五月二十五日の総幹部会での浅井発言『富士』昭和四十年七月号。『顕正会「試練と忍従」の歴史』ではこの発言を改竄〔かいざん〕して掲載している)

「この御供養は、宗門の歴史をつらぬく大事で、猊下を通して戒旦の大御本尊様への御奉公であり、私達の生涯に二度とはない大福運であります。」(『富士』昭和四十年七月号)

この浅井の発言中、
「内拝を賜わってきた大御本尊がいよいよ時を得て、人類の中に大衆の中に姿をお現わしになる」
とは、いかなる意味か。

前掲の「訓諭」の中に、謗法の徒多きが故に大御本尊は公開せず、とあることから明らかなように、大御本尊は謗法者の少なくなった広宣流布の暁を待って公開されるのであり、その大御本尊がいよいよ大衆の前に現われる、と述べたということは、浅井が、まさに当時、正本堂を広宣流布の暁の御遺命の戒壇、と認識していた証拠である。

「すでに広宣流布の時は来ている」「大御本尊が人類・大衆の前に姿を現わされる」「この御供養は生涯に二度とない大福運」これらの浅井発言を、なんと言い訳するつもりだ。

未来を期待した発言を後から見れば
だが、それは逸脱でも謗法でもない

顕正会の疑難④

『大日蓮』平成三年二月号に、教学部長だった故 大村寿顕(御尊能化)が、先の発言に関して、『正本堂の意義付けに対する反省』として、
「私も、三大秘法抄の御文をあげて、本門寺の戒壇たる正本堂と池田名誉会長と同様の事柄を述べたことがありました」
と述べている。

その後、同年一月三日、阿部日顕管長が、正本堂着工式で池田名誉会長が正本堂を『三大秘法抄』に示される法華本門の戒壇と意義付けした発言に対し、その非を指摘したことについて、大村(御尊能化)は、

「すなわち、正本堂を、一期弘法付嘱書・三大秘法抄に示される御遺命の事の戒壇であると直ちに断言し、意義付けてしまったならば、それは既(すで)に広宣流布が達成したということであって、それ以降は大聖人の仏法を、折伏によって弘教していくという広布への前進が、全く不要になってしまうわけであります。
今回、教師指導会における御法主日顕上人の御指南を拝し、改めて私の発言が、昭和四十七年の『訓諭』以前のこととはいえ、軽率であったことが悔やまれてなりません。」

「私の過去の発言の過ちを反省するとともに、懺悔滅罪の一端とさせていただくものであります」
とまで言っている。

同じことを言った池田大作は『日蓮正宗の法義から逸脱』とされたわけだから、「同様の事柄を述べたことがありました」とはっきり言っている大村(御尊能化)も逸脱であり、だから『正本堂の意義付けに対する反省』として、わざわざ『大日蓮』にまるまる一頁を使って反省文を出している。これは法義の逸脱ではないのか。

回答④

すでに回答した通り、大村御尊能化の発言は、池田発言とは根本的に違う。逸脱でもなければ、謗法でもない。
しかし、広宣流布が達成されるものと期待して述べたことが、実際には広宣流布達成とならなかったことで、今から振り返ってみれば当時の発言は言い過ぎだったことになる、として、大村御尊能化は、素直に正直に、反省を述べられたのである。

池田の大謗法の念慮からの発言とは全く異なっている、と知るべきであろう。
池田ら創価学会は、大慢心の上から、「訓諭」の発せられた後も、それどころか日蓮正宗から破門された後に至っても、正本堂を御遺命の戒壇であることにしようとし続けていた。これと、大村御尊能化の発言とを、同一視することなどできないのである。

「言い過ぎ、はみ出しがあった」とは!?
その御真意をよくよく弁(わきま)えよ

顕正会の疑難⑤

阿部日顯管長も『近現代における戒壇問題の経緯と真義』の中で「今から見れば言い過ぎやはみ出しがある」と、当時の誤りを認めているではないか。

回答⑤

これも前に述べたことと同じである。
日顯上人は、「今から見れば言い過ぎやはみ出しがあった」と仰せであるが、それは文字通り「今から見れば」であって、昭和四十七年当時の情勢において見れば、いまだ広宣流布達成には至らずとも、ごく近い将来に広宣流布が達成され、正本堂も御遺命の戒壇になる、と思われる状況だったのである。

しかし後に、創価学会が違背・逸脱して邪教化したことにより、広宣流布は遥かに遠のき、正本堂も解体することとなった。この今の時点から見れば、かつて正本堂が将来的に御遺命の戒壇になるであろうと言ったことは、言い過ぎやはみ出しだったことになる。日顯上人はそれを仰せられているのである。

このようなことは、神通力などない凡夫の世界では当然ありうることで、謗法でもなければ、違背でも、逸脱でもない。むしろ、虚心坦懐(きょしんたんかい)に「言い過ぎ、はみ出しだった」と仰せられる日顯上人の御境界に合掌すべきであろう。

終わりに

顯正会狂学部の「宗門は御遺命破壊である」という言いがかりは、およそ以上のようなものであり、実際は日蓮正宗にとって痛くも痒(かゆ)くもない難癖(なんくせ)である。
その手口をよく理解し、彼らの口車に乗せられることなく、一蹴(いっしゅう)してやることが肝心であろう。

また、こういう言い掛かりを考えては、得意になって繰り出してくる顕正会狂学部のバカさ加減には、呆(あき)れるばかりである。教学部を名乗ろうというなら、もっと真面目に、国立戒壇論の是非や天母山築壇の疑義について研究し、正義を求めたらどうか。
また顕正会員は、最重要問題である「顕正会のニセ本尊疑惑」について、避けることなく探究し、自らが拝んでいる本尊の真贋(しんがん)を明らかにすべきである。何と言っても、本尊とは根本尊崇の対象であり、これが誤っていたら御遺命どころか、堕地獄必定の大謗法となるのだから。