p { font-size:10px;}
資料集

山崎正友氏の臨終誹謗を斬る

『顕正新聞』七月五日号に、女子部区長・石井某の〝活動報告〟として、「大御本尊の敵・山崎正友は入阿鼻獄 元妻の幼馴染(おさななじみ)から山崎の悪臨終を聞く」との見出しのもと、故・山﨑正友氏の臨終についての誹謗(ひぼう)記事が載った。これがまた、見てきたようなウソで、真相を知っている人達は皆、呆れ返っている。

そもそも山﨑正友氏は、元創価学会の顧問弁護士で、妙信講(顕正会の前身)が正本堂建立に絡んで総本山に反逆した際、前面に立って妙信講と対峙(たいじ)した。その後、正信会を経(へ)て後、過去の謗法行為を悔(く)いて大石寺に帰伏し、理境坊信徒として正信の日々を過ごし、平成二十年、七十二歳でその生涯を閉じた人物である。

浅井昭衛は、過去に山﨑氏に煮え湯を飲まされたことをそうとう根に持っており、今に至るまで「御遺命破壊に荷担(かたん)した五悪人の一人」と言って山﨑氏を毛嫌いし、「身延派に戒壇の大御本尊への攻撃をけしかけた」などと、自らの妄想に基づく中傷(※本件の真相は、青年僧侶邪義破折班発行の『顕正会会長浅井昭衛の〝最後に申すべき事〟を砕破す』に詳しい)をなして憂(う)さ晴らしをしていた。

そして、山﨑氏が亡くなって十年以上も経過した今日、山﨑氏の臨終の相を見た者が現われた、という触れ込みで、石井某による〝又聞き誹謗〟が総幹部会で語られ、それが、そのまま『顕正新聞』に掲載されたのである。

石井某によれば、山﨑氏の遺体の相を見たというのは、「山崎正友の元妻と幼馴染だった鈴木さんという七十代の壮年」だそうで、機関紙配布の縁で知り合った〝鈴木さん〟は、次のように語ってくれたのだそうな。

「知人と元妻から、山崎正友が死亡したとの連絡を受け」
「葬儀の会場に向かうと、そこには大草一男を含め五人ほどしかおらず、祭壇もなく、柩(ひつぎ)だけが置かれていた」
「生前は色が白かったのが黒っぽく、目が吊り上がって怖い顔だった。この世の苦労を全部背負っているような、苦しそうな顔だった」
と。

これだけ聞けば、大方の人は事実として信じてしまうだろう。だが、これが大ウソなのである。

まず、〝鈴木さん〟という人物であるが、山﨑氏が再婚してから長年連れ添い、葬儀の喪主も務めた夫人に確認したところ、夫人は「該当者に全く心当たりがなく、また、そういう人物が葬儀に来ていたという記憶もない」という。

また、「そこ(葬儀場)には大草一男を含め五人ほどしかおらず」として名前を挙げられた大草一男氏(妙観講講頭)にも聞いてみると、
「そのような人物は知らないし、そもそも本宗の信徒でもない一般人が、どうして私を知っていたというのか教えてほしい」
と首を傾(かし)げる。

口を揃(そろ)えて〝鈴木さん〟なる人物は知らないというのだが、それもそのはず、もし、本当に葬儀に来ていたのなら、絶対に「葬儀会場には、大草一男を含め五人ほどしかおらず、祭壇もなく、柩だけが置かれていた」などと言えようはずがない。この描写からして、まるっきりのデタラメなのである。

山﨑氏の臨終は平成二十年十二月二十九日、正月を挟んで、通夜は二十一年一月五日十八時から、そして告別式は翌六日十一時から、東京都杉並区内で行なわれ、これには報道関係者も含め、数百名が参列した。この、通夜と告別式の両日、記録係として写真撮影していた畑中康生氏(妙観講講員)は、顕正会のウソツキぶりに憤(いきどお)り、当日の模様を次のように証言している。

【写真撮影者の証言】

「当日は、晩年における山﨑氏の改悔と誠実な活動を知る多くの方が会場に駆け付け、受付も『一般』『法華講』『妙観講』と分けないといけないくらいの大人数でした。

二階メインの会場はすぐに満席となり、一階のホールを急きょ開けたのですが、そこも満席となって、入りきれないほどの参列者がありました。写真を見ていただけばわかるとおり、祭壇も本当に立派なものでした。このことは、様子を窺(うかが)いに来た学会男子部も目の当たりにして、香典を置いて、そそくさと帰ってしまいました。

どこが、『五人ほどしかおらず、祭壇もなく、柩だけが置かれていた』というのでしょうか。〝鈴木さん〟なる人物が会場に来ていなかった証拠ではありませんか。

そして、通夜は四名の御僧侶、告別式は三名の御僧侶の懇(ねんご)ろなる読経・唱題のもと、大勢の参列者に見送られて、山﨑さんは旅立ったのですが、その遺体は、臨終から一週間も経(た)っているというのに、色も形も損ぜず、半眼半口の大変穏やかな相で、微笑みながら眠っているかのごときでありました。これのどこが、『黒っぽく、目が吊り上がって怖い顔』『この世の苦労を全部背負っているような、苦しそうな顔だった』というのでしょうか。見てきたような嘘とは、このことです。

じつは、あとで顕正会や創価学会がこうした誹謗中傷をしてくるのではないかと思って、私は、山﨑さんの御遺体の相も写真に撮っておきました。この紙面への掲載は控えますが、もし浅井昭衛があくまでも『顕正会は正直な団体で、嘘や謀略など一切ない』と言い張るのでしたら、浅井に出てきてもらって、顕正会の発表が大嘘であることを写真をもって示してあげたいと思います。

いずれにしても、こんな嘘を発表してまで、会員を洗脳しようとする顕正会には、呆れてしまって物が言えません。」

なお、この総幹部会で浅井昭衛は、前出の女子部区長のインチキ発表を受ける形で、
「山崎正友という人物、あー、さきほど女子部の一区長から山崎正友の臨終について報告がありましたが、時と共にすべてが顕われてくるのですね」
と発言しているが、このように、まずは第三者からの伝聞という形で会員に発表させ、それを浅井自身が後押しする形で既成事実化していくのは、顕正会がインチキ話を創作していく際の常套(じょうとう)手段である。

まさに、六十六世日達上人の御臨終に関する誹謗も、また、六十七世日顯上人の御臨終に関する誹謗も、この手法でデッチ上げたのである。ペテン師・浅井の手口をよく知っておくべきであろう。

また、顕正会員は頭を冷やして考えてみよ。日達上人の御臨終の妙相については当時の宗門機関誌『大日蓮』にも記載があり、また多くの僧俗の証言が公表されて、その全てが顕正会による悪口誹謗を打ち砕いている。さらに日顯上人の御臨終に至っては、五千名を超える僧俗が、親しく上人の妙相を拝しているのである。これを、わずか一、二人からの又聞きという形で否定し、誹謗を重ねることが、いかに異常であることか。まさに狂信者の群、という外ないではないか。

そして今回も、山﨑氏の葬儀の模様、さらには臨終の相に関して、同じ手法を使ったがために、浅井顕正会は墓穴を掘ってしまった。まさか、当時の写真が残っていて、それが顕正会のウソを証明することになろうとは、夢にも思っていなかったであろう。「時と共にすべてが顕われてくるのですね」との言葉が、ブーメランのように浅井に帰っていく。呵々大笑。