故なき両上人(日達上人・日顯上人)御臨終への誹謗 顕正会員の皆さん、もう騙されてはいけません! | 顕正会からの脱出
資料集

故なき両上人(日達上人・日顯上人)御臨終への誹謗 顕正会員の皆さん、もう騙されてはいけません!

顕正会は責任をもって両上人誹謗の証人を明かしたまえ
さすれば浅井昭衛の死化粧に関する証人を登場させよう!

近年の顕正会の「体験談」の内容を見てみると、「臨終の相」がその大半を占めている。例えば昨年一年間に『顕正新聞』に掲載された「体験談」は百十六題あったが、その中のじつに七十六題が「臨終の相」についてであった。とはいっても、いずれも第三者が検証できない自画自賛話で、それも、かなり脚色された話だ、との批判が多く聞かれる。

その一方、顕正会は、対立する日蓮正宗の御法主上人を貶めんがために、ここ数年、第六十六世日達上人・第六十七世日顯上人の御臨終の相が悪相だったと、再三言いつのってきた。

証言者は「日達上人の縁戚」と大ウソ!
御尊顔を拝せる立場でなかった“母”

まず顕正会が誹謗の口火を切ったのは、平成三十年九月二十六日の総幹部会でのことだった。この会合において登壇した男子部組長・内藤某が、亡き母親から聞いたこととして、
〝母親は細井日達(上人)の縁戚に当たり、細井日達(上人)がフジヤマ病院に入院した際には、母は三回見舞いに行っている。〟
〝母は細井日達(上人)の葬儀にも参列し、臨終の相を見たが、その相は、今までに見たこともないほどドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるかのような相だった、とのこと。母はひと目見た瞬間、あまりの恐ろしさに親戚の背中に隠れてしまったそうだ〟
等の発言をなし、これを受けた浅井昭衛が、
〝内藤某から細井日達(上人)の臨終の相について発表があったが、始めて聞き、驚いた〟
〝まことに大聖人様の厳たるお裁きを拝見した思い〟
などと嘯(うそぶ)いた。

この許し難い誹謗に対し、本紙は同年十二月十六日号において、実際に日達上人の御密葬に参列して最後の御別れもした、当時の状況をよく知る妙観講講頭・大草一男氏の手記を掲載。

大草氏は、日達上人の素晴らしい御妙相を詳細に記した、当時の機関紙『妙観』(昭和五十四年八月十日号)の記事を紹介するとともに、日達上人の御身内も、「内藤などという人物に心当たりはない」と証言していることを公表した。

さらに、この後、日達上人の御臨終の相を目の当たりにした多くの証人が名乗りを上げ、内藤が語ったことの虚構を破したのである。

さらに本紙は、平成三十一年一月十六日号で
〝日達上人がフジヤマ病院に入院中は、御身内と側近等の特別の方以外は面会が許されなかった。そこへ内藤某の母親が見舞いに来た、などという事実はない〟
〝お別れの儀において、信徒で御尊顔を拝することができたのは、学会首脳や法華講連合会執行部をはじめとする五十人ほどの代表者のみで、そこには内藤某の母親は入っていなかった〟
と、誹謗の根拠を完全に粉砕してしまったのである。

日顯上人誹謗の“証人”未だ明かせず
五千人の僧俗が御妙相を拝した事実

それにも懲りず顕正会は、今度は、令和五年五月度総幹部会で日顯上人の御臨終の相を誹謗し始める。

すなわち、婦人部支区総班副長・浅沼某を登壇させ、
〝新横浜駅で入会させた壮年が日蓮正宗の元僧侶で、阿部日顕(上人)の臨終の相について、友人の宗門僧侶から「その相は、色黒く、恐ろしい形相で、部屋中に悪臭が漂っていた。本来、宗門では死化粧はしないものだが、あまりに色が黒かったので死化粧をするしかなかった。しかし何度塗っても白くならず、最後は厚塗りして何とか白くした」と聞いた、と語った〟
と発表した。しかも、入会したという元僧侶の名も、その友人だという宗門僧侶の名も、明かさぬままである。

これに対し本紙は、令和五年六月十六日号で、日顯上人の御令孫の阿部正教御尊師が上人の御臨終の素晴らしい御様子を、また御遺体の移送を担当した葬儀社社長の能登弘司氏が、御遺体に死化粧を施したことなどない、と証言。

また総本山大石寺においては、御枕経から御密葬終了まで、御遺体の周辺には常に御僧侶が付き添われ、また、登山した五千人もの僧俗が、日顯上人の御尊顔を間近で拝している事実を示し、
「もし、浅沼の言うような『恐ろしい形相で、あまりに色が黒く、何度塗っても白くならず、最後は厚塗りして、何とか白くした』というような状態であったなら、これほど多数の参列者が間近で拝して、分からぬなどというはずがない。

参列者は、御生前よりも色白の、半眼半口で、口元には笑みを含ませられるがごとき、日顯上人の素晴らしい妙相を拝して感激にむせんだのである」
と破折。最後に、
「日蓮大聖人の曰(のたまわ)く、
『詮ずるところ、上品(じょうぼん)の一闡提人(いっせんだいにん)になりぬれば、順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし』(御書五七一頁)
『人は臨終の時、地獄に墮つる者は黒色となる上、其の身重き事千引(ちびき)の石(いわ)の如し』
(御書一二九〇頁)
と。いくら言って聞かせても目の覚(さ)めぬ顕正会員は、これらの御金言を心に刻み、遠からず訪れる浅井昭衛の臨終に照らしてみるがよい。仏法の裁(さば)きの厳しさに震えるであろう」
と忠告したのである。

「浅井の顔には厚塗りの死化粧が」
死相を直視した者の確たる証言

すると、この忠告よりわずか四ヶ月後の十月十六日、浅井昭衛は突然の臨終を迎えた。その浅井昭衛の死相は、といえば、
「半眼半口どころか、目も口もしっかりと閉じており、その顔には粉っぽい白い死化粧が施されていた。そして、きつく横一文字に結ばれ、紫色に変色したクチビルには、赤い口紅が塗られたものの、その下の地色が浮かび出て、ドギツイ赤紫色となっていた。しかも、クチビルの処々に黒ずんだ箇所も見えた」
という、およそ成仏にはほど遠い死相だったのである(浅井の言い方を借りれば、大聖人様によって追放された、まことに厳たるお裁きを拝見した、ということになろうか)。
これは、浅井昭衛の死に顔を数十センチの至近距離でじっくり観察した人物の証言である。

そして、その事実を本紙令和五年十一月一日号で詳報したところ、顕正会員から「証人を出してみろ!」との声が上がった。そのような声が出ることは、もちろん想定内である。

そこで本紙は、続く十一月十六日号において、顕正会が証人の名前も明かさずに日顯上人の御遷化を誹謗中傷してきたことを指弾した上で、
「まず顕正会として、日顯上人の御遺体に厚塗りの死化粧をしたのを見た、という『日蓮正宗僧侶』の名前を明かせ。さすれば、本紙としても、浅井昭衛の死相を確認した『証人』と死化粧の『証拠』を明かすであろう。
また、もし顕正会が、その厚塗り死化粧を見たなどという証人は実在しなかった、と潔く認めた場合も、こちらの『証人』『証拠』を明かすであろう」
と宣言しておいたが、顕正会は今に至るも、「日蓮正宗僧侶」の名前はおろか、会員である「元僧侶」の名前も明かせぬままである。

これではもはや、顕正会による一連の日顯上人誹謗が、まったくの虚偽報道であったと断ずる以外になかろう。

顕正会会長・浅井城衛に重ねて告げる。
日顯上人の御遺体に厚塗りの死化粧をしたのを見た、という「日蓮正宗僧侶」の名前、その友人の「元僧侶」の名前を、今すぐ明かしてみよ。
されば本紙も、浅井昭衛の死相を確認した「証人」と死化粧の「証拠」を明かすであろう。

(令和7年2月1日号『慧妙』より転載)