資料集

菅原某の疑難に対する、妙観講・異流義対策センターの破折③

妙観講 異流義対策センター

『顕正新聞』令和二年十一月十五日付に「寄生虫破折論文」と題する、顕正会法務部次長・菅原克仁の妙観講異流義対策センターに対する反論が掲載されている。
内容は破折論文などいう大それた題名とは異なり、悪口と独善的主張を並べ立てただけの、極めて幼稚で陳腐なものである。

(1) 元々の二点の本題から逃げ回る菅原

もとを辿れば、この菅原との論争は、『慧妙』令和二年二月一日号に掲載された久成坊住職・関快道御尊師の、『三大秘法抄』の「歟(か)」の字の意味について考察された論文について、菅原某が批判してきたところから始まったものである。

さらに、関快道御尊師の論文中、「謗法者が一人もいない世界を必ず実現するとなると、独裁者が真理の裁定権を握り、強権を発動する国家以外、考えられません。それは、入信しない者は処罰あるいは処刑される、恐ろしい世界です」と、浅井の思想を危惧(きぐ)された点についても、菅原は難癖を付けてきた。そこで、『慧妙』が菅原に対し、関御尊師の指摘された「歟」の字についての国語学的反論をしてみよ、と迫り、さらに「浅井昭衛は、最終的に反対者をポアする思想を持っている」という問題を突っ込んで追及したのである。

それに対して菅原は、結局「歟」の字についての国語的反論から逃げてしまい、いまだにまともな説明もできていない。
また浅井の危険思想については、浅井が総本山に送り付けた脅迫状を改ざんした事実まで突きつけて、「浅井の脅迫状の中で、自分達が武装して大石寺へ押しかけ、『流血の惨』を起こすと言っているではないか」と、回答を迫ったのだが、菅原は、この議論からも完全に逃げてしまった。
そして、勝手に、新たな六点の批判とやらを設定してきたが、これについても当方は、一つひとつを丁寧に破折してあげたのである。

要は、元々の論点であった肝心な二点について、菅原は回答不能に陥ってしまい、逃げるために論点をはぐらかしにかかってきた、というわけである。
前回も同じことを指摘したが、菅原はその不都合なことについて、無視して何も触れていない。何たる不誠実、何たる卑怯か。菅原の逃亡は確定である。
菅原よ、汝の挙げた六点についても破折してあげるが、まずは元々の論題であった二点について、逃げ回っていないで正々堂々と反論してみるがよい。

(2)「寄生虫破折論文」という間抜けで的外れなタイトルについて

毎回、菅原某は「寄生虫破折論文」などと訳のわからないタイトルを付けており、思わず笑ってしまうが、そもそも自分達こそが日蓮正宗の寄生虫ではないか。

日蓮正宗宗門から発行された『顕正会 Q&A』(法義研鑽委員会)には、
「宗門七百年の歴史のなかで、血脈相伝の正義に背反した集団が、一時、宗門のパラサイト(寄生虫)となり己義を吹聴した例はいくつかありますが、それらはすべて時の流れとともに消え去っています。顕正会もこの例に漏れず、結局は謗法者浅井昭衛の名を残して、やがて歴史から消え去る運命にあることを知るべきです」
と述べられている。

五十年近くも前に日蓮正宗から破門・追放されながら、いまだに日蓮正宗の御本尊と「大石寺」の名前を利用し続けている顕正会こそ、日蓮正宗にしがみつく寄生虫であり、日蓮正宗宗門からもそのように断ぜられているのである。
かかる寄生虫が、現に日蓮正宗の法華講として認可され、僧俗一致・寺檀和合して活動している妙観講を寄生虫呼ばわりするとは、日本語の意味がわからないのか、頭がおかしいのか、あまりに間抜けで的外れなので、呆れて物が言えない。

(3) 当ホームページへの掲載について

菅原は、「(『慧妙』に掲載しないとの)惨めな逃避宣言がなされたのみ」「『慧妙』とは異なる媒体にコッソリと掲載していたことが発覚した」とか、訳のわからないことを言っている。

『慧妙』令和二年九月一日号に「菅原君が大草講頭に浴びせた悪口誹謗については、逐一の反論を『顕正会からの脱出』という顕正会破折サイトに載せる予定、ということなので、関心のある方はそちらを御覧いただきたい。」と、こちらは最初から、当ホームページに反論を掲載することを、堂々と宣言しておいたではないか。

どう読んだら、「惨めな逃避宣言」「異なる媒体にコッソリと掲載していたことが発覚」などということになるのか。既に頭破七分しているとしか思えない。
菅原は、当方を非難して、反論がお粗末だから目に触れぬようにホームページにコッソリ掲載した、などと言うのだが、それなら、菅原の手で、もっと大々的に当ホームページを宣伝し、当方の反論がより多くの目に触れるよう、衆知せしめてくれたらよい。せひ、そうしてほしいものだ。

じつは、菅原や浅井にとって、会員に知られたくない真実が当ホームページには多数掲載されており、会員に見られては困るのだろうが(笑)。
なお、当ホームページの内容を見て、すでに菅原らの見え透いたウソに疑問を感じた顕正会員からの問い合わせが、何件も入っていることを教えておいてあげよう。

(4) 菅原の詐欺師的な論調について

菅原の破折論文とやらを一読して、煙に巻くような意味不明の箇所が随所に散見された。それもそのはずで、こちらが言ったことを勝手に「こうだ」と作り変えて、こちらが言ってもいない内容にし、それに対して批判を試みているのだ。全く質が悪いことこの上ない。
こんな訳のわからない、菅原の長い駄文など、ほとんどの顕正会員も読んではいないであろう。

菅原としては、紙面に大書きした「寄生虫破折論文」「『六つの問い』に窮し詭弁を弄する大草一党」「『国教』を認めて自滅」等の仰々しい見出しだけ会員の目に留まれば、目的は達成しているのかもしれないが、何とも情けない限りである。

(5) 菅原からの六つの問いに対する破折

既に(1)で述べたように、菅原は、自らが反論不能になっている二点から逃げるために、勝手に別な六点の批判を持ち出してきている。言い掛かりのような低レベルの批判であるが、息の根を止めるためにもお付き合いして破折しておくことにする。

(5)-1 勅宣・御教書の要否について

回答
菅原は、「『慧妙』令和二年二月一日号に掲載された“『勅宣・御教書』は戒壇建立の必要手段ではない”との見解について、これが宗門・早瀬管長の公式見解と『同じか』と問い、仮に『同じ』であれば、歴代先師上人の御指南等を否定することになる旨を念告した。『同じか』と問われているのだから、『同じ』又は『違う』のいずれ一言を回答すれば足りる」として、二者択一を迫っている。

こちらは、そのことに対して丁寧に説明してあげているわけで、既に破折は終了している。「同じ」か「違う」かなどという簡単な話ではないから、きちんとこちらは回答してあげているのである。
それを二択で答えていないから「大草(講頭)が『回答不能』に陥ったことは明らかである」などと言うのであるから、馬鹿ではないか。思い込みと勘違いも甚だしい。

さらに言うならば、菅原は、○○か、○○でないか、二択で答えろ、などと言い、二択で答えていないから失当である、などとしている。
しかし、これは世間法上の発想で、全く仏法の道理に反した考えである。

つまり、仏法の真理は、有であるか無であるか、という二択を超えて、有でもなく無でもない中道を示すものであるから、そもそも仏法上の法義を論ずるのに、「○○か○○でないか、二択で答えろ」などと求めること自体、まさに仏法者として失当である。
菅原は、弁護士としての論理立てをしたつもりなのであろうが、世間法上の尺度で仏法を断じようということ自体、仏法者失格であり、こんなお粗末な者に仏法を談ずる資格はない。

菅原は、「勅宣・御教書」について、①、②、③に「大草(講頭)の反論を端的にまとめれば、次の三点に尽きる」と述べ、当方の反論を勝手に三つに括っている。これが、また全くの的外れなので次に破折する。(以下は、菅原が当方の主張であるとして挙げたもの)

①「歴代先師上人はただ勅宣・御教書の言葉を使われただけ」

回答
これだけ読むと、本当にこちらがそのように書いたように見えるが、そうではない。御歴代上人方が「勅宣・御教書」の出ている『三大秘法抄』の御文をただ引用されただけであって、「勅宣・御教書」について論じられたわけでないと、こちらは述べたのである。
それを「歴代先師上人はただ勅宣・御教書の言葉を使われただけ」というふうに「」をつけて、これをこちらの主張のように見せておいてから、「言葉どおり素直に拝することができない旨を白状」したなどと非難している。こんな、詐欺師的手法はやめるべきである。汝の言うようなことはこちらは述べていない!

②「細井日達(上人)の『必ず勅宣並びに御教書があって』との説法は当時の浅井等に対する慰撫教導の御指南であった、というだけ」

回答
昭和四十五年の御虫払い法要において、日達上人が当時の浅井らに対する慰撫教導の御指南をなされたことについても、「”ウソの説法”を満山大衆に向けて行ったとの珍説を展開した」等としている。

菅原は「慰撫教導の御指南」ということを「”ウソの説法”を行ったとの珍説」ということにしているが、ならば菅原は、法華経の「秘妙方便」をどう捉えているのか。
法華経方便品には「仏が衆生を化導するために用いられた方便は、嘘をついたことになどならない」と説かれている。ましてや日達上人の慰撫教導の御指南が、嘘の説法になるわけがない。

こんなことも理解できず、”ウソの説法”などと言っている菅原のごとき輩には、仏の御教導である「秘妙方便」もウソにしか見えないのであろう。菅原が仏法者ではなく、外道であるということの証明である。

③「広宣流布の暁の国家意思の表明が『勅宣・御教書』かどうかということは、その時の御法主上人猊下のもとに決定されることであり、現在においては不確定」

回答
菅原は、「三大秘法抄の厳重な御定めを、あろうことか『現在においては不確定』などと放言しているのである」などと言っているが、そもそも当方は「三大秘法抄の厳重な御定め」を「現在においては不確定」などと言っているのではない。『三大秘法抄』の中の厳重な御定めとして、「歟」の字が使われているではないか、と言っているのである。その御金言を素直に拝せばよいのだ。

すなわち、「勅宣・御教書」がなくなる時代があるかもしれないと想定して使われた「歟」の字であろうと、日顕上人も仰せられているとおりで、関御尊師もその意味で論じられているのである。

それを正直に、素直に拝することが、「三大秘法抄の厳重な御定め」を守ることである。どうして大聖人が「歟」と言われていることを無視するのか。
冒頭でも指摘したが、いつまでも逃げ回っていないで、きちんと「歟」の国語的見解を説明してみるがいい。

(5)-2 宗門の無節操ぶりと誹謗する顕正会の無節操ぶりについて

回答
こちらは、日淳上人のお言葉中に出てきた国教の意味と、顕正会の考えている国教の意味が違う、と論じたのである。
それに対して、菅原は、「いったい、いつ浅井先生が『日本国民を一人残らず顕正会員にする』とか、広宣流布の手段として『国主・国家権力には断命が許されるなどと、と仰せられたというのか。タバカリも大概にせよ。」と言っているのであるが、実際に浅井は以下のように言っているではないか。菅原よ、とぼけるのもいい加減にしろ。

1) 広宣流布の定義について
日達上人は「日本国全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に純真な、しかも確実な信心をもって本門の題目・南無妙法蓮華経を異口同音に唱えたてまつることができたとき、その時こそ日本一国は広宣流布したと申し上げるべきことであると、思うのであります」(大日蓮 昭和五十年一月号)と仰せられたが、これに対して浅井は「大聖人様が云っていることと違う」として、以下のように噛みついてきた。

「すなわち(日達上人の言葉を)一言で云えば、“日本人口の三分の一が信心した時が広宣流布で、その時には大石寺を大聖人御遺命の富士山本門寺と改称するのだ”ということです。これは広宣流布の定義の改変です。おぼえているでしょう、かつて池田が唱えた『舎衛の三億』というインチキな言葉、妙信講に破折されて以来、学会では全く云わなくなった。その姿を消していた己義が、再び猊下の御指南としてここによみがえったのです。池田はズルイ、みな猊下にいわせている。

だが、たとえ猊下のお言葉であろうとも、大聖人の御金言に反することは捨てねばなりません。
大聖人様は広宣流布について諸法実相抄に『剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし』と仰せであります。どうして三分一の入信で広宣流布であるのか。日本一同にお題目を唱えるようになるのが広宣流布であり、その時が来ることは『大地を的とする』とまで御本仏が断定しておられる。なにゆえ御金言を否定してまで、学会でいうゴマカシの広宣流布を助証してやらねばならぬのか。・・・私にはわからない。」(『顕正新聞』昭和四十九年十二月十日付)

これは、日本国民の何分の一とかではなく、国民が一同に題目を唱えるようになった状態が広宣流布だ、との浅井発言だが、菅原にはこれが全く違う意味に読めるらしい。恐ろしい弁護士がいたものだ。

今日でも、当方が顕正会員との論争の場において、「我々は、絶対に顕正会に入信することなどあり得ない。ならば、日本国民全員が顕正会に入るなどという、あなた方の定義する広宣流布は未来永劫あり得ない」と指摘すると、「最終的に、顕正会に入らない人間は、日蓮大聖人の裁きによって滅びるから、一人残らず顕正会員になるのだ」と、狂信者丸出しの言葉を発する会員が多い。これは明らかに、前々からの浅井の思想が、会員に浸透している姿ではないか。

菅原もこんなことを言っているようでは、実動の顕正会員から「本当に顕正会の活動やってるのか?浅井センセーの過去の著述を全部読んで、もっと顕正会の活動しっかりやれよ。 顕正会の実態知らなすぎるぞ!」と叱責されるかもしれない。
さらに言えば、菅原自身、最近の『顕正新聞』に自ら以下のごとく言っていたことを忘れているのか?

〈大聖人様は順縁広布の時が到来することを
「剰(あまつさ)へ広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は、大地を的とするなるべし」(諸法実相抄)
「ただをかせ給へ。梵天・帝釈等の御計らひとして、日本国一時に信ずる事あるべし」(上野抄)
と御断言下されている。

また、第二十六世・日寛上人も順縁広布について、撰時抄文段に
「終(つい)には上一人より下万民に至るまで、一同に他事を拾てて皆南無妙法蓮華経と唱うべし。順縁広布、何ぞ須(すべから)く之を疑うべけんや。時を待つべきのみ」
と仰せられている。

しかるに、関(御尊師)は信心なきゆえに大聖人様の御金言を信じ奉ることができず、目寛上人の御指南にも背(そむ)いて、「全国民が入信する」のは「理の上の法相」でしかなく、「入信しない者は処罰あるいは処刑」といった強権を発動する以外、「謗法者が一人もいない世界」は実現しないなどと馬鹿げたことを述べ、王仏冥合の事相を「恐ろしい世界」と誹謗する〉

これは、浅井の言っていた広宣流布の定義と全く同じ見解ではないか。いったい菅原の頭はどうなっているのか。
なお最近の浅井は、以下のように、広宣流布の新たな定義を創作しているから、呆れさせられる。

「国民の過半数たる六千万が南無し奉れば、国主も動き、国家意思も決せられ、四十九院申状の仰せも事相となる。これ事実上の広宣流布である。(『顕正新聞』平成二十八年六月十五日付の浅井昭衛発言)」

日達上人の御指南を根拠がないと非難しておきながら、浅井の言う広宣流布の定義には何の根拠があるのか。御金言を出して証明してみるがいい。
それにしても、その場その場で言っていることがコロコロと変節していく浅井の無節操ぶりは、恥ずかしいかぎりである。

2) 謗法者は断命すべきという浅井の危険思想について
「殺生はなによりの悪事であるが、殺された相手のいかんにより、殺した罪の軽重に差が生ずる。さらに一歩を進めれば、一国社会の安全を害するような極悪人に対しては、これを援助する者は大罪を作り、害する者はかえって社会に対し善行をしたことになる。この理(ことわり)により、今日の社会においても、極悪人に対しては国家は死刑を行っているのである。
いわんや正法を破壊する謗法の行為は、現世には国を亡ぼし未来には万民を永く地獄に堕とさせるゆえ、その罪の大なること深きこと、世間の極悪人に勝ること百千万億倍である。これがわかれば、国主たる者は自らの責務として、これら謗法の者の命根を断じても、その極悪を止めなければならない。」(浅井昭衛著『立正安国論謹講』)

浅井はこちらの指摘どおりのことを言っているではないか。一旦発言したものを、知らぬ振りをして、なかったことにしようと試みても無駄である。
一人残らず顕正会員にすると言い、一方では謗法者に対して国主が断命を許されていると言っている。これを合わせてみれば、結局は、入信しない者は国主が断命することによって、一人残らず帰伏した状態を作る、それしかしかないわけである。
このことを関御尊師も危惧して指摘されたのである。

我々は、実際に顕正会の主張を見ているから、なおさら、そのことを指摘しているのだが、それを「いつそんなことを言ったというのか。タバカリも大概にせよ」と言う。謀りも大概にしろ、とはこちらのセリフである。
都合が悪いから、菅原は、浅井が「『国立戒壇』とは、国費によって立てる戒壇の意ではない。広宣流布の暁の事の戒壇は、全国民の燃えるような赤誠の供養によるべきである。また国立戒壇とは、国家権力による強制をも意味しない。信仰は強制によってなし得るものではない(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む)」と逆の意味を述べている部分を引いているのである。本当に不正直だ。

(5)-3『摧破異流義考』で正本堂を賛嘆?しているという件

回答
日顕上人は、「今から見れば言い過ぎやはみ出しがある」と仰せであるが、「今から見れば」とあるように、あの時のあの情勢の中で、このまま広宣流布が達成すれば、正本堂が御遺命の戒壇になるということは、確かにそのとおりで何の間違いもなかったのである。

しかし後になって、創価学会が違背・逸脱したことにより、広宣流布も遠のき、正本堂も解体することになったので、正本堂が御遺命の戒壇とはなり得なくなったのである。
この時点から見れば、あの時に正本堂が将来的に御遺命の戒壇になるであろうと言ったことは、言い過ぎやはみ出しであったことになる、というだけのことである。

また、「たるべき」の議論であるが、「たるべき」が予定の意であろうが当然の意であろうが、要は、あのまま広宣流布が達成されたなら、その時は正本堂は御遺命の戒壇となる、ということで、予定だろうが当然だろうが、どちらでも同じことである (また、その前提となる広宣流布の達成がなくなったから、正本堂は御遺命の戒壇とならなくなり、その時点から振り返れば、あれは言い過ぎはみ出しであった、ということになるだけのことで、それは誤りでも謗法でもない)。

であるから、「誤りを認めるのか?」と問われても、「べつに誤りでもない」という、ただそれだけのことではないか。
菅原は、「御本仏一期の御遺命は一貫不変であり、時の経過によって変わり得るものではない」「当時もまた誤りだったことは明らかである」などと言っているが、いい加減にしろと言いたい。

「御本仏の御遺命が時の経過によって変わり得る」などと、こちらは誰も言っていない。
あの時のあの情勢の中で、そのまま広宣流布が達成されれば、正本堂が御遺命の戒壇になったという話である。

しかしその後、創価学会が邪教化してしまったので、広宣流布が遠のいてしまった。だからこそ、正本堂も取り壊したのである。そこから考えれば、あの時の言った通りにならなかったから、言い過ぎやはみ出しであったと、日顕上人が仰せられているのであり、何も御遺命が時の経過によって変わり得るなどと、誰も言ってはいないではないか。

菅原は、「世間においても凶悪殺人犯が『今振り返ればやり過ぎた。その時はやむを得なかった』と弁解したところで、無罪を言い渡す裁判官はいない」と譬え話を挙げているが、譬えにもなっていない、的外れで滅茶苦茶な話である。
こんなお粗末な理論は、菅原の弁護士としての資質を疑う、狂人の発想である。実際は、その後ろにいる「真の狂人」の指示によるものであろうが。

5)-4
正本堂崩壊後に従前の記述を修正した『新編・摧破異流義考』(平成十年十一月)に「昭和六十三年十月『暁鐘』別冊号より転載」との虚偽を付記して『暁鐘』令和二年一月号に掲載した理由は何か。昭和六十三年版の正本堂に関する誤った記述を隠蔽するためか。誤魔化さずに回答せよ。

回答
当方が「表現こそ違うものの、意図するところは一貫しており、何ら変わっていない」と回答したことに対して「修正前は『たるべき』と『当然』の意味であった文章が、修正後は『たるべき』の文言が削除され、新たに『期して建てられた』と『不定』の意味で読み取れる文言が追加されており、明らかに文意が変わっている。よくも堂々と『意図するところは一貫』などと見え透いたウソをつけるものである。」との言いがかりをつけてきている。
こういう事を言い掛かりと呼ぶのである。

そもそも「『たるべき』が『不定』ではなく、『当然』の意味である」というのは、菅原が勝手に今回主張していることではないか。
前にも述べたが、頭がついてこれないようなので、繰り返し述べよう。

『摧破異流義考』(昭和六十三年)の、「まさに大石寺正本堂は御宝蔵・奉安殿等とは異なり、今日の大石寺の本堂にして、やがて広布の時至れば大本門寺本堂たるべき堂宇である」との記述について。

御宝蔵・奉安殿は、広宣流布を待つ間、仮に戒壇の大御本尊を御安置申し上げるための堂宇であった。これに対し正本堂は、未来に広宣流布ができた暁には、本門寺戒壇になるであろう建物として建てられたのであり、それは日達上人が訓諭で仰せになられたとおりである。
しかし、それはあくまでも将来のことであるから、訓諭では「たるべき」と仰せられ、これに則って『摧破異流義考』でも「広宣流布の暁には〜たるべき」という未来の推量であることを明記しているのである。

つまり、『当然』が『不定』に変わった、などというものではない。ウソをついているのはそちらであろう。
大草講頭はもとより、「あのまま広宣流布が達成されたら、その時は正本堂は御遺命の戒壇となる」ということを一貫して述べてきたのだ。

また、その前提となる広宣流布の達成がなくなったから、正本堂は御遺命の戒壇とならなくなり、だからこそ、『新編・摧破異流義考』の該当箇所には、(※だが、平成三年、大謗法と化した創価学会が本宗より破門となり、これに伴って広宣流布の時も遠のいたことで、正本堂が近い将来に本門寺本堂=広布の事相における戒壇となる可能性は失われた)との加筆が加えられ、本書の『発刊にあたって』にも「多少の加筆訂正を加え」ていることを記しているのである。
都合よく文意を変えてイチャモンをつけてくるとは、とんだ弁護士である。

5)-5
顕正会の「徹底粉砕」を公言していた大草(講頭)が、平成十七年に浅井先生が阿部日顕(上人)に公開対決を申し入れた際、代人として法論に応じなかった理由について〝浅井先生の約定は無理難題ではない〟という以下の論証に反論不能に陥っている。すなわち、「浅井先生は約定として、濫りの御開扉を中止し、広布のその日まで戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉ることを求められたのであり、また曽ての宗門は、戒壇の大御本尊を御宝蔵にて秘蔵厳護し奉り、今日のようなカネ儲けのための登山・御開扉は行っていなかった。ゆえに、浅井先生が示された約定は『無理難題』でも何でもない。仮に、浅井先生が示された約定に不満があれば、対決に応じることを前提に約定の変更を申し入れればよいだけの話である」 。

回答
もう呆れて言葉もない。何度説明すればよいのか。
「およそ宗旨の根幹にして仏法の極地たる大御本尊を法論の条件に利用するなど、宗門としてのめようはずがない」と、何度も示しているが、
およそ大御本尊に対する信心のカケラも持ち合わせていない輩には、理解不能なのだろう、という他ない。

この件については、「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」からも、 「法論とは、あくまでも本宗の弘教のために行われるものである。しかるに貴殿(*浅井のこと)が、烏合の衆たる〝顕正会解散〟と、〝御開扉の中止〟〝御退座〟という仏法の大事にまで容喙する要求とを同列に並べて対決せよと喚くことなどが、正統な法論に該当するものでないことは勿論、また仏法上、言語道断の非道なものであることが貴殿にはわからないのか。

謗法の一在家団体に過ぎない顕正会、しかも本尊も教義も名称までも日蓮正宗の仏法を『猿マネ』している集団が、宗開両祖以来七百年の血脈法水を承継する日蓮正宗と対等なりと思い上がることは、愚の骨頂といわねばならない。

そのような輩が、血脈相承否定の罵詈雑言の場へ御法主上人を引きずり込み、対決すると称するなどは、日蓮正宗の尊厳を貶めんとする大悪謗法の謀略に過ぎない。かかる貴殿の非道極まる〝申し入れ〟などに対し、責任あるお立場の御法主上人がお受け遊ばされることなど、絶対に有り得る筈のない道理であり、また本宗僧俗もそのような馬鹿げた申し出をお受けされることには絶対に反対申し上げる。

さらにまた本宗僧俗の誰人にせよ、そのような非道な〝申し入れ〟を、御法主上人に代って責任をもって受けることなど出来よう筈もない。まさに『狂人』を相手に『不狂人』が走ることなどはあり得ないのである」と切り捨てられているではないか。

さらに、『大白法』にも、
「浅井こそが『たばかり』をしているのであり、『対決申し入れ』も猿芝居に過ぎない。これは姑息にも、妙観講の大草講頭との法論対決から逃げ回っていることからもうかがえる。
要するに法論では勝ち目がないと見た浅井は、その回避策として、日顕上人に対する『対決申し入れ』を性懲りもなく繰り返しているのだ。 すなわち、浅井の『対決申し入れ』は、御開扉中止・御法主上人御退座と、一謗法在家団体に過ぎない顕正会の解散とを同列に並べるなど、最初から相手にされるはずもない代物である。そんな要求を盛り込むこと自体、この『対決申し入れ』は実現不可能なものであり、法華講との法論から逃げるためだけのものだったのである。」(『大白法』六百八十五号、平成十八年一月十六日付)

と、指摘されているではないか。
猿芝居で逃げているのは浅井の方であると、宗内僧俗が皆、認識しているのだ。
もし、本当に法論をしたかったら、あるいは折伏によって邪正を明らかにしたかったなら、まずは大草講頭と対決すればよかったではないか。それだけのことである。

それを、「日顕上人に、必ず相手をやっつけるから、自分を代理人に指名して下さいと願い出て、説得すれば良かった」などと言っているが、およそ日顕上人が相手にする必要無しということにされたものに対して、末弟信徒が猊下を説得するなどと、あり得ようはずがないではないか。所詮、門外漢の寄生虫には、師弟相対の信仰など、わかろうはずもないということか。
以上のように菅原の批判は失当である。

5)-6
顕正会教学部が大草(講頭)との法論に応ずる旨を回答したにもかかわらず、以後、大草(講頭)が顕正会教学部との法論を回避している理由は何か。浅井が大草(講頭)に「法論に応ずる」などと伝えた事実は全く存在しない。三十年間約束を果たしていないというのは大草(講頭)の“妄想”でありそのような事実は存しない。

回答
浅井が三十年間逃げ続けていることが大草講頭の妄想で、そんな事実は一切ないとは、ずいぶん思い切った大嘘を言い放ったものだ。
浅井の三十年間の遁走劇については、「浅井昭衛 遁走の歴史」として動画にまとめてあるので、是非とも、「ネットを見ろ!」と言っておこう。
菅原は本当に何もわかっていないようだが、何をかくそう浅井は30年来の約束を未だ果たしていない。

一例を挙げれば、顕正新聞に「御遺命守護のミサイル」と称して浅井が書いた、『摧破異流義考』に対する事実上の反論文があるが、その中には『棟札の裏書き』のことを、「これは、徳川時代のもの」と日亨上人、日達上人が論じられていると、『摧破異流義考』で書いたことに対して、浅井は、「それについては(破折を)いずれ詳しく述べる」と誤魔化して逃げた。それから三十年経っている。いまだに約束を果たせぬままではないか。

だが、このように新聞上で公に約束しているので、古くからの会員に尋ねると覚えていて、「センセーは時が来ればいずれ述べるって仰っている!」と、今だに信じて疑っていない。浅井よ、三十年も待ったのだ。健気に信じて待っている会員達のためにも、いい加減に約束を果たして、速やかに回答せよ。

また、大草講頭がストーカーのように浅井に迫っているけれども浅井は相手にしていない、と言うが、そもそも、浅井本人が「宗内の痴犬・妙観講の実態」なる誹謗論文を書いて、妙観講に闘いを仕掛けてきたのが最初である。

そこで、大草講頭が『摧破異流義考』をはじめ破折を出したら、浅井は逃げっぱなしになったのである。
最初に仕掛けてきておきながら、初めから相手にしていない、などというのは反論不能の言い訳たることが明らかである。

謝れというなら、仕掛けてきておいて逃げた浅井こそが、潔く謝るべきだろう。
それを、故なく大草講頭に謝罪を迫り、謝罪したら相手になってやる、などという顕正会教学部は、戯言部とでも改称したらどうだ。
汝ら下衆の戯言など誰にも相手にされぬ。

結語

菅原は、「(大草講頭が)“逃避”を図ったこと等を以って、当方の勝利に終わった。大草一党の宗門追放はもう眼前であろう」と結んでいる。どこが逃避だ、どこが勝利に終わっただ。菅原の頭は本当に大丈夫なのか。

ここに、菅原に対する破折を述べてきたが、菅原の所論は見るも無惨な内容で、これで一方的に勝利宣言するとは、呆れたものである。

こんな訳のわからぬ菅原に、一つ提案しておこう。すなわち、勝敗は、誰の目から見てもゴマカシの利かない現証で決すればよい。
菅原は、一番最後の結論として「大草一党の宗門追放はもう眼前であろう」と書いているが、宗門追放などという事態が眼前に起こるか、起こらないか、という現証で決着をつけようではないか。

「眼前」などと言うからには、二年、三年もの長期間を眼前と言わないであろう。どんなに長く見ても一年以内、せいぜい数ヶ月がいいところであろう。
しかも、この大草講頭及び妙観講の宗門追放などという与太話は、令和元年七月二十四日の顕正会総幹部会において、浅井昭衛が門外漢たる自らの立場も弁えず、「日興上人が民部日向を断固 擯出あそばされたごとく、速やかに追放し給え。」などと、日如上人猊下に対して懇願したことから始まった話である。

それから既に一年四ヶ月以上が経過している以上、「眼前」に追放されるとしたら、本当に目前のことだろう。どうだ、菅原よ、大聖人御聖誕800年の大佳節たる令和3年2月16日までに、かかることが起きるか、起きないか、それをもって勝負を決しようではないか。

浅井一派は、常に狼少年である。いつもこうなる、ああなると吠えているだけで、絶対にそのとおりに実現することなどあり得ない。
狼爺たる浅井昭衛に続いて、菅原が狼少年になることは必定である。

以上