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浅井昭衛の危険【ポア】思想

顕正会法務部次長 菅原克仁の再々反論を嗤う

それは、狂信的な独断と詭弁の拙文だった!

『顕正新聞』(六月十五日号)において、顕正会法務部次長・菅原克仁なる青年が「関快道の敗北を誤魔化す『慧妙』の悪足掻きを粉砕す」「宗門僧俗、ついに反論不能に陥る」等という見出しのもと、「今般の法論が(中略)完全決着したことを宣言する」として、論争に一方的幕引きを謀る記事を掲載した。

およそ「反論不能」というのは、かつて、顕正会会長・浅井昭衛が大草一男氏(法華講大講頭)から破折文を突きつけられた時に、何らの反論もできずに沈黙したごとく、相手が論争に詰まって閉口したことを指すのであって、論争の過程で自分から一方的に勝利宣言をして幕引きをすることではない。むしろ、それは不都合な事態からの逃避、と見るべきが一般的であろう。

さて、菅原の文を一読して感ずるのは、「狂信者というのは本当に困ったものだ」ということである。何が困ったものかというと、①狂信者は自分の妄想を事実と決め込んでいる、②狂信者は相手の言うことに耳を貸さず一方的主張を繰り返す、③狂信者は一を知って二を知らず、知ろうともしない、④狂信者は教祖を守るためなら切り文でのすり替え・歪曲も平気である、⑤狂信者は捨て台詞(ぜりふ)と共に勝手に勝ち鬨を上げて主張を打ち切ってしまう、といったところか。
ともあれ、以下、菅原の文について、その誤りの概要を指摘しておこう。

大草氏を目の敵にしてみたが

まず菅原は冒頭で、本紙六月一日号に掲載した菅原への批判記事について、「執筆者不詳ゆえ、『慧妙』を事実上編集しているとされる大草が書いたものとみなして論を進める」などと乱暴な当て推量をした上で、「反論不能となった関に代わって、今度は大草が…」「大草は全く反論できていない…」「その上で大草は…」と書き殴っている。

菅原は、とにかく自らの崇める浅井を袋叩きにしてきた大草氏が憎くて仕方ないのだろうが、いやしくも弁護士たる者(菅原は顕正会専属の弁護士らしい)が、こんなお粗末な論証の仕方をしていては笑い物である(ちなみに、本紙六月一日号の記事の執筆者は編集員のY氏である)。現在、浅井や菅原らが妙観講から訴えられている裁判も、これでは先行きが見えるようではないか。

端(はな)から論点を逸らして逃避

次に菅原は、「私と関の法論における論点は『勅宣・御教書』の要否、ひいては『国立戒壇論が大聖人の正しい教えであるか否か』であり、三大秘法抄の『戒壇を建立すべき者か』の『歟(か)』の字をどのように解釈するかではない」などとして、勝手に法論のテーマをすり替えている。その上で、自分の主張したいことを一方的に、くどくどと述べ立てるのである。

だが、法論の発端となった本紙二月一日号掲載の関御尊師の論文「国立戒壇論の誤りに関する一考察」は、大見出しで「国立戒壇論は国語学的・歴史学的にも大きな誤り!」と表記し、写真にも『三大秘法抄』の当該箇処(すなわち「歟」の文字の箇処)を示して、この一文字を国語学的にどう解釈するか、ということに本文の半分以上を割いている。それに対して反論するなら、当然、国語学的な上から「歟」の一文字をどう解釈するか、を示すべきであるのに、菅原は「私と関の法論における論点は(中略)『歟』の字をどのように解釈するかではない」と、勝手に論点を変えてしまっているのだ。

これでは論争がかみ合うはずがない。菅原は、関御尊師の主張に正面から反論できずに端(はな)からテーマを逸らしているのであり、こういう態度こそ、「反論不能」ゆえの「すり替え」というべきであろう。

それでいて、自説の小見出しには「見え透いた論点のすり替え」などと謳って、関御尊師の側が論点をすり替えたと詰(なじ)るのだから、まさに「非学匠は理につまらず」を地で行っている、としか言いようがない。

関御尊師の回答に反論不能

次に菅原は、この国語学的立場での解釈から逃げるために、「関のように『歟』を疑問・推測の意と解釈すると、論理必然的に、大聖人様が三大秘法抄において定め置かれた戒壇建立の『時』、『手続』、『場所』のみならず、御遺命の本門戒壇を建立すること自体についても疑問・推測を差し挟むことになる。よって、かかる解釈は本門戒壇の建立を御遺命された一期弘法付嘱書に背き奉る大謗法」として済ませている。

だが、宗祖大聖人が本門戒壇について具体的に御示しになった『三大秘法抄』『一期弘法付嘱書』の二書を併せ拝すれば、「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべき」(御書一六七五頁)ことは既に確定しているのだから、
「勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」(御書一五九五頁)
の最後の「か(歟)」という疑問・推測を表わす一文字が掛かるのは、「勅宣並びに御教書を申し下して」の部分のみである。

このようなことは、二書を併せ拝すれば自明なのであって、「御遺命の本門戒壇を建立すること自体について疑問・推測を差し挟むことになる」などと言う菅原の程度を疑わざるをえない。

また、逆に菅原に問いたいが、それならば、いかなる意味で大聖人は『三大秘法抄』の当該箇処に「歟」の字を使われた、というのか。それをハッキリと説明してみよ。関御尊師も最初からそれを汝等に問うておられるのだ。

これに回答できない菅原は、日達上人が昭和四十五年四月六日に、
「王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並びに御教書があって、霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから、私は未来の大理想として信じ奉る」
と仰せられた御言葉を挙げ、これを「どう会通(えつう)するのか」などと強がっている。

だが、これは日達上人が大慈悲の上から、浅井らを慰撫教導あそばされた御言葉に外ならない。浅井らもそのことは当時から重々わかっていたはずだから、これ以上、論ずることはしないが、菅原が「納得できない」というのであれば、稿を改めて説明してあげよう。

大多数の帰依こそ広布の相

さて、菅原は「広宣流布の相」についても、相変わらず「『前代未聞の大闘諍』が地球規模で起きたとき、一切衆生は、国が亡び我が命を失う恐怖から一切の仏・菩薩等に祈る。しかし、その験(しるし)もなく万策尽きたとき、ついに一切衆生は、それまで憎んでいた日蓮大聖人を信じ、頭を地につけ手を合わせ、一同に南無妙法蓮華経と唱え奉るに至ると、大聖人様はお示し下されているではないか」
「関や大草のように信心なき輩には、日蓮大聖人の大悲願力と、宇宙的力用を有する諸天に申し付けるその絶大威徳により順縁広布が必ず到来することなど、端から信じることすらできないのであろう」
「いくら信心がないからといって、大聖人様の大願であり、『大地を的とする』と御断言あそばす広宣流布を〝謗法者たちが残存する状態〟などと曲会し、貶めるのはやめよ」などと強弁して、あくまでも、一国から謗法者が一人もいなくなる状態、一人残らず大聖人に帰依する状態が、大聖人の仰せられる広宣流布である、としている。

ならば大聖人が、その一切の万民が掌(たなごころ)を合わせて帰依する広宣流布の相を、具体的に
「臣下並びに万民までも、今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱ふるがごとく、広宣流布せさせ給ふべきなり」(御書八三七頁)
と示されていることはどう理解するのか。当時の日本国民が一人残らず念仏を唱えていたわけではないではないか。

大聖人が、日本一国の大多数の人々が帰依することをもって広宣流布とされていたことは、誰の目にも明らかであろう。
大聖人の御金言よりも、「浅井先生の仰せ」を信じて疑わない菅原の「信心」がいかなるものか、よくわかる事例である。もし顕正会員が、本当に日蓮大聖人を信じようと思うなら、菅原のような浅井狂信者になってはいけない。

浅井が抱く危険思想について

最後に菅原は、浅井に危険思想があることを否定しようとして、懸命に御託(ごたく)を並べている。これについては本紙前号一面で詳しく検証しているので、重ねては述べないが、一点だけ指摘しておこう。

『立正安国論』において謗法者の断命(だんみょう)を否定されていることについて浅井は、「謗法者に対する命根(みょうこん)断絶という行為は、国主・国家権力がなすべきことであって、個人は絶対にしてはならない。ゆえに涅槃経にも、釈尊が過去世において国王であった時の行為として説かれているのである」(『立正安国論謹講』)として、断命は国主・国家権力でなくては許されない(すなわち、国主・国家権力には断命が許される)、としている。

また、釈尊以後の時代には、謗法への布施を断つことをもって断命に代えている、とした後に、「ただし」という例外を示す接続詞を使い、「謗法が極悪になり、その罪禍により国まさに亡びんとするに至れば、謗法対治もまた徹底せねば国は持たない。よって大聖人は文永八年の第二回目の諫暁の時、平左衛門に向って〝良観等の頸(くび)を刎(は)ねよ〟と強諫(ごうかん)し給うたのである」(同書)等と述べている。

これを素直に読むならば、また、〝国主が帰依する広布の暁には謗法者が一人もいなくなる〟との彼奴等の信条と併せ考えるならば、「浅井先生が広宣流布の手段として(将来に)謗法者の断命を肯定され」ていることは、火を見るよりも明らかではないか。

最初に述べたことを、もう一度言おう、「狂信者というのは本当に困ったものだ」。
理性の残る顕正会員諸氏よ、早く狂信の群れから出て、富士大石寺の大御本尊のもとへ還るべきである。(『慧妙』令和2年7月1日号より転載)