顕正会に愛想を尽かしたワケ
私は、昭和56年、東京板橋区常盤台に住んでいた時、アパートの隣室の大学生から勧誘されて顕正会に入信してしまいました。当時の顕正会は常盤台に本部会館があり、そこでイヤイヤながらも勤行や会合に参加しているうちに、次第に顕正会の教えに傾倒するようになり、半年後には大学の友人や郷里の同級生を次々と勧誘し、顕正会の中では男子部支隊長・整理部員・報道部カメラマンにまでなりました。
そして、昭和57年の「第一回武道館大総会」で、顕正会会長・浅井昭衛が発した「あと25年で広宣流布ができなければ、核戦争によって人類は絶滅する」との妄語を信じてしまい、日本を破局から救うために、と、寝食を忘れて活動に没頭しました。
しかし、いくら顕正会の活動をしても功徳を感じることはなく、ただただノルマに追われる毎日で、達成できないと叱責され、気持ちの休まる暇がありませんでした。
当時の私は、昼は働き、夜は大学に通っていたのですが、会合や活動でほとんど授業に出られなくなりました。紹介者に、「仏法は生活法と言いながら、授業に出られないのはおかしい」と訴えると、「あと25年で広宣流布するんだから、大学など辞めて時間を作り、広宣流布のご奉公をしよう」と言われました。
私は、おかしいと思い、一年留年したものの、学業を優先させて卒業しました。しかし、私の紹介者は、本当に大学を中退してしまいました。顕正会には「顕正会の活動をしていれば、世間的にはどうでもいい」と、世法を軽視する雰囲気が充満していて、大学を中退した人が数多くいました。
昭和61年「第二回武道館大総会」では、浅井が一国広布の路線を発表しました。それは、「十年後に百万達成(顕正会員を百万人にする、との意)、その七年後に一千万達成、さらに七年後に広宣流布達成・国立戒壇建立」というものでした。その時点で〝広宣流布達成〟が前に言っていた時期(西暦2007年)より三年先延ばし(2010年)にされていたのに、浅井はその理由を一切説明せず、それを尋ねる会員もいませんでした。
その後も浅井は、何の弁明もないまま、〝百万達成〟を何度も先に延ばしにしました。私は、そうした浅井昭衛にも愛想を尽かし、平成の初め頃には顕正会の組織から離れました。しかし、顕正会で「宗門は〝国立戒壇〟の御遺命を捨てた。謗法だ」と繰り返し聞かされていたため、正宗寺院を訪ねようとは思えず、正しい仏道修行ができる団体が見つかるまで態度を保留にする、と決めていたのです。
苦節の果ての法華講との出会い
大学卒業の翌年、顕正会で知り合った妻と結婚し、故郷の岩手県盛岡市に帰り、いったんは地元企業に就職しましたが、給料も安く生活が苦しかったので、一年後には大手通販会社の営業マンに転職しました。十年程は仕事も順調で、青森支店、札幌支店に営業責任者として栄転しました。
ところが、札幌支店では上司が丸投げする仕事に忙殺されて心身を壊し、ウツ病になってしまいました。営業責任者から外され、会社の大規模なリストラも始まり、私はさらに冷遇されて、働き盛りの四十歳代をどうでもよい仕事で空しく過ごすことになりました。住宅ローンと三人の子供の大学の学費を抱え、とても苦しい生活でした。
そして、五十代も半ばに差し掛かり、独立して起業することを考えていたところ、突然、東京支店への転勤辞令が出て、東京に単身赴任となりました。そして、昨年五月、会社を辞めて札幌に戻ろうとしていた直前に、同じ部署にいた法華講員のSさんに折伏されたのです。
顕正会の〝国立戒壇〟説を破折された私は、正しい仏道修行ができる団体を二十五年間も求めていたことを告白しました。そして、Sさんの「日蓮正宗が唯一、正しい」との確信ある言葉に引かれて入信を決意し、その日のうちに正宗寺院で御授戒を受けたのです。
御授戒を受けた夜、私は、「もう五十五才で残りの人生はそんなに長くない。言われたとおりに素直に修行しよう!」と決めました。そして、六月に札幌に帰ってからも、最寄りの正宗寺院へ朝夕の勤行に通い続けました。『法華講員の基礎知識』と顕正会破折の書籍五冊を熟読し、また、妙観講の会合のDVD視聴会にも欠かさず参加し、寺院の法要に参詣し、信心第一で生活してきました。
日蓮正宗の信心修行は、寺院と御僧侶中心で、とても新鮮でした。「総本山・御法主上人猊下―末寺・指導教師御住職―法華講」と、正しい師弟子の道に則ってこそ、信心の血脈が流れ、功徳があること。朝夕の勤行・唱題をきちんと行なう中で、我が生命に仏界が湧現し六根が清浄になって現実に幸せになれること。
総本山参詣(登山)は、罪障消滅と成仏のための重要な仏道修行であること。御講や法要への参詣は師弟相対の基本であり、功徳が流れくる源泉であること。折伏して反対され悪口を言われるたびに罪障消滅され、現実に幸福の境涯になれること。
仏様と法の命脈をつなぐ御供養には大功徳が具わること。先祖の命日や盆・彼岸などに塔婆供養をすることで、亡くなった人も成仏できること――等々、初めて知ることばかりでした。
振り返ってみると、顕正会は全部デタラメでした。破門されて、法脈も信心の血脈も断絶しているので功徳が無く、大石寺の大御本尊様の方向に向かって遥拝勤行をしても祈りは叶わず、たとえ功徳かと思うような事があったとしても、所詮は魔の通力と見えて、けっして長続きしません。
浅井昭衛は、勤行も御観念文も勝手に変更し、「宗門の登山は金儲けの手段」と誹謗し、かつては肯定していた御法主上人の血脈相承についても、創価学会をまねたか、平成11年から突然否定し、〝僧侶不要〟を言いだしたり、とにかく一貫性がありません。
一貫していたのは「国立戒壇」という主張だけですが、それとても、宗門が邪教を破折する際に、いちおう当時の風潮に合わせてに合わせて「国立戒壇」という言葉を使っただけで、それを浅井らが勝手に「国会の議決で建てる戒壇」と解釈し、〝大聖人の御遺命〟と偽ってきたということも、また、浅井らが「天母山(あんもやま)戒壇説」の唯一の根拠としてきた〝大坊棟札の裏書き〟も、すでに五十六世日亨上人が贋作と断定されていたこと等、法華講に入って初めて知りました。
各会館の〝日布上人大幅形木本尊〟というのも、宗門には無いニセモノで、とにかく、顕正会の「御遺命守護の戦い」は虚偽だらけだったのです。
こうしたことを知った私は、何としても総本山に参詣したくなり、昨年七月、札幌から登山して、初めて御開扉を受けました。恋慕渇仰してきた本門戒壇の大御本尊様は、黄金に光り輝いていました。
帰りに、天母山に立ち寄って現地を確認したところ、なんと、そこは急峻で狭く、本門戒壇を建立するような広さではありませんでした。浅井は大ウソつきでした。
謗法懺悔から生じた奇跡的現証
昨年の七月末、私は、札幌で出張ドッグシャンプーとドッグホテルを開業しました。九月には御本尊様を下附していただき、家族・友人の折伏も開始しました。仕事は、十月まで月に十件程度で、なかなか軌道に乗りませんでした。
私は、懺悔が足りなかったことに気付き、「無始以来謗法を重ねた上に、今生では顕正会という大謗法団体で活動し本山を誹謗してきてしまいました。どうかお許しください。今日からは心を入れ替えて信心修行に精進いたします」と御本尊様に心からお詫び申し上げ、その上で、事業が軌道に乗ることと、信心修行と生活に必要な収入を得ることを御祈念申し上げました。
また、十一月には総本山の御大会(おたいえ)に参詣させていただきました。初めての御大会は、厳粛さと荘厳さに圧倒されました。御開扉でも御大会でも丑寅の勤行でも、ずっと懺悔申し上げ、罪障消滅と事業成功をご祈念申し上げました。
すると、御大会終了後、驚くことが起きました。総本山にいるうちに携帯電話が鳴り、ドッグホテル一週間の予約が入ったのです。その後も予約の電話が鳴りやまず、十一月は最後の一週間だけで15件、十二月は83件の仕事が入り、初めて月間売上目標も達成できました。
さらに、戌年(いぬどし)を迎える話題として、地元トップの北海道新聞の記事になり、テレビ局のニュースやワイドショーでも紹介され、私の店は一躍、有名店になったのです。おかげで、その後も予約の電話が続き、私は、「本物の功徳とはこういうことなんだ!」と、泣きながら御本尊様に御礼申し上げました。
今年も主要な法要・行事に五回、登山し、折伏においても友人を入信に導くことができました。八月からは、顕正会札幌会館のそばで顕正会員の折伏を始めています。そのような中で事業は軌道に乗り、開業一周年の八月は、売上げが過去最高を更新しました。開業一周年の月商としては、加盟店十店中、私の店が最高で、成長スピードも最速だそうです。
信心修行に励めば励むほど、自然と仕事の予約が入り、お客様が増え、優良な顧客が定着し、経営が安定してきたのです。顕正会時代には想像もできなかったことです。サラリーマン時代の不遇の四十代は、顕正会で作った罪障による罰だった、と今になってやっと気がつきました。
今の最大の願いは、残された短い人生で無始以来の罪障を全て消滅し、何としても成仏させていただくことです。
最後に、法華講員の皆様にお願いがあります。かつて顕正会で活動し、功徳を感じられず、組織に不信感を持って顕正会を離れた人の多くは、今なお正法に帰依できないまま、罪障に苦しんでいます。また、浅井昭衛を盲信して大謗法の限りを尽くす今の顕正会員がとても不憫です。そのような方々へ、私の拙(つたな)い体験ですがお伝えいただき、ぜひとも正法に導いてください。なにとぞお願い申し上げます。