理境坊所属妙観講理事 佐々木寛司
私と顕正会教学部長・坪田敏とは、昨年来、ほとんど毎日、メールによる議論の応酬をしてきましたが、このたび、坪田の敗走という形で決着がつきましたので、ここに報告いたします。
メール対論のきっかけは浅井昭衛との直接対峙
そもそも坪田と対峙した大きなきっかけは、昨年九月二十六日、私が顕正会会長・浅井昭衛を自宅前で捕捉し、「大草講頭との法論に立たれないんですか?昔から逃げてばっかりじゃないですか」と詰問したところ、浅井は「バカバカしいこと、言うでない」と捨て台詞(ゼリフ)を吐いて、家に逃げ込んでしまった出来事にあります。
この事実を報じた動画や新聞が、顕正会員に大きな衝撃を与えました。
これを覆(くつがえ)そうとして、坪田は躍起になって、連日、私に対しメールによる攻撃を始めたのです。
浅井遁走の事実を必死に糊塗した坪田
坪田はまず、「浅井センセーは最初からおまえらなど相手にしていない、だから、バカバカしいこと言うでない、と一蹴(いっしゅう)されたのだ」と浅井を擁護(ようご)しようとしましたが、私から、「いや、最初は三十年前に、浅井の方から『宗内の痴犬妙観講の実態』という悪文を書いて妙観講に闘いを仕掛けてきたではないか。今さら最初から相手にしていない、などと言っても通らない」と糾(ただ)されて頓挫(とんざ)。
次に坪田は、私とのメールでの対論を、いつの間にか「寛司よ」から「大草よ」に替え、勝手に対論相手が大草講頭であることにしてしまいました。
これは坪田の妄想癖(もうそうへき)によるものか、はたまた、対論相手を大草講頭に替えておいて、メールの中で何らかの失言など攻撃できそうな点を見つけたら、ここぞとばかりに大騒ぎして勝利宣言し、浅井遁走(とんそう)の事実を帳消しにしようと謀(はか)ったのか、いずれにしても異常極まりないものです。
その上で、坪田の展開した戒壇論は、あまりにお粗末でした。
「『国立の戒壇』と『国立戒壇』は違う」!?
私が、「国立戒壇は、国柱会の田中智学が創唱したものだ」と責めたところ、なんと坪田は、「田中智学は『国立の戒壇』と言ったのだ、『国立戒壇』と言ったのではない」と子供のような反論をしてきたのです。
これが顕正会の「教学部長」だというのですから、呆れるではありませんか。
私が、「国立の大学は国立大学だろう。国立の病院は国立病院だ。同じく、国立の戒壇は国立戒壇、何が違うのか」と切ると、坪田はあえなく絶句して話を逸(そ)らせました。
そして今度は、「三大秘法抄に、国立戒壇の文はなくとも義がある。三大秘法抄が国立戒壇の論拠だ」というようなことを言い出しましたので、私は、仏法の付嘱の上から、唯授一人の別付嘱を受けられたのは日興上人(はじめ御歴代上人)であり、その証拠が二箇相承であること、他の僧俗にも総じて付嘱が与えられたと言えるが、その本末関係は厳然としており、そのことを『曽谷殿御返事』には
「総別(そうべつ)の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず、輪廻生死(りんねしょうじ)のもとゐたらん」(御書一〇三九頁)
と仰せであることを示しました。そして、『三大秘法抄』はその総付嘱の中に含まれる御書であり、それに対し『一期弘法付嘱書』は別付嘱の重書であること、ゆえに戒壇についても、『三大秘法抄』では一往「場所」も「寺号」もはっきりと示されていないが、『一期弘法付嘱書』では再往「富士山に本門寺戒壇を」と明示されていることを述べました。
「文証を出せ」と騒いだくせに自ら逃避
しかして、日興上人はじめ御歴代上人も、一往・再往の立て分けの上から三大秘法抄と一期弘法付嘱書を御覧になっている、と述べようとしたところ、あくまでも三大秘法抄を至上の文証とする坪田は、
「三大秘法抄を一往と言うとは何事か、その文証を出せ」
と噛みついてきました。そして、執拗(しつよう)に
「三大秘法抄が一往で、一期弘法付嘱書が再往だとする、貫首上人の文を出せ」
「大草よ、これはお前の説か、それともどなたの説か、答えよ」
「大草よ、どの貫首上人が仰せなのか、答えろ」
などと求め続けます。坪田としたら、ここが突っ込みどころ、一点突破・全面展開で、大草講頭と妙観講を「己義を構えた」ものと決めつけて、勝利宣言し、浅井遁走を煙に巻いてしまおうと思ったに違いありません。
そこで私は、この坪田の力の入れ方を見て、ここで一気に勝負をつけることを提案しました。
すなわち、「私が述べた一往・再往の義について、どの御法主上人が仰せられているか、その文証を挙げられなければ、私は脱講して顕正会に入会する。逆にその文証を挙げられたならば、坪田は顕正会を脱会して妙観講に入講する」というものです。
「この約定を承諾するか、否か、答えろ。承諾しない、もしくはこれに返答しない場合は、坪田が対論から逃げたものと断定する」と詰めたところ、情けないことに坪田は、これを無視して
「大草よ、三大秘法抄を一往だとする貫首上人の言葉を出せ」
などと、最後まで私を大草講頭にすり替え、同じ強がりを繰り返して、約定を結ぶことから逃げてしまったのです。
ここに私は、昨年来の坪田との対論が坪田の敗北で決着したものと断定いたしました。
最後に、『三大秘法抄』の戒壇に関する御教示を「一往」、『一期弘法付嘱書』の戒壇に関する御教示を「再往」とする、六十五世日淳上人の御指南を謹んで奉掲し、結びとします。
「(三大秘法抄の霊山浄土に似たらん最勝の地をという)この御文によりますと、大聖人は、この最勝の地は何処であると地名を御挙げなされておりませんが、二祖日興上人への御付嘱状によれば、富士山にあらせられることは明らかであります。すなわち前掲の一期弘法抄に『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』と仰せであります。
しからば、何故これにご明示あそばされなかったかと申しますれば、この戒壇建立の地の選定は国主の定めたもうところでありますから、『一往』御指示をお控えあそばされておるのであります。
しかし、『再往』は、大聖人が、選定あそばされて、その旨を奏聞するというにあらせられたのであります。」(『日淳上人全集』四八九頁)
『慧妙』令和5年2月16日号より転載