顕正会男子部の実態

顕正会 副教学部長 藤村雄大の痴論を完全砕破す

ゴマカシの弁明しかできぬ藤村に最後通告

『顕正新聞』(三月二十五日付)に、藤村雄大(ゆうた)による本紙『慧妙』への反論らしきものが掲載された。これまでがこれまでなので、もはや大した期待もしていなかったが、一読してみると、やはり、その内容のなさに呆れるしかない駄文であった。
察するに、会員に動揺を起こさせないため、見せかけでもいいから「反論しました」という既成事実を出しておこう、ほとんどの会員は、どうせ教学的内容の細部までは読んでいないのだから、とにかく仰々しい見出しを付けて、木っ端微塵に粉砕したがごとく見せかければいい、という魂胆なのであろう。

日蓮大聖人は
「非学匠は理につまらず」(御書三五頁)
と他門の学匠を批判されているが、藤村も、実際は正理に詰まっていながら「ああ言えばこう言う」レベルの弁明を繰り返しており、この指摘がそっくり当てはまっている。
まず、その典型例を挙げておくと、本紙『慧妙』において、藤村が顕正会のニセ本尊問題について反論不能になっていることを厳しく指摘しておいたのだが、このことについて藤村は一切触れることができていない(一言も、である)。それでいて、御遺命違背が何たら、国家意思が何たら、という従前からの堂々巡りの主張と、お粗末な日本語解釈を振り回し、本紙を完膚(かんぷ)なきまでに破折したかのごとく見せかけているのである。

まったく笑えるではないか。今後とも、藤村はこのようなゴマカシの弁明しかできないであろうが、ならば、そのつど、藤村はニセ本尊問題から逃げた、これは藤村が正理を示されて詰まり、完敗した証拠だ、と一蹴してあげよう。
その上で今回だけは、藤村がゴマカシのために出してきた弁明の一つひとつについて、破折しておくことにする。

昭和四十二年の高僧発言について

顕正会の疑難
①「正本堂完成までに広宣流布が達成すると期待していた」というのはウソ!?

藤村は、「そもそも宗門高僧らは、『正本堂ができる時には広宣流布が達成されて、正本堂は御遺命の戒壇になる』と述べていたのではない。逆である。『正本堂の建立を以って広宣流布は達成、御遺命は成就』と偽っていたのだ。ゆえに御遺命違背なのである」と述べている。

前から指摘しているように、藤村らは守文の徒であり、とにかく言葉尻に執着することしか能がないが、他人に読ませる物を書くなら、もう少し文学の勉強でもした方がよい。
当時の高僧方は、広宣流布の達成時に正本堂を建てるのだから、正本堂の建立はすなわち広宣流布の達成、と言われただけのことである。そのくらいの日本語の幅がわからないのか。誰も「正本堂の建立によって広宣流布が達成される」とか「正本堂の建立を広宣流布の達成と定義する」などと、言ってはいないのである。
これほどまでに捉え方が浅く、日本語能力のないお粗末な御仁が、副教学部長などとは恥ずかしいかぎりである。

また藤村は、本紙が「正本堂が完成する頃には当時の日本の総世帯数の三分の一にあたる一千万世帯に達するであろう、と期待されていた」と記載したことに対して、「当時、正本堂の完成までに日本一同が信じ奉る広宣流布が達成される見込みがなかったことを(『慧妙』自ら)認めているではないか」などと、吹き出したくなるような批判をしている。
何回教えてやっても「日本中が一人残らず入信する時が広宣流布」と頑迷に拘っているから、こんな愚説を繰り返すことになる。

大聖人が「日本一同」とか「上一人より下万民まで」と仰(おお)せられるのは、日本国の大多数を形容する表現であって、けっして「一人残らず」などと限定する意味ではない。それを端的に証明する御金言を一つだけ挙げておく。

「今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱ふるがごとく、広宣流布せさせ給ふべきなり。」(御書八三七頁)
藤村よ、大聖人当時の日本国が一人残らず念仏を唱えていたか、どうか、今さら言うまでもあるまい。大聖人の仰せられる「日本一同」の意味は、かくのごとし。副教学部長などと名乗るなら、もう少し真面目に御書を読んだらどうだ。

さらに藤村は、続けて「仮に『日本の総世帯の三分の一』が入信したとしても、未だ戒壇建立のための国家意思の表明に至らないことも自明である」などと断言している。
何が「自明」なのか。
総世帯の三分の一が入信し、それ以外にも、賛同する人がいることを考えれば、日本の大多数が戒壇建立に賛同する状態、と言うことは充分に可能であろう。例えば憲法改正の承認にも「国民投票で有効投票の過半数」の賛成があればよい、と定まっていることを考えても、これは無理な目安ではない。
だから当時の宗内には広宣流布達成・戒壇建立という期待が高まっていたのだ(結局、それが実現することはなかったが)。

藤村は、以上のような稚論を立てた上に、「宗門は昭和四十二年当時、五年後の正本堂完成までに広宣流布が達成される予定ないし見込みがないことも、まもなく建設が始まる正本堂が国家意志の表明を欠く偽戒壇であることも、すべて知っていたのだ。」「今になって『期待していた』(わざとじゃなかった)などととぼけてはいけない」などと勝手に結論付けるのだが、当時、まだ生まれてもいない藤村が、知ったふうなことを言って歴史を書き換えてはいけない。

顕正会の疑難
②「心こそ大切」などというのは欺瞞!?

本紙で引用した
「心こそ大切に候へ」
(御書一二九〇頁)
「ただ心こそ大切なれ」
(御書一四〇七頁)
との御金言について、藤村は、「これ不便の引証である。いうまでもなく『心こそ大切に候へ』等の御金言は、〝内心の如何によっては御遺命に背(そむ)く発言をしても許される〟という意味では全くない」などと馬鹿げた批判を加えている。

藤村は言葉が読めないのか。それとも、分かっていて、こんなゴマカシを言うのか。
当方が述べているのは、「期待して言ったことが、後から見れば言い過ぎだった」ということと、「池田が邪心を持って、最初から謀(たばか)って言ったこと」とは全く違う、ということである。
こちらが言ってもいないことを言ったことにして、さも反論して粉砕したかに見せかけるのは、異流義特有の悪質な手口である。

また、「広布達成の予定・見込みがないことを知りながら」等とは、何を根拠に言っているのか。全て藤村の妄想に過ぎないではないか。
そうでないと言うなら、当時の日達上人や高僧方が「広宣流布の達成を期待していなかった」「達成の見込みがないことを知っていた」という、その根拠となる明確な記述なりを出してみよ。
それを示せないかぎり、これらは藤村の勝手な思い込み、妄想である、と断定する他はない。

顕正会の疑難
③「浅井先生も正本堂を『御遺命の戒壇』と述べていた」というのはウソ!?

藤村は「やはり大草一党には日本語がまともに読めないらしい。ゆえに『大客殿の奥深き正本堂』『徐々に』との文言を読み飛ばし、書かれてもいない事柄が読めてしまう。もし、『わざと』ではないとしたら、何とも不憫な御仁である」などと言って誤魔化そうとしているが、これは藤村が、正本堂問題に関する歴史史料について、全くの無知であることを露呈した戯言(ぎげん)である。

まず第一点目として、浅井が「大客殿の奥深き正本堂」との言葉を使った理由について、藤村に教えておこう。

これは、昭和四十年二月十六日に行なわれた第一回正本堂建設委員会の席上、日達上人が、
「正本堂の建立地につきましては『大御本尊は客殿の奥深く安置する』という御相伝があります」
と仰せられた、そのお言葉を使ったに過ぎない。それ以外の意味などないのである。
当時生まれていなかった藤村は、すっかり浅井に騙されて、〝当時の浅井センセーには、正本堂を広布の暁の戒壇などという考えは微塵もなく、あくまでも、奉安殿の延長として「大客殿の奥深く」に大御本尊を秘蔵する、と発言したのである〟と思い込んでいるようだ。だが、その思い込みは、とんだ見当違いだ。

藤村よ、正本堂問題に難癖(なんくせ)を付けようというのなら、正本堂建立委員会での日達上人お言葉の全文くらい、読んでからにしたらどうだ。
また「徐々に」という言葉であるが、浅井は「御宝蔵から奉安殿へ」「奉安殿から大客殿の奥深き正本堂へ」という状態を「『徐々に』大衆の中にお出ましになる」と言っているのである。誰も故意に読み飛ばしなどしていないし、する必要もない。

藤村としては、「徐々に」であるから、まだ(浅井は)広宣流布の達成だと思っていなかったと言いたいのだろうが、苦し紛れの言い訳であり、無茶なコジツケである。
重ねて言うが、「その御本尊様がいよいよ時を経て、徐々に大衆の中に御出ましになる。御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い思し召しにより、大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります」との浅井発言は、途中の段階を踏んで、ついに大御本尊が大衆の前にお出ましになる、と言っているのである。

人類・大衆の前に姿をお現わしになるとは、秘蔵されてきた大御本尊の公開、すなわち広宣流布の達成を意味していることは、いうまでもない。
第二点目として、「当時の妙信講員たちが、御遺命の戒壇と一言も述べていなかった」というが、「御遺命の戒壇」というフレーズ自体、正本堂問題の中で次第に使われるようになったもので、あの当時に「御遺命の戒壇」などという言葉は、ほとんど誰も使用していなかった。

ゆえに、「当時の妙信講員たちが、御遺命の戒壇と一言も述べていなかった」などと言っても、何の意味もない。
また、当時の末端の妙信講員が何と言っていたかは関係ない。浅井本人が何と言っていたかが問題だ、と言っているのである。話をスリカエてはいけない。
こちらは「誤読」もしていなければ「正常な判断能力を失った」わけでもない。藤村こそが、洗脳と狂信によって正常な判断能力を失い、頭破七分しているのである。

昭和四十七年の正本堂訓諭について

次に、藤村は日達上人の訓諭について、「未だ広宣流布も達成していない段階で『御遺命の戒壇となる建物』を建ててしまうのは『三大秘法抄』に定められた時・手続を無視し『時を待つべきのみ』の御制誡に背く御遺命違背である」などと誹謗(ひぼう)してきた。

この陳腐な主張に対し、本紙は前回、いくつもの文証を引いてその間違いを論証したのだか、藤村は、それについて正面から反論することができず、「独りよがりな己義を縷々(るる)述べた上で」とのひと言で誤魔化し、「要するに、〝御遺命の戒壇となる建物を前もって建てて何が悪い〟と開き直っている」などとしている。

これでは、実際のやり取りを知らない顕正会員は騙せても、法論としては敗北である。藤村が本紙に反論するというのなら、本紙が示した文証について、どう解釈するのか、きちんと説明すべきである。

まずは、繰り返しになるが、難癖ばかりの藤村の駄文を見ていると話がわからなくなってしまうので、再度、本紙の主張の要点をまとめておこう。

〇第二十六世日寛上人の『文底秘沈抄』に
「富士山下に建立する戒壇を本門寺と名く」
(富要集三巻九八頁)
と仰せられ、また宗祖大聖人の『百六箇抄』に
「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書一六九九頁)
と仰せられていることから、広宣流布の暁の戒壇とは、すなわち富士山本門寺(別しては本門寺本堂)を指している。

〇第二祖日興上人は、広布の暁に建立される本門寺戒壇に相応(ふさわ)しい場所として大石ヶ原を選ばれ、この地に本寺を建立あそばされた。寺号は、広宣流布の以前であるから仮に大石寺と名付けられたが、三十一世日因上人が
「広宣流布の日は当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号すべし」
(研究教学書十六巻七一頁)
と仰せられ、また四十四世日宣上人が
「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す」
(『世界之日蓮』)
と仰せのように、広宣流布の暁には大石寺が即本門寺となるのである。

〇すなわち、日興上人は、広宣流布の時に備えて、予(あらかじ)め本門寺の前身たる大石寺を建立あそばされた、ということが明らかである。

〇しかして、この日興上人の御深慮も、藤村らの論法でいけば、未だ広宣流布が達成されていないのに、戒壇となるべき本門寺を予め作ってしまったのだから御遺命違背だ、ということになってしまうではないか。そのような誹謗の当たろうはずがない。

〇これと全く同じ道理で、来たるべき広宣流布の時に備え、本門寺の中心となる本堂(正本堂)を建立しよう、と御考えになられた日達上人はじめ当時の宗門が、建物を先に作ったから御遺命違背だ、などという非難に当たらぬことも明らかである。

顕正会の疑難
①「戒壇の建物を前もって建てても問題ない」というのは己義だ!?

藤村は、「日顕上人がかつて『戒壇の建物は広布完成前に建ててよい』と書いたことにつき、後年、『言い過ぎやはみ出しがある』と誤りを認めている。慧妙の主張は、御金言に背き奉る己義のみならず、日顕上人の所説にも矛盾(むじゅん)する」などと謗(そし)っている。
それでは、日顯上人は「正本堂を建てたことが間違いであった」などと言われているだろうか。そんなことは一言も言われていない。これは全く文意のスリカエである。
日顯上人がかつての御著について「言い過ぎやはみ出しがあった」と言われているのは、当時、正本堂を広布の暁の戒壇と想定したけれども、いまや創価学会が大謗法団体となって広布達成は大きく遠のき、正本堂も取り壊すに至った以上、かつての正本堂についての意義付けは言い過ぎやはみ出しに当たる、との御意である。
しかるに藤村は、自分達が都合よく利用できそうな言語だけを拾って、「馬脚はここに現われている」などと宣(のたま)うのだから、呆れさせられるではないか。

顕正会の疑難
②「建立」の意味のたばかり!?

次に藤村は、本紙が「『建立』といっても、ここでは、建築的に建てるという狭い意味ではなく、広宣流布の暁には大石寺が改称されて、事の戒法の大功徳を発現する本門寺戒壇の意義が現われる、ということを指しているのである」と述べたことに噛(か)みつき、「これ全くの己義である」として、「『建立』とは寺院・堂塔などを建設すること」と広辞苑(!)を引き、「戒壇という建物を『建立する』との文脈であれば、〝建設する〟の意であることは自明である」と弁を振るう。
こうなってくると、教学というより日本語の議論になってくるが、盲信者の目を覚ますためには仕方がない。少々付き合っておく。
そもそも、「建立」という語の元意は、「はじめて現われる」「確立する」等の意であり、その用い方によって、さまざまな意味を表わすのである。
例えば「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」との御文における「建立」とは、建築することではなく、御本尊を安置するという意であるし、その他にも、御本尊の御図顕や、一国に仏法が広宣流布することを「建立」と表現された御文等、例を挙げれば枚挙にいとまがない。「宗旨建立」という言葉も同様である。
先に挙げた御歴代上人の御指南には
「富士山下に建立する戒壇を本門寺と名づく」(二十六世日寛上人)
「広宣流布の日は当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号すべし」(三十一世日因上人)
「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す」(四十四世日宣上人)
と明示されているのだから、広宣流布の暁に大石寺が即本門寺となる、それが「本門寺戒壇を建立する」という意に当たること、それこそ自明の理ではないか。
こんな日本語もわからないで、「いったい、何をどう読んだら…」などと言うのだから、付き合いきれない。
ちなみに、藤村は「さらに歴代上人の御指南との矛盾はどうする」などと言って、得意げに、三十七世日琫上人の御指南の「戒壇堂造立あって」という文や、あるいは日亨上人の仰せ等を挙げ、これらの「造立」「建立」はいずれも「建設」の意ではないか、というのだが、それは一を知って二を知らぬ短見である。日琫上人や日亨上人の御文は、前掲の日寛上人・日因上人・日宣上人等の御先師方の御指南を踏まえてのお言葉なのだから、「広布の暁には大石寺が本門寺戒壇になる(別して本門寺本堂が戒壇となる)」との意に会通すべきは当然であろう。
逆に、藤村に聞こう、あくまでも「建立」「造立」は「建築する」との意味しかない、というなら、当方が前に掲げた御先師上人方の御指南と矛盾するが、それはどう言い訳するつもりだ。答えてみよ。

顕正会の疑難
③「日興上人も御遺命違背になるというつもりか」との痴論!?

藤村は、本紙が「日興上人は、広宣流布の時に備えて、予め本門寺の前身たる大石寺を建立あそばされた。藤村の論法で行けば日興上人も御遺命違背だということになってしまう」と指摘したことについて、「全くの虚偽である」「日興上人がいつ、大石寺を指して『御遺命の戒壇となる建物』と仰せられたのか」「日興上人は、御遺命の本門寺(本門戒壇)について、〝広宣流布の時至り、国主が三大秘法に帰依したときに建てよ〟と明確に御指南下されている」などとして、「広宣流布の時至り、国王此の法門を用ひらるゝの時は、必ず富士山に立てらるべきなり」との『富士一跡門徒存知事』の文を挙げているが、こういうのを不便の引証というのだ。

『富士一跡門徒存知事』の全文をよく拝してみよ。大本門寺の建つべき所について、
「駿河国富士山は広博(こうばく)の地なり。一には扶桑国(ふそうこく)なり、二には四神相応(しじんそうおう)の勝地なり」
(御書一八七三頁)
と、四神相応の勝地であることを挙げられている。
そして、第五十九世日亨上人は、この四神相応の地形を富士山下の実際の地勢に当てて検討され、
「大石が原の景勝(けいしょう)にしかず。ただちに富嶽(ふがく)を負い駿湾をのぞみ、一望千里曠宏(こうこう)たる高原にして、なお原始の処女林あり。加うるに大道あり河沢あり、四神相応の霊地なり」(富士日興上人詳伝二四一頁)
と、大石が原こそ四神相応の霊地であることを証明された後、
「まさに四神相応に近からずや、富士四山(重須、下条、小泉、西山)の地勢は、大いにこれに遠きにあらずや。おのおの、その開基時代相地の用意・不用意、深く味わうべきことで、ことに我れら開山日興上人・開基檀那南条時光の、遠き未来を鑑みての十二分の御用意に感謝すべきである」
と仰せられている。
すなわち、日興上人は、広布の暁に本門寺戒壇を建立するに相応しい四神相応の勝地として、大石が原を選ばれ、この地に本寺を建立されたのだ。

だからこそ、妙信講(顕正会の前身)もかつては、
「下条より約半里ほど離れた北方に大石ヵ原という茫々(ぼうぼう)たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。かくて、日興上人は弘安二年の戒壇の大御本尊をここに厳護されると共に、広宣流布の根本道場として地名に因んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号されたのである。これが日蓮正宗富士大石寺の始まりである」(『冨士』昭和三十九年九月号)
と述べていたではないか。

「御遺命の戒壇となる建物」=「御遺命の本門寺(本門戒壇)」であることは、藤村自身も先の発言で認めているわけだから、この〝日興上人が本門戒壇建立の最適地に(本門寺の前身として)大石寺を建立された〟という事実は、藤村の言葉をもって言えば「未だ広宣流布が達成されていないのに予め御遺命の建物を建ててしまった」という事になってしまうではないか!
だいたい、大石寺から四キロ離れた天母山に本門寺戒壇を建立しなくてはならない、などという説にしがみつくから、かつての妙信講機関誌とも矛盾をきたし、日興上人の深き御配慮にも違背することになるのだ。

「浅井センセーの正しさを認めた」だって!?

いやはや、このタイトルにはまいった(笑)。誰が「浅井センセーの正しさを認めてしまった」というのか。勘違いもたいがいにせよ。

本紙記事の「そもそも『国家意志の表明』は広宣流布達成の暁に示されるものであり、広宣流布とセットで考えるべきものである」との文を見て大喜びしているようだが、これは、べつに浅井の正しさを認めたわけでも何でもないし、前々から本紙で論述してきた当然の道理である。
昔から「敵を知り己を知らば、百戦危うからず」というが、藤村は敵の主張も知らずに闘いを挑む戯(たわ)け者のようだ。

藤村よ、まず〝戒壇建立のプロセスとして国家意志の表明が必要である〟という当方の主張が、これまでに本当にあったか、頑張って探してみるがよい。その程度の確認をしてくれなくては、議論にならない。
なお、当方は、戒壇建立に至るプロセスとして、国家意志の表明はあってしかるべきだが、それが勅宣並びに御教書でなければならないとは限らない、と言っているのだ。大切なのは、日本国の大多数が入信して同意しているという事実(広宣流布の達成)であり、それを表明する形が、勅宣・御教書なのか、別な形になるのか、その時代における主権者が誰であるかによっても変わるであろうから、そんなことを今からどうこう言っても始まらない。要は、まず一国の動向が正法によって決せられるだけの、確たる状態を確立していくことが重要で、それを目指して折伏弘教に励むことが肝要だ、と主張しているのである。
それを「浅井の正しさを認めてしまった」などと、とんでもない勘違いをされては、藤村の能天気ぶりを笑うしかない。

ニセ本尊の議論に詰まった藤村

以上、藤村の反論にもならぬ駄文を一蹴したが、『顕正新聞』では、『慧妙』の記事を全て妙観講大草講頭が書いていると思い込み、「大草一党の痴論」等と書き殴ってくるが、べつに本紙『慧妙』は妙観講の機関紙ではないし、執筆しているのも十数名の僧俗有志である。しかるに浅井一味は、よほど大草講頭が怖いのか、ススキを見て幽霊と思うがごとくに、全て大草講頭に結び付けてくるが、そんなに大草講頭との闘いを望むなら、さっさと浅井の名代でも立てて大草講頭との法論に応じればよい。見苦しいかぎりだ。

なお、冒頭でも述べたが、藤村雄大は、ニセ本尊についての追及を黙殺して逃げ続けている。こんなことは、もし直接対決していたなら、議論に詰まって負け、と判定されるところだ。
よって、今後も藤村がニセ本尊問題に頬(ほお)かむりして、御遺命が何たら、国家意思が何たら、等という弁明を出すなら、その時点で「藤村完敗」を宣告するから、藤村よ、そのつもりでいるがよい。

(『慧妙』令和3年4月16日号より転載)