資料集

顕正会法務部長(副教学部長)藤村雄大の愚劣な論述を破す!本紙の破折に対するお抱え弁護士のゴマカシだらけの反論

『慧妙』令和3年3月1日号より転載

ニセ本尊疑惑については一言の反論もなし!
不都合なテーマを避け自己弁護に必死の藤村

二月五日付『顕正新聞』に“「宗門の御遺命違背」に対する5つの糾弾、大罪を糊塗する「慧妙」の痴論を破す”と題する顕正会法務部長(副教学部長)藤村雄大(ゆうだいではなく、ゆうた、と読む)の論述が掲載されている。

これは、一月十六日付の本紙『慧妙』に掲載の「これが顕正会の言い掛かりの手口だ」において、顕正会の出してくる論難を五点にわたり破折したが、その内容に対する反論のつもりらしい。
だが、その内容たるや、さすが顕正会のお抱え弁護士だけあって、教義的な中身が無く、愚劣なゴマカシに満ちたものとなっている。

藤村は、「顕正会教学部に糾弾され、しばしば『議論に詰まってしまう』大草一党(※妙観講を目の敵にする藤村らは好んでこういう言い方をする)にとっては、なるほど、必要・緊急の企画だったのであろう」などと、高みからものを言っているが、何をか言わんやである。

妙観講はじめ法華講側から「顕正会の本尊はニセ本尊だ!」と徹底的に追及され、藤村ら顕正会教学部こそが、議論に詰まり、反論不能となっているではないか(その醜態の数々はホームページ『顕正会からの脱出』に詳しい)。

また、すでに本紙一月十六日号で指摘した通り、顕正会教学部は莫迦の一つ覚えのように「過去において宗門が、正本堂を御遺命の戒壇であると言っていたらどうする? 宗門が御遺命破壊であったことを認めるか?」などと言ってくるが、この論法はスリカエとゴマカシで成り立っている。万一それに気づかず、誑かされる向きがあってはならないので、教学的な価値は少ないが、あえて本紙がその誤りを指摘してあげた、という次第である。

その破折によって、顕正会のスリカエとゴマカシの論法は、すでに根元から切断されているが、それに全く気づかぬ(あるいは気づかぬフリをしている?)藤村の認識力の欠如には、ほとほと呆れるばかりである。

さらに傑作なのは、「妙観講法務部主任・榎本が、自身の敗北を取り繕う『作文』を掲載していた。その内容は『ヤバいでしょ。ヤバいよ。こんなふうに笑っているのがバレたら、こんなところで笑っているのがバレたら、とにかくヤバい!』等と、私が言ってもいない発言を縷々捏造した上で、『“面従腹背”を丸出し藤村雄大』などと謗るものであった」などと、冒頭部分にわざわざ全く関係ない件の言い訳をして、自己弁護を計っている点である。

この自己弁護の言い訳こそが、最も藤村が(浅井父娘に対して)アピールしたかったことなのだろうが、実際の折伏の現場で藤村の発言を聞いていた人達から、その記憶を消し去ってしまうことはできない。藤村は、いつか浅井父娘に真実が発覚することを恐れ、暗澹たる思いで過ごしていくことだろう。

また藤村は、榎本氏のレポートにあるように、ニセ本尊について追及されシドロモドロで反論不能に陥ったにも拘わらず、この都合の悪い事実についてはただの一言も触れていない。どちらが捏造であるか、本人が一番よくわかっているはずだ。

さて、顕正会の五つの論難を本紙一月十六日号が破折したことに対し、今回、藤村が『顕正新聞』紙上で出してきた反論の一つ一つについて、重ねて破折を加えておこう。

<疑難1>

・広宣流布が達成されたとしても、国家意志の表明たる「勅宣・御教書」もなく、宗門だけで建てた正本堂は御遺命の戒壇になり得ない。

・当時の宗内には、正本堂完成時に広宣流布できるという期待・見込みなど全くなかった。実際に、阿部日顕(上人)も「池田大作が正本堂を御遺命の戒壇と『指名』したから、つい我々も同じようなことを言ってしまった」と認めているではないか。

<破折1>

・藤村は、『三大秘法抄』に照らせば「仮に昭和四十七年までに広宣流布が達成されたとしても、国家意志の表明もなく宗門だけで建てた正本堂は、およそ御遺命の戒壇にはなり得ない。したがって、かかる偽戒壇を『御遺命の戒壇』と断定した宗門高僧らの発言は、御遺命に背き奉るものというほかない」と述べているが、そもそも「国家意志の表明」は広宣流布達成の暁に示されるものであり、広宣流布とセットで考えるべきものである。

したがって、昭和四十七年に広宣流布が達成されたとしても国家意思の表明がないから偽戒壇···などと言って、未だ国家意思の表明などという時(すなわち広宣流布達成の時)に至っていない、昭和四十二年の時点における高僧発言(正本堂が御遺命の戒壇となる、という発言)を非難するのは、まさに錯乱しているとしか言いようがしかない。いったい、藤村の頭の構造はどうなっているのか、論理立てが支離滅裂ではないか。

・藤村は、日顕上人の「しかし、その時はそのような空気(広宣流布が達成されるという期待)が宗門を巻き込んでいった。その一番元は、池田大作名誉会長が、大聖人の御遺命の達成であるという意味で、正本堂を『三大秘法抄』の戒壇であると指名したことであります」(平成三年一月十日・全国教師指導会)とのお言葉を引いて、「当時、正本堂が完成するまでに広宣流布が達成されるかもしれないとの期待があった、などというのは詭弁である。

池田大作が御遺命達成だと言っていたことにへつらって、宗門も同じようなことを言ってしまったと、日顕上人も認めているではないか」と主張している。

当時、いまだ生まれてもいなかった藤村が、当時の宗門に広宣流布が近いとの機運がなかったなどと、知ったかぶったことを言ってはいけない。こういうのを、見てきたような嘘というのだ。

当時の創価学会の発表によれば、会員増加はじつにめざましく、年々、三百万世帯、四百万世帯、五百万世帯と急増しており、このままの勢いで行けば、正本堂が完成する頃には当時の日本の総世帯数の三分の一にあたる一千万世帯に達するであろう、と見られていた。

そうなれば日本国民の大多数が帰伏したことになるから広宣流布の達成である、と池田大作らは主張し(例えば、正本堂の発誓願文で池田は「立正の二字、すでに顕現せんとす」と述べているが、これも端的に広宣流布が達成すると言ったものに他ならない)、その学会の発表に全宗門も巻き込まれ、もうすぐ広宣流布が達成されるに違いない、との機運が高まっていったのである。

実際、当時信心していた人々に確認してみると、日達上人の「達」は広宣流布達成の「達」だと聞かされていた人や、正本堂ができる時には「吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず」(御書六七〇頁)という広宣流布の相が実現する、と聞かされていた人など、皆が広宣流布達成に期待を持っていたことは周知の事実である。

そもそも、広宣流布が達成するのではないかという期待や機運など全くなかったが、御遺命の戒壇建立という空気に巻き込まれていた、などと、いかに反論のための反論を述べなくてはならないにしろ、藤村は、自分の所論が支離滅裂になっていることに気づかないのか。

さらに、洗脳された藤村の頭では「御遺命=戒壇」としか理解できないようであるが、日顕上人のお言葉中の「大聖人の御遺命の達成」とは、「広宣流布の達成」のことである。その上で建立されるのが、『一期弘法抄』『三大秘法抄』に示される広宣流布の暁の戒壇である。

したがって日顕上人は、池田大作が「広宣流布が達成する」と言い出して、宗門全体もそのような空気になっていった、そして皆が、正本堂こそ御遺命の広宣流布の暁に建立される戒壇であると、期待するようになった、と言われているのである。

諸御書を拝しても、大聖人の御遺命が三大秘法の広宣流布にあることは明瞭だが、藤村らは、御書も持たず、浅井の所説だけをありがたがって聞いているから、こんなことすらわからないのだろう。

正本堂以前の期待する発言は謗法にあらず
日興上人の御配慮をも否定する師敵対の逆徒

<疑難2>

・『慧妙』は、『訓諭』こそが宗門の公式決定であり、それ以降に正本堂を御遺命の戒壇とする発言はないからいい、と言うが、それは論点のすり替えである。昭和四十二年当時、宗門高僧らが正本堂を「御遺命の戒壇」と出版物に掲載・公表した事実に変わりはない。この事実を認めよ。

・『訓諭』の内容にも問題がある。未だ広宣流布も達成していない段階で、「御遺命の戒壇となる建物」を建ててしまうこと自体が『三大秘法抄』に定められた時・手続を無視し、「時を待つべきのみ」の御訓誡に背く御遺命破壊なのである。

<破折2>

・何回言っても、頭のおかしくなった連中には通じないようだが、昭和四十七年以前に、いくら「正本堂ができる時には広宣流布が達成されて、正本堂は御遺命の戒壇となる」と言っても、それは、未だ来ぬ将来への期待に過ぎない。 そして、実際に正本堂の完成を迎える時点で、いまだ広宣流布は達成されなかったから、正本堂は御遺命の広宣流布の暁の戒壇とはならなかった。昭和四十七年四月に発せられた『訓諭』は、そのことを明示しているのである。

もし、昭和四十七年に正本堂が完成した時点で、広宣流布が達成されていないのに、正本堂は御遺命の広宣流布の暁の戒壇だ、などと言ったら、それは御遺命違背ということにもなろう。だが、それ以前に、いくら期待をもって発言しようとも、それは御遺命違背だとか御遺命破壊などには当たらぬ、と言っているのである。

それを、「昭和四十二年当時に高僧らが正本堂を御遺命の戒壇と言った事実に変わりはない、この事実を認めよ」などと言い続ける藤村は、言葉も道理も通じない浅井狂信者である。洗脳が進むと、これほど簡単なことも理解できなくなるのか、と恐ろしくなる。

・藤村は、『訓諭』の内容にも問題があるとして、「『三大秘法抄』に定められた時・手続を無視し『時を待つべきのみ』の御制誡に背く御遺命違背である」と言う。つまり、藤村は 「広宣流布が達成する以前に、御遺命の戒壇となる建物を予め建ててしまったということが、御遺命違背だ」と言いたいのである。

こんな道理と教学に疎い御仁が、よくぞ副教学部長になど任命されたものである。いや、任命している浅井自身が全く解っていないのだから、仕方ないのかもしれないが、いずれにしても恥ずかしいかぎりである。
以下に、藤村の誤りを論証する。

第二十六世日寛上人は、『文底秘沈抄』に
「富士山下に建立する戒壇を本門寺と名づく」(六巻抄 頁)
と仰せられ、また宗祖大聖人は、『百六箇抄』に
「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書一六九九頁)
と仰せられている。すなわち広宣流布の暁の戒壇とは、富士山本門寺(別しては本門寺本堂)を指すのである。

しかして、第二祖日興上人は、その広布の暁に建立される本門寺に相応しい場所として大石ヶ原を選ばれ、この地に本寺を建立あそばされた。寺号は、広宣流布の以前であるから仮に大石寺と名付けられたが、三十一世日因上人が、
「広宣流布の日は当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号すべし」(研究教学書十六巻七一頁)
と仰せられ、また四十四世日宣上人が、
「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す」(『世界之日蓮』)
と仰せのように、広宣流布の暁には大石寺が即本門寺となるのである。

これが「本門寺を建立する」という意にあたることは、申すまでもない。すなわち、「建立」といっても、ここでは、建築的に建てるという狭い意味ではなく、広宣流布の暁には大石寺が改称されて、事の戒法の大功徳を発現する本門寺戒壇の意義が現われる、ということを指しているのである。

ちなみに「建立」に「建築」以外の意味もあることは、前の御金言中、「三箇の秘法建立の勝地」と言われる場合の「建立」は、三大秘法総在の御本尊を安置する、ということを意味しているし、諸御抄において、大聖人が御本尊を顕わすことを指して「建立」と表現されている通りである。

ともあれ、このような道理を踏まえた上で、日興上人は、広宣流布の時に備えて、予め本門寺の前身たる大石寺を建立あそばされた、と拝せられる。

こうした日興上人の尊い御配慮も、藤村らの論法で行けば、「未だ広宣流布が達成されていないのに、戒壇となるべき本門寺を予め作ってしまったのだから御遺命違背だ」ということになってしまうではないか。

およそ藤村ら顕正会員は、浅井の洗脳により、戒壇を大石寺(本門寺)と切り離して、別な場所の天母山に建てる、などと考えているから、全く理解が及ばないのである。

いずれにせよ、以上のような道理に照らせば、来たるべき広宣流布の時に備え正本堂を建立しよう、と御考えになられた日達上人はじめ当時の宗門が、建物を先に作ったから御遺命違背だ、などという非難に当たらぬことは明らかだ。逆に、仏法の道理も弁えず、宗門誹謗を繰り返してきた顕正会こそ、「仏法が全くわかっていない外道」「師敵対の逆徒」であることは間違いない。

池田の大謗法発言と高僧の発言との違い
日蓮大聖人も「心こそ大切に候へ」と御教示

<疑難3>

・池田の発言は大謗法の念慮から出た言葉だが、宗門高僧の発言は、正本堂が御遺命の戒壇になることを期待して述べた発言だからまるで違う、というのは言い訳にならない。大聖人の御金言に背き、およそ御遺命の戒壇になり得ない偽戒壇を「御遺命の戒壇」と断定する発言自体が、御遺命の「法義」から「逸脱」している。「念慮」や「期待」の問題ではない。これらの発言は池田に対するへつらいから出たものである。

<破折3>

・何度も言うが、大村御尊能化の「正本堂が御遺命の戒壇となることを期待して述べられた言葉」は、「謗法」でも「逸脱」でもない。
一方、池田大作の発言は、自らを広宣流布達成の大功労者(ひいては大聖人をも凌ぐ仏)とせんがための憍慢謗法の念慮から出たものであるから、日蓮正宗として厳しく糾弾するのが当然である。

大村御尊能化は、全く法義に違背などしていないし、御尊能化が純粋に広宣流布達成を期待する心から述べられた言葉と、池田大作の邪悪な念慮から出た発言は全く異質な別物である。
こうした「心」「念慮」の持ちようは仏道修行において最も大切なものであり、そのことを大聖人は、
「心こそ大切に候へ」(御書一一九0頁)
「ただ心こそ大切なれ」(御書一四0七頁)
等と仰せである。
それがわからず、ただ上辺の文字だけに捕らわれる藤村は、全く心の通じない守文の徒、と呼ぶべきであろう。

「言い過ぎ」「はみ出し」と言われた意味は!?
言葉尻に囚われ文意の掴めない藤村

<疑難4><疑難5>

・大村寿顕(御尊能化)自身が「池田名誉会長と同様の事柄を述べたことがありました」「私の過去の発言の過ち」と認めている発言を、「逸脱でもなければ、謗法でもない」と言い張る『慧妙』は異常である。

・阿部日顕(上人)の「今から見れば言い過ぎやはみ出しがあった」と認める発言を、「逸脱でもなければ、謗法でもない」と言い張るあたりが、いかにも大草一党らしい。

<破折4><破折5>

・この二つは同様の内容であるので、まとめて破折する。
大村御尊能化の発言も法義逸脱や謗法ではなく、日顕上人の言われる「言い過ぎやはみ出し」であった、ということである。

要するに、広宣流布が達成したら正本堂は御遺命の戒壇になる、と期待する発言があったが、結局のところ、広宣流布は達成せず正本堂も御遺命の戒壇とはならなかった、それを今の時点から振り返ってみれば、言い過ぎだったことになる、と日顕上人も大村御尊能化も仰せられているに過ぎない。

それを、謗法だ、御遺命破壊だなどと、大騒ぎして誹謗している方が謗法である。
こんな簡単なことも分からないというのは、浅井に洗脳されて頭がおかしくなっているとしか思えない。
大村御尊能化の「池田名誉会長と同様の事柄を述べたことがありました」との発言を問題にして、「同様の事柄」という文言に執着しているが、前の破折3で述べた通り、じつは、大村御尊能化と池田大作の発言の意味内容は同じではない。大聖人が「ただ心こそ大切なれ」(御書一四0七頁)と仰せのように、その心底が全く違うからだ。

大村御尊能化の謙虚で潔い信仰心を逆手に取って、その真意を無視し、あくまでも言葉尻を捕らえようというのは、真面目な仏道修行者の姿勢ではない。
所詮、日蓮正宗から破門・追放され、寄生虫扱いされている異流義団体ならではの、低劣な心根である。

浅井は「いよいよ時を得て大御本尊が姿を現わす」と
藤村よ、苦しい言い訳とスリカエはやめよ!

<疑難6>

・『慧妙』は、過去の浅井先生の発言を引いて、「浅井も正本堂を御遺命の戒壇としていた」というが、これは文章の歪曲である。「奉安殿から正本堂へ御遷座される旨」を仰せられたにすぎない。

・「今の正本堂は事の戒壇ではない。奉安殿が狭くなったので、広い処へ移すためだけのものである、と妙信講では指導している」という法華講連合会委員長・平沢氏の浅井先生に対する詰問状を見れば明らかである。

<破折6>

・藤村のゴマカシとスリカエの手口を指摘する。
浅井の「その御本尊様がいよいよ時を得て徐々に大衆の中に御出ましになる。御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い御思召により、大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります」の発言について、藤村は、これは「御宝蔵から奉安殿を経て正本堂へ御遷座される旨」を述べたにすぎない、と言う。

しかし、同発言のその直後部分(一月十六日付『慧妙』にも引用)を見るがよい。
「その深い意義は凡下(ぼんげ)の我々のみだりに窺(うか)がう所に非(あら)ずとはいえ、容易ならぬ事であります。いよいよ大衆の中に人類の中に、その御姿を除々(ママ)におあらわしになる」
とある。「大衆の中に人類の中に、その御姿を除々(ママ)におあらわしになる」とは、いったいどういう意味か。ただ単に御遷座される、という意味でないことくらい、子供にでもわかろう。

さらに浅井は、
「今までの七百年は御宝蔵の奥深くに秘されて参りました。唯(ただ)そのスキマもる光を拝して一部の宿縁深厚なる信者が許されて猊下より内拝を賜(たまわ)っていたのであります。その御本尊様がいよいよ時を得て、除々(ママ)に大衆の中に御出ましになる」
とも言っている。

これまで「奥深くに秘され」「一部の宿縁深厚なる信者が許されて内拝を賜っていた」状態から、「いよいよ時を得て、徐々に大衆の中にお出ましになる」というのを、単に、御宝蔵から徐々に御遷座されていく状態を述べたものだ、などと言い張る藤村は、日本語能力ゼロである。いや、日本語能力というよりも、洗脳で頭がおかしくなっている、と言うべきであろう。

重ねて言うが、ただ御遷座されていくだけだったら、姿を現わす、ということにならない。浅井の述べている意は、御宝蔵から徐々に御遷座されていき、ついに正本堂において大衆の前に姿を現わす、ということ以外にありえないのである。
しかるに、「浅井先生は、正本堂完成時に『戒壇の御本尊が大衆の前に現われる』などとは、一言も述べておられない」などと、藤村は、どこを見て、こんな寝言を言っているのか。小学校で国語の勉強をし直してきた方がよいのではないか。

さらに続けて藤村は、「なぜ『徐々に』等の文言を隠し、文章を歪曲するのか。見え透いたペテンはやめよ」等と言うが、べつに「徐々に」を隠す必要など、どこにもない。浅井は、御宝蔵から奉安殿を経て正本堂に至ることを「徐々に」と言っているのであり、そのような段階を経ようが経まいが、戒壇の大御本尊が正本堂において大衆の前に御出ましになる、と言っていることに変わりはない。苦しい言い訳は止めよ。

・藤村は姑息にも、浅井が正本堂建立に賛同していた昭和四十年の発言と、正本堂建立に難癖をつけるようになった昭和四十四年の発言という、時期の違う二つの発言を同列に示すというスリカエによって、浅井の重大矛盾を糊塗しようとしている。

藤村の引用した「今の正本堂は事の戒壇ではない。奉安殿が狭くなったので、広い処へ移すためだけのものである、と妙信講では指導している」等という法華講連合会委員長・平沢氏の浅井に対する詰問状は、昭和四十四年二月十一日のものである。つまり、妙信講が宗門・連合会への反発から正本堂に難癖をつけ始めた後の、浅井らの発言なのである。

だが、本紙が「浅井も当初は正本堂を御遺命の戒壇としていた」と、浅井の具体的な発言を引用し、指摘したのは、昭和四十年の発言についてである。
時期の異なる発言を同列に並べて、自らに都合よく誤魔化すなど、姑息としか言いようがない。さすが、これが顕正会のお抱え弁護士の手口かと、妙に納得させられるではないか。

本尊疑惑に答えぬなら徹底追及

〈最後に〉

最後に「顕正会以外に応え奉る集団なし」などと戯言を吐いているが、顕正会以外にこのような姑息なゴマカシをする集団はない、と言うべきだ。
また、「謀略紙『慧妙』ついに断末魔!!」などと、何年も言い続けているように思うが、いったい、いつ断末魔が来るのか、そもそも断末魔の意味が解っているのか? 大いに笑わせてくれるではないか。

以上、藤村の痴論を粉砕したが、この男が顕正会の法務部長であり、副教学部長だというのであるから、組織全体の程度も知れるではないか。
ともあれ、この言い訳と反論を目的とした痴論中でも、一言も触れることのできなかった顕正会のニセ本尊疑惑について、副教学部長らしく、堂々と反論してみたらどうか。それができないかぎり、これからも日蓮正宗側からの疑惑追及は続くであろう。