顕正会に入会して悲惨な人生へ
周囲には精神的に病む会員達が
私は、今から二十二年前の平成十一年、友人の紹介で異流義団体の顕正会に入会してしまいました。それが、私の悲惨な人生の始まりでした。
次第に顕正会で洗脳されていった私は、〝顕正会こそが日蓮大聖人の仏法を正しく実践している団体であり、正しい信心ができるのは浅井昭衛会長のおかげである。宗門は大聖人の御遺命を曲げた大謗法の団体である〟と本気で思い込み、顕正会に人生をかけるつもりで活動するようになりました。
ところが、顕正会の活動をすればするほど悩みは増えるばかりで、生命力もどんどんなくなり、歓喜など全くありません。あるのは、滅茶苦茶になっていく自分の人生だけで、顕正会で幸福になるなんて微塵も感じられない状況でした。
銀行から数千万円を借りてスーパーマーケットを経営したのですが、納品業者から詐欺に遭い、経営に行き詰まって倒産、多額の借金が残ってしまいました。
その後は、精肉店、蕎麦屋、タイヤキ屋、健康食品販売と、次々に経営しましたが、全て失敗し、ますます経済的に行き詰まりました。
そうした中で、徐々に私の精神状態はおかしくなり、気分の浮き沈みが非常に激しく、子供達にも怒鳴り散らし、ご飯も作れず、何もできずに寝込んでしまうという、とんでもない生活に陥ってしまったのです。
それは私だけでなく、周りの会員達の中からもどんどん精神的におかしくなり精神病になる人が出ました。
今にして思えば、日蓮正宗や猊下様を誹謗して、ただで済むわけがありません。まさに顕正会には、「悩乱する者は頭(こうべ)七分に破(わ)れん」と御書に示された頭破七分の現証が多く見られていたのです。
浅井の娘の異常で冷酷な言動
疑問を口にした会員を徹底粛清
地獄のような毎日を過ごしていたある時、私が顕正会をやめるきっかけとなることが起きました。
ある会合で、浅井昭衛の娘である浅井昌子が登壇し、その話の中で「会員は、有り難いという気持ちがあれば、それだけでよい」と言いました。
それを聞いて「おかしい」と感じた幹部の一人Aさんが、他の会員に「それはおかしいのでは?」と言ってしまいました。すると、それを聞いたある会員が、Aさんの発言を浅井昌子に報告したのでした。
独裁国家のような組織の中で、そのような疑問発言は一言でも許されるわけがありません。その後、疑問を口にしたAさんに対して上層部からの冷酷な粛清が始まったのです。
まず、その日からAさんは、顕正会の全ての会館への出入り禁止を言い渡されました。
さらにその後すぐ、Aさんの下にいる会員達が大宮本部に呼び出され、浅井昌子から踏み絵のような詰問をされました。私も呼び出された中の一人でした。
浅井昌子は、常軌を逸した高圧的態度で、一人ひとりに、「Aさんについてどう思うか」を問い質しました。
顕正会が唯一正しい信仰団体だと思い込まされている会員達は、自分が組織で生き残るために、幹部の意向を汲み取って答えるしかありません。一人ひとりが、Aさんの悪口を言い出しました。
さぞ昌子はご満悦だったでしょう。しかし、順番が回ってきた私は、「(Aさんをおかしいと思うことは)ありません」と、本心で答えたのです。
すると、浅井昌子は目をいからせ、鬼のような形相になって、「あなたは、もういいわ!」と言い放ち、その後、私はまったく無視されました。その一方で、集められた人達と昌子は、Aさんの悪口で大いに盛り上がっていました。
Aさんの疑問内容のどこがいけないのかを本人に説明するでもなく、いきなり組織から排除し、さらに皆で批判し合って見せしめにする―。もし本当に顕正会が成仏のできる正しい組織だというなら、なぜこんな無慈悲なことができるのか―。
私は、これが浅井会長の娘なのか、これが大聖人様の正しい信仰をしている団体の姿なのかと、その時初めて、顕正会に疑問に持ちました。
幹部の言動も異常そのもの!
顕正会への執着が消えた瞬間
さらに、問題はこれだけでは終わらず、浅井昌子に対しておもねることをしなかった私への粛清が待っていたのです。
数日後、私は大宮本部に呼び出されました。そこで昌子は、「幹部(昌子)の発言に従えない人は、浅井先生の言っていることに従えていないのだ」とヒステリックに騒ぎ出し、私が話そうとすると言葉をさえぎり、自分の意見を押し付け、高圧的な態度で約三時間も怒鳴り散らしました。それは、とても常人の姿ではありませんでした。
これを見て、私の疑問はさらに大きくなりました。この浅井昌子という人は、精神的に異常をきたしているのではないか―。会長の娘であり、会長を絶対的に信奉し、正しく信心修行しているはずの人が、こんなにも異常をきたしているなんて、これは顕正会が仏様の御意に適(かな)っていないからではないか、と思い始めたのです。
しかし、その時の私の中には、長年にわたり寝食を忘れて顕正会で活動してきたことへの執着心もあって、顕正会を辞めようとまでは思いませんでした。
その後、別の幹部からも呼び出され、指導と称して、仏法の道理とは全く関係のない、低次元で無茶苦茶な話を延々と聞かされました。
その時、「この人もまた、昌子と同じで精神的に破綻(はたん)している」と感じた私は、指導という内容があまりにも低次元だったこともあって、つい鼻で笑ってしまいました。すると、それを見た幹部は、昌子と同様、いきなり激怒し、狂ったように喚(わめ)きだしたのです。
その幹部の怒り狂う姿を見て、私の中の顕正会に対する執着心は、一気に消え去りました。そして、その場で、「二度と顕正会では活動しない」と言い切って、顕正会を辞めました。
振り返ってみれば、顕正会では、『顕正新聞』の契約数のノルマに追われ、水増しした新聞の代金を負担させられたり、僧侶もいないのに「御供養」と称して集金し、それも上の幹部から半ば強制的に「あの人からも集めろ。この人からも集めろ」と言われて、他の会員名義でお金を出している人も当たり前におりました。
そのため、貧乏な人が多い顕正会なのに、さらに貧乏になり、いまどき、風呂無し共同トイレのボロアパートで悲惨な生活をしている会員も大勢いました。その一方で、浅井一族は大宮の本部の近くに立派な邸宅を構えているのです。本当に疑問だらけの顕正会でした。
法華講で知った罪障消滅の功徳
くも膜下出血から奇跡の生還
しかし、顕正会を辞めたからといって、顕正会で作ってしまった謗法の罪障が無かったことにはなりません。顕正会から脱会してからの一年間は、生活上の行き詰まりなどで苦しい毎日でした。
そのような時の平成十九年、先に日蓮正宗に入信し法華講員となっていた、元顕正会の幹部だった方から折伏され、顕正会は誤りであり、大御本尊様をお守りしているのは日蓮正宗なんだと知ることができ、子供達三人と共に御授戒を受けさせていただきました。さらには、私が顕正会に入れてしまった母も御授戒を受けることができました。
その後、令和元年四月に当時の所属寺院の御住職の特別なお計らいで、理境坊所属妙観講の講員となり、現在に至っております。
法華講は顕正会とは大違いで、どこまでも大聖人様の教えに忠実で、解らないことは丁寧に教えてくれますし、威張り散らすような幹部もいなければ、人が人を貶(おとし)めたりといったこともありません。そうした中で、皆さんが異体同心して功徳を積み、その積んだ功徳で仏法の正しさを証明しているのです。
私は、こうした講中の空気に触れて、かつて犯してしまった謗法の罪障を消滅させていただきたいと思い、勤行・唱題はもちろん、総本山大石寺への登山、会合参加、折伏と、精いっぱい仏道修行に励んできました。
そして、その中で、顕正会では絶対に味わうことのできない、本当の功徳と有り難さを心底から感じる日々を送ってきました。
中でも、御本尊様はこのような形でも人生を守ってくださるのだ、と大感激した体験があります。それは、昨年六月のことでした。
私は、娘二人と共に、埼玉県秩父市に住む従兄弟(いとこ)の家族のもとへ折伏に向かいました。
折伏を始めて一時間ほどが経った頃だったと思います。突如として背中になんとも表現しがたい感覚を覚え、同時に全身が重くなって、動けない!と思った瞬間、今度は耳まで聞こえなくなってしまったのです。
幸いにも従兄弟の奥さんが看護師だったことから、緊急事態であることを察知してすぐに救急車を手配してくれて、近くの病院に搬送されました。
検査の結果は「くも膜下出血」でした。命にも関わる事態です。
私は、緊急手術を受けるため、さらに大学病院へと搬送されました。
娘から連絡を受けた講中の幹部は、すぐに御住職様に当病平癒の御祈念をお願いしてくださいました。
さらに、手術の前に幹部の方が病院まで御秘符を届けてくださり、講中の皆さんは集まって手術の成功を祈念してくださっていたそうです。
私の場合、出血箇所は脳の真ん中で、手術は、頭蓋骨の四分の一をはずし、脳をかき分けて出血した血を吸引し、破裂した箇処をクリップで留め、さらに頭蓋骨を戻して三十ヵ所以上をホッチキスで留めるという、大手術でした。
予想以上に厳しい状態だったようですが、九時間にも及んだ手術は無事成功しました。しかし、出血箇所が悪かったということで、予断は許されない状態でした。
ところが、二日が経過して麻酔が覚めた時、私は手足のマヒも言語障害も一切なく、その後、術後一ヵ月という速さで退院することができたのです。
この出来事を通して、私は、自分自身の罪障の深さを実感すると共に、そのような自分をも助けてくださった御本尊様に心から御礼申し上げました。そして、この御恩に報いるためにも、娘と共に、周囲の人々を次々と折伏してきたところ、今年六月までに二十四名の方を入信に導くことができました。
さらに七月、私が倒れたために折伏が中断してしまっていた秩父の従兄弟と、やっと再会の約束が取れ、一年ぶりに折伏しました。
一年前に私のクモ膜下出血の現象を目の当たりにしていた従兄弟夫婦は、私が何の後遺症もなく、むしろ倒れる前より元気な姿で現われたことを心から喜んでくれました。特に、当時迅速な対応をしてくれた看護師の奥さんは、本当に驚き、「普通じゃ考えられない!」「たしかに御加護としか思えない」と言って、七月四日、従兄弟の家族が五人揃って御授戒を受けることができました。
振り返ってみれば、顕正会時代は謗法の果報によって、何をやってもうまくいかない地獄のような日々でしたが、法華講員となって、過去に積んでしまった自分の罪業を直視し、懺悔してくる中、計り知れない御本尊様の御加護により命までも助けていただきました。そして、今では、日々楽しく生きていることを有り難いと感じております。
この御恩を一生忘れることなく、今後も折伏・育成に、いっそう精進してまいります。
(「慧妙」令和3年8月16日号より転載)