正本堂にまつわる疑難の破折
本論に入る前に一言申し上げたい。
御遺命守護特集号と銘打った、去る本年(2019年)4月5日付『顕正新聞』で、顕正会会長の浅井昭衛は、かつての自著『最後に申すべき事』を自讃し、「いま時に当って、全顕正会員はこの一書を心肝に染め、改めて御遺命守護の大確信にたってほしいと、私は念願しております」(五面)と述べ、末端の顕正会員を煽っている。
しかし、その悪書は、すでに十四年も前に、日蓮正宗青年僧侶邪義破折班により『顕正会会長浅井昭衛の〝最後に申すべき事〟を砕破す』(平成十七年十一月七日付)と題する破折文書において徹底的に打ちのめされた代物に過ぎず、浅井が反論不能に陥った過去のある疑惑の書なのだ。にもかかわらず、そのことを末端の会員にはひた隠しにして虚勢を張るとは、なんとも痛ましいたばかりであろうか。御託を並べる前に、浅井昭衛はまずは破折文書に載せた自語相違について釈明すべきだ。
では何故、そのような下卑た愚行を重ねるのか。答えは簡単である。大草講頭の公開法論から逃げる為の口実、目眩しである。自分は阿部管長に公開法論を申し込んだほどの人物であるから、大草講頭は相手にしないと、卑怯にも逃げの一手を打って、卑劣にも幕引きを図っているのである。
大聖人の仏法を騙るなら、大聖人の御化導のごとく、常に破邪顕正の精神で、如何なる強大な相手でも正々堂々と対決すれば良い。顕正会員の手前、体面を保ちつつ、なんとか対論を回避する打開策として、またぞろ悪書を取り上げるとは、会内では大威張りの割に、浅井昭衛という男はなんと情け無い、腐った性根の持ち主であろうか。
かつて浅井昭衛は、日達上人や日顕上人に対して、散々「たばかり」と連呼していたが、浅井昭衛こそ、そのすべてが謀りであると、先ず以て破折しておく次第である。
一、戒壇の御教示
御書の中で、日蓮大聖人の出世の目的とされる本門の本尊と戒壇と題目の三大秘法が初めて説示されたのは、佐渡配流御赦免以後のことである。
すなわち大聖人は、身延に入山されて間もない文永十一年五月の『法華取要抄』に、
如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答えて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり(御書七三六)
と説かれたことを皮切りに、その後、『報恩抄』等の複数の御書において、本門戒壇の名目を示されたが、戒壇に関する具体的な御教示は、大聖人御入滅の年である弘安五年に著された『三大秘法抄』と『日蓮一期弘法付嘱書』の二書のみである。
まず弘安五年四月八日の『三大秘法抄』に、
戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり(御書一五九五)
と戒壇建立の相について説かれた。そして同年九月の『一期弘法抄』に、
国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり(御書一六七五)
と説かれ、国主が下種仏法を信仰したならば、富士山に本門寺の戒壇を建立せよと、日興上人に御遺命された。総本山第六十七世日顕上人は、戒壇の本義が各御書に詳しく説かれていない理由について、
と御指南されている。
よって、戒壇の本義は御相伝の法門であると深拝すべきである。
平成三年に破門された創価学会もさることながら、誤った戒壇観を標榜する妙信講顕正会も異流義謗法となった根源的な原因の一つは、正本堂の建立をめぐる本門戒壇の意義付けについて、時の御法主上人の教導に従えなかったところにある。
本門の戒壇に関する一切は、どこまでも大聖人の血脈を御所持あそばす時の御法主上人の御指南によらなければならないことを銘記したい。
なお日顕上人は、平成十六年八月二十六日に開催された第五十三回全国教師講習会において、戒壇問題を総括され、
『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ということは、まさにその時が来た時に、本門戒壇の大御本尊様を根本と拝しつつ、その時の御法主がその時の実状に即した形で最終の戒壇を建立するのだと、私どもは信ずべきであると思うのであります(中略)
要するに、御遺命の戒壇は『一期弘法抄』の「本門寺の戒壇」ということであります(中略)国主立、いわゆる人格的な意味において国民全体の総意で行うということであるならば、憲法はどうであろうと、みんながその気持ちをもって、あらゆる面からの協力によって造ればよいことになります。
要は、正法広布の御遺命を拝して、倦まず弛まず広布への精進を尽くすことが肝要であります(中略)正規に大聖人が我々に示され、命令された御戒壇は何かと言えば御遺命の戒壇、いわゆる本門寺の戒壇であります。そして、これは本門寺が出来た時に行うということです(『近現代における戒壇問題の経緯と真義』九九頁)
と御指南されている。御遺命の戒壇は、広宣流布の暁に、時の御法主上人を中心として本門寺の戒壇として建立するものであり、現時においては、その正法広布の御遺命を拝して日夜精進していくことが肝要である。
二、正本堂の名称
戒壇建立に関して基本をなす御相伝の指南
①『百六箇抄』「下種の弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書一六九九)
②『百六箇抄』「日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」(御書一七〇二)
③『日興跡条々事』「一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり」
(御書一八八三)
※広宣流布の時に建立される本門寺の戒壇には、弘安二年の本門戒壇の大御本尊を御安置申し上げるのであり、大御本尊を根本として、大聖人の下種仏法の一切は日興上人に相承され、爾来、代々の血脈上人が相伝され、現在は、血脈付法の総本山第六十八世御法主日如上人猊下が、仏法の一切を御所持遊ばされている。
正本堂の名称
宗門において、初めて「正本堂」との語を提起されたのは、総本山第六十五世日淳上人「今日蓮正宗で申してをる戒壇の御本尊とは、本門寺の正本堂に安置し奉る御本尊である」(昭和三十年十月二十七日著『初心者への指針 高田聖泉氏の「興尊雪冤録」の妄説を破す』・『日淳上人全集』下巻一四五六)
※日淳上人が、叡山の迹門戒壇の在り方から本門戒壇も戒壇院を建てることと主張した高田聖泉の『興尊雪冤録』を破折した著述。
但し、当該「本門寺の正本堂」との御指南は、広布の事相に約し、未来広宣流布の暁の本門寺の戒壇を指して仰せられていることは明らかである。
ここで認識しておかなければならないことは、本門戒壇の本義としての「正本堂」と、かの建物としての「正本堂」との立て分けである。
ところで、昭和二十八年五月十日付の『聖教新聞』に「本門戒壇の大御本尊、山法山規をこえて御影堂に御出まし、これ国立戒壇正本堂に御出ましの前徴である大御本尊の御威光が一天四海に輝き渡る時期近し」とあり、続いて昭和三十年五月十五日付、また同年十月九日付の『聖教新聞』にも正本堂の語が掲載されているが、これは当時、歓喜寮(現在の杉並昭倫寺)や常泉寺などで、よく日淳上人より御教導を賜っていた戸田城聖創価学会二代会長が、その使命観から広布を実現したいとの志をもって記事にしたものと思われる。
三、正本堂の建立発願
さて、実際の建物として正本堂を建立する意思を表明したのは池田大作である。池田大作は、昭和三十九年五月三日の創価学会第二十七回本部総会において、
この七年間において、総本山、日達上人猊下に正本堂を建立、ご寄進申し上げたいということであります(中略)恩師戸田先生が、大客殿の建立が終わったならば、ひきつづいて、すぐに正本堂の建立をしなさい、すなわち、世界の建築の粋を集めて、一閻浮提総与の大御本尊様をご安置申し上げる正本堂を建立しなさいとのご遺言がございました。
すなわち、広宣流布の時きたって、大御本尊様は、御宝蔵から奉安殿へ、奉安殿から正本堂へとお出ましになるのであります。正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。
したがってあとは本門戒壇堂の建立を待つばかりとなります(聖教新聞・昭和三十九年五月五日号)
と正本堂の建立寄進を発表したが、これが正本堂について初めての公式な発言である。但し池田は昭和三十四年一月に、すでに、
国立戒壇建立の際には、大御本尊様が奉安殿より、正本堂へお出ましになることは必定と思う(大白蓮華・昭和三四年一月号一〇頁)
と正本堂という語を公言し、その後も、戸田氏の遺言で正本堂を造れと言われた(聖教新聞・昭和三五年四月八日)などと、しばしば正本堂について言及しているが、公式な発表ではない。
昭和三十七年九月号の『大白蓮華』には、『総本山大石寺の今と昔』と題した座談会の記事が掲載されているが、その中で、後に創価学会の理事長となる森田一哉が正本堂について質問したのに対し、当時の早瀬道応庶務部長(観妙院日慈上人)は、正本堂は、御法主上人猊下の御胸中におわしますものと信じており、広宣流布へ前進する段階にあると思うと答えられており、その頃は、宗門及び学会においても、はっきりしていなかった状況が看取される。
こうしたなか、昭和三十九年五月三日の池田大作の公式な発言を受けて、昭和四十年に正本堂建設委員会が設置され、同年二月十六日に行われた第一回正本堂建設委員会において日達上人は、
今回、池田会長の意志により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います(略)一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります(中略)大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります(大日蓮・昭和四〇年三月号)
等と、信徒からの寄進を受けるという形で、正本堂について初めて述べられたのである。
こうして、始めは広布の事相に約した御遺命の本門戒壇義の上から使用されていた正本堂という言葉が、その後の広布の進展と池田の発言により、次第に具体的な建物の名称として使われるようになった流れがあったのである。
四、正本堂の意義付け
さきに述べたごとく、昭和四十年二月十六日に行われた第一回正本堂建設委員会において初めて正本堂について御指南あそばされた日達上人は、
今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります。ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉の仕方はいままでと同じであります。したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでございます(中略)しかし、じっさいには将来もっと大きく考えて、この地に大正本堂ができたなら(大日蓮・昭和四〇年三月号)
と、その正本堂の具体性をも述べられており、ここに正本堂の意義の根源がある。
すなわち、戒壇の大御本尊は大石寺の本堂である正本堂に御安置すべきであるが、まだ謗法の人が多いので、御開扉は今までと同じ内拝であり、須弥壇も蔵の中に安置申し上げる形式であり、正本堂が完成してもまだ広宣流布の達成ではなく、将来の「大正本堂」こそが本門寺の戒壇であり御遺命の戒壇であること、つまり、正本堂が御遺命の最終の戒壇ではない、との趣旨であることが明らかである。
その後、昭和四十五年四月六日、日達上人は御霊宝虫払大法会の御説法において、
有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから私は未来の大理想として信じ奉るのであります(富士学林発行『日達上人御説法』)
と、「『三大秘法抄』の戒壇は御本仏のお言葉であるから、私は未来の大理想として信じ奉る」との趣旨、つまり御遺命の戒壇は未来のことである旨の御指南を遊ばされたのである。後年、平成三年に、日顕上人はこの日達上人の御指南こそ、正本堂に関する宗門僧俗の根本的信念であると教示されている。
なお、日達上人は、その御説法において、
将に世間で噂されておる国立戒壇などと云う言葉に惑わされず、ただ広宣流布の時に始めてできる戒壇であります。それが王立であろうが国立であろうが民衆立であろうが、全ての正信の信者が集まって戒壇の大御本尊を拝し奉る処こそ、何処でも戒壇であります(同)
と、国立戒壇の語にとらわれずに、戒壇の大御本尊の在す処を戒壇と拝すべきことを御指南されている。そして、さらに、正本堂が建立された年の昭和四十七年四月二十八日に「訓諭」を発せられ、
正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり(大日蓮・昭和四七年六月号二頁)
と、正本堂の全面的な定義をお示しになったのである。その「訓諭」について、日顕上人は、
「たるべき」ということは、そうであるべきということにおいては、現在はその意義を含んでいる建物だけれども、広布の時にはその建物がそのまま『一期弘法抄』の本門寺の戒壇になるのだという解釈と、そのようになるべく願望しておるところの意味との二つの解釈があるのです。つまり「本門寺の戒壇たるべく願うけれども、未来のことは判らない」という意味が、そこには含まれておる(『近現代における戒壇問題の経緯と真義』七四頁)
と御指南遊ばされている。
以上のことから、最初の第一回正本堂建設委員会での決判から、途中の昭和四十五年の虫払大法要での御指南、最後の訓諭に至る迄、日達上人の御指南は一貫して、正本堂は最終の御遺命の本門寺の戒壇ではないことが明らかである。
しかし、池田大作の捉え方と本音は、当初よりずれていたのである。例えば、先程挙げた第一回正本堂建設委員会における日達上人のお言葉について、
日達上人猊下から、正本堂の建立は実質的な戒壇建立と同じ意義をもつ旨の重大なお話があった(聖教新聞・昭和四〇年二月二〇日付)
と聖教新聞に発表した。そしてまた、正本堂建設委員会で作った「御供養趣意書」(昭和四十年三月二十六日)においても、
かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになった(聖教新聞・昭和四〇年四月十五日付)
と書いたのである。この「実質的な戒壇建立」や「広宣流布の達成」ということは、日達上人の第一回正本堂建設委員会のお言葉には見られないが、既に広布達成という考え方が先走った在り方として出てきたのである。勿論、それは大慢心の池田の主導によるものであった。
がしかし、とはいっても、広布を熱望する八百万に垂んとする信徒の赤誠の御供養による正本堂建立であることも慮られて、日達上人におかせられては、基本線は一切崩されないながらも、従容としてすべてを受け入れられつつ、
ただいまお聞きのとおり、だれも想像しなかったほどの多額の御供養をお受けいたしました。広宣流布達成のための、大折伏の大将である池田会長が、宗祖日蓮大聖人の「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」のご遺言にまかせ、戒壇の大御本尊様安置の正本堂建立を発願せられ、学会の皆さんに建立御供養を発願せられて、このりっぱなる成果となったのでございます。いま、私はこの供養をちょうだいいたしました。そしてこの全額を、私の信頼をもって、正本堂建立、ならびに広宣流布達成のための事業、設備等に使用していただくために、池田会長に委任したいと思います(大日蓮・昭和四〇年一二月号)
と、広宣流布に励む信徒を鼓舞する御指南を遊ばされたのである。
しかして、それらの御指南は、大聖人の佐前並びに信心未熟の信徒に対する釈迦如来の仏像造立を讃歎するごとき、方便誘引の慰撫教導の御化導であらせられたことは明らかである。
それは、昭和四十七年十月に完成した正本堂の須弥壇が蔵の形をしていた事実が如実に物語っている。まさに、第一回正本堂建設委員会での「まだ謗法の人が多いので(中略)須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形」との御指南が具現化されたのであり、よって正本堂は最終の御遺命の戒壇ではないことが、事相の上に明らかであり、何人も否定できない事実である。
五、妙信講の対応
さて、そのような中、浅井昭衛は、昭和45年5月25日の総幹部会で、
今回総本山に於て御法主上人猊下の御思召によりまして、いよいよ意義重大なる正本堂が建立される事になります。戒旦の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされるのであります。
この宗門全体の重大な慶事に、妙信講も宗門の一翼として講中の全力を挙げ真心を込めて猊下に御供養をさせて頂く事になりました。
実に日蓮正宗の生命は大聖人出世の御本懐であらせられる戒旦の大御本尊様にましますのであります。
この大御本尊は大聖人様より日興上人へ御付属せられて以来広布の時を待って歴代の御法主上人によって厳護せられて来たのであります。
今までの七百年はひたすら時を待たれて御宝蔵の奥深く秘せられて参りました。唯そのスキマもる光を拝して一部の宿縁深厚なる信者が許されて猊下より内拝を賜っていたのであります。その御本尊様がいよいよ時を得て除々(ママ)に大衆の中に御出ましになる。御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い御思召により大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります。
その深い意義は凡下の我々のみだりに窺がう所に非ずとはいえ、容易ならぬ事であります。いよいよ大衆の中に人類の中にその御姿を除々(ママ)におあらわしになる。
私共はこの猊下の御思召に同心し奉ってたとえ微力たりとも赤誠を奉りたい。先生は千載一遇のお山への御奉公だと申されております。全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか(『冨士』昭和四十年七月号八頁)
と発言し、まさしく正本堂建立を七百年来の重大な慶事と述べて喜んでいる。なおまた、同号の『冨士』において、
いよいよ正本堂建立の御供養 千載一遇の御奉公に歓喜の参加 真心を尽して悔いなき結晶を この御供養は、宗門の歴史をつらぬく大事で、猊下を通して戒旦の大御本尊様への御奉公であり、私達の生涯に二度とはない大福運であります。(『冨士』昭和四十年七月号一一頁)
とも報道していた。
しかし、後年、浅井昭衛は、『顕正会「試練と忍従」の歴史』の中で、
正本堂の御供養には妙信講も参加した。今日から見れば、なぜこれに参加したのか不思議に思う人もいようが、当時はまだ誑惑が顕著ではなかった。少なくとも、管長猊下は一言も正本堂を御遺命の「事の戒壇」などとは云われず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調し、「供養の誠を捧げよ」と、宗門の全僧侶・信徒に呼びかけておられたのである。(『冨士』昭和六一年八月号五三頁)
と、苦しい言い訳をしているのかと思うと、それ以前には、
時は昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において同上人(日達上人)は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされたのである。(『冨士』昭和五二年八月号六頁)
と、まったく逆のことを述べている。悩乱極まりない二枚舌であるが、それについて、日顕上人は、かつて、
同じお言葉に対して、片方ではこのようなことは言っていないと言っていて、もう片方では、そのようなことを言っていると攻撃しているのだから、浅井が口からでまかせを言っていると言えるぐらい、全く反対のことを言っているのです。(大日蓮・平成16年11月号五三頁)
と破折されている。
かくして浅井妙信講は、昭和四十年十月二日から三日に亘り、正本堂御供養に参加したのである。このように昭和四十年当時、浅井も正本堂建立に異を唱えることなく、むしろ正本堂の意義を強調していたのである。
そして、昭和四十四年には妙信講代表七百名による感激の御登山(『冨士』昭和四四年一月号)、昭和四十五年には御内拝に只々感涙した二千有余名による総登山(『冨士』昭和四五年一一月号)をしていたのである。
こうした中、昭和四十四年に、創価学会による「言論出版妨害事件」が起こったのである。これは、明治大学教授であった政治学者・藤原弘達の『創価学会を斬る』の出版をめぐり、学会が圧力をかけた事件。この『創価学会を斬る』は、創価学会と公明党の政教一致などを批判したものであった。
事件の経過は、まず四十四年八月三十一日、東京都議会議員であった藤原行正が、藤原弘達を訪ね、出版の取りやめを求め、それ以後、数度の交渉が行われたが、藤原弘達はこれをことごとく拒否した。そのため、創価学会は自民党幹事長の田中角栄を通じて、出版社・取次会社・書店などに圧力をかけ、同書の出版を妨害した。藤原弘達は、その経緯をマスコミに公表して大変な社会問題となったのである。昭和四十五年に入ると、創価学会・公明党が国会で厳しく追及され、池田大作の国会喚問も要求される事態となった。
そのような中、昭和四十五年三月九日には、衆議院予算委員会において、共産党衆議院議員・谷口善太郎が、創価学会の戒壇を国が国立戒壇として建立することは憲法違反にならないか、といった質問をした。また同年四月十五に日は、衆議院法務委員会において、社会党衆議院議員・畑和が、国立戒壇を目指している創価学会が、もし政権を取ったなら、創価学会を国教とすると思うが、憲法との関連においてどうかと質問したのである。
しかしこれらの質問に対して、政府側は、曖昧な答弁を繰り返した。
国会では、創価学会・公明党による言論・出版妨害事件についての批判のなかで、創価学会・公明党の体質にかかわる問題として、国立戒壇の問題が浮上したが、これは、日蓮正宗を国教とし、国会の議決によって国立戒壇を建立することが政治進出の目的である、というかつての創価学会の主張が憲法違反ではないかという疑難だった。
このように、戒壇建立という日蓮正宗の教義にかかわる問題が、憲法との関連にからめて国会で議論されるようになったのである。ただし、国会では国立戒壇についての踏み込んだ議論がなされたわけではなく、むしろ国立戒壇についての批判は、共産党機関紙『赤旗』等において、創価学会・公明党批判のキャンペーンの一環としてなされたのである。
こうした状況のなか、浅井妙信講は、この時とばかりに立ち上がり、昭和四十五年三月二十五日に講頭・浅井甚兵衛、本部長・浅井昭衛の連名で、『「正本堂」に就き宗務御当局に糾し訴う』を早瀬道応日蓮正宗総監に提出し、第一回正本堂建設委員会での日達上人のお言葉は、正本堂が「事の戒壇」であることを否定しておられる如くであると主張し、また宗務院は正本堂を「事の戒壇」と承認するか否かを質問し、またそれまでも妙信講は国立戒壇を標榜していたが、この時初めて事の戒壇は本化聖天子の発願によるもので天母山に立てるべきだと主張したのである。
その後、創価学会の代表者と浅井甚兵衛・浅井昭衛との間で、正本堂や戒壇の意義について数十回にも及ぶ遣り取りがあった。
しかして最終的に、日達上人は、正本堂が建立された昭和四十七年の四月二十八日の「訓諭」において、
正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり(大日蓮・昭和四七年六月号二頁)
と、正本堂は池田大作が執着するそのものズバリの御遺命の戒壇ではなく、以後の広布の進展を鼓舞しつつ、戒壇の大御本尊御安置の現時における事の戒壇であることが示されたのである。
そして、昭和四十七年十月一日に正本堂が完成し、十月七日に戒壇の大御本尊が正本堂に御遷座され、十月十一日から十七日まで落慶大法要が奉修されたのである。そうした中、浅井昭衛は、九月三十日に開催された総幹部会での席上、
「御遺命の正義は守られました。妙信講の御奉公はついに貫き通されました」「御遺命の正義がつらぬかれたならば、他に求める何ものもない」
と発言し、十月十一日付の「御遺命ついに曲らず」と題した記事を機関誌(『冨士』昭和四七年一〇月号)で報道したのである。さらに浅井昭衛は、十月二十二日、
「正本堂は立派に完成いたしました。そして、法義的には妙信講の必死の諫訴により、辛じて、未だ三大秘法抄・一期弘法抄の御遺命の戒壇ではないと訂正はされた。そして恐れ多くも大聖人様の御魂であらせられる戒壇の大御本尊様は出御あそばされた」(『冨士』昭和四七年一一月号)
と讃歎したのである。
その後、昭和四十八年五月十一日と昭和四十九年四月八日の二回に亘り正本堂での御開扉を願い出たが、国立戒壇を文書等で主張し、宗門の公式決定に背いていることから宗務院より断られ、叶わなかったのである。