元顕正会員の体験談

顕正会には正義(しょうぎ)も功徳もなかった!私が見てきた欺瞞渦巻く顕正会―① 森本芳美さん

コジツケと圧制で会員をしばる この目でみた顕正会のおかしさ

私が顕正会に入会したのは平成三年のことでした。
その頃の顕正会は、日蓮正宗から破門されてからすでに二十年もの年月が経っており、日蓮正宗や大石寺とは全く関係のない団体だったのですが、勝手に「日蓮正宗顕正会」と名乗っておりました。そして、私を勧誘した人は、「謗法は恐ろしい。日蓮大聖人の仏法でなければ成仏できない。日蓮正宗は七百年以上も続く正しい宗派であり、大石寺は由緒ある正しいお寺だ」と言ってきたのです。私は、その言葉に乗せられ、亡くなった父を成仏させたいと思って、顕正会に入会してしまいました。

当時は、会長の浅井昭衛も「日蓮正宗の血脈はけっして断絶していない」と語り、もっぱら創価学会を責めていましたので、私は、顕正会は日蓮大聖人の仏法を正しく行じている団体だと信じてしまいました。

また、浅井は、期限を切って「中国が攻めて来る」だの「小田原地震がまもなく起こる」だのと、恐怖をあおるような予言を連発するのですが、それらがことごとく外れても、「顕正会の活動がそのような破滅を遅らせたのだ」などとまことしやかに言うものですから、私を含め仏法の道理に暗い会員達は皆、それを信じておりました。

そうした中、私は、まるでゲームで得点を挙げるかのような感覚で、当時経営していた喫茶店の客や、出入り業者、友人、知人を次々と勧誘して顕正会に入会させ、活動にのめり込んでいきました。

当時はよくわかりませんでしたが、今になって思えば、やはり、顕正会には日蓮正宗の教えなどなく、間違ったおかしな団体でした。

たとえば、顕正会では、紹介者が誰であれ、入会後は性別と年齢によって、「壮年部(※現在は無いようですが)」「男子部」「婦人部」「女子部」と所属組織が振り分けられ、その後は一切、他の組織の人とは個人的な接触もしてはならない、という暗黙のルールがあります。

そのため私が入会させた人達のうち、男性や若い女性は、私とは違う組織の所属になって、その後の接触が一切禁じられ、それまでお客さんとして私の店に来ていた人達も来なくなってしまいました。たまに来ても、誰かに監視されていたのか、あとで「森本の店に行っただろう」と幹部から厳しく注意されて来なくなってしまうのです。

顕正会の活動をすればするほど店の客はどんどん減り、生活が苦しくなっていくばかりなので、顕正会の先輩に相談すると、返ってきた回答は「その仕事があなたに向いていなかったからそうなるのです」という、なんとも腑(ふ)に落ちないものでした。

実際、顕正会では、功徳で生活が良くなるどころか、仕事を転々として経済的に安定しない人や、会員同士で結婚しても不倫をしたり離婚する人、あるいは若くして病に倒れて亡くなる人も多くいました。また、会館でよく見かけていた先輩が、ある日突然「出入り禁止」になる、ということもよくありました。もちろん、何があったのかは、私達に知らされることはありません。

幹部になると、毎月、東京の本部で行なわれる会合に出席しなければならないのですが、長い間失業中の幹部が毎月のように東京に行っていましたので、どうやってその費用を捻出(ねんしゅつ)しているのか、聞いたことがあります。すると、その幹部は、「誰にも言わないように」と口止めした上で、「じつは、月々手当が出ていて、飛行機代ももらっている」と明かしてきました。

言われてみれば、いつの頃からか女子部の区長が仕事を辞めて、高知会館の二階に住みついていました。このような人達は、生活のために顕正会に従うしかなくなってしまうのでしょう。

顕正会で見た〝成仏の相〟の欺瞞
姿消したエセ僧侶と女子部長

また、当時の婦人部幹部の母親が亡くなった時のことです。その御遺体は、手も足もガチガチに硬直していたのですが、その幹部は御遺体の頬を突っついて、「ほら、柔らかいままです。成仏しました」と言ったのです。

よく考えてみれば、頬の部分には骨がありませんから、突っつけば空洞になっている口の中に皮膚が凹むのは当前です。それを「柔らかい」などと言っていたわけです。

後に法華講員の方の葬儀で、顔の表情も穏やかで肌つやも良く、手も足も首も自由に動くという、まさに生きている姿そのままの御遺体を目の当たりにした時には、顕正会で言う〝成仏〟とのあまりの違いに、ひっくり返りそうになるほど驚いてしまいました。

また、その当時、顕正会には埼玉県に「顕正寺」という寺があって、村松禎道という似非(えせ)僧侶がおり、高知で葬儀が出ると、東京から飛行機で来て御経をあげていました。
ある年の十二月半ば頃だったでしょうか、私が車で村松氏の送迎を担当することになり、車中で「クリスマスは謗法ではないでしょうか」と質問しました。すると村松氏は、「全然大丈夫ですよ。クリスマスパーティもやっていいですよ。うちの子供もサンタさんが大好きで、ツリーも飾っています」と言いました。

なお、村松氏は、カツラをかぶって顕正会男子部の会合に出ていた御仁だそうですが、いつの頃からか高知に来なくなって、顕正会からもいなくなり、葬儀の時には、地元の幹部が導師もどきをやるようになりました。「顕正寺」も、平成十五年五月には「典礼院」として建て替えられ、寺院ではなく納骨堂になっています。

また、当時は加藤礼子女子部長が、たびたび高知に来ていました。しかし、加藤女子部長の話は常に一方的で、疑問に思ったことを質問しても、「浅井センセーがそのように言われているから、そうなんです!」「先生は絶対だから、先生の言葉のまま信じなさい!」の一点張りでした。会員に何か不幸な出来事が起これば、〝罪障消滅した〟ということにすり替え、最後はいつも、「何があっても大聖人が御照覧です」で終わらせるのが常でした。

その加藤女子部長も、平成二十年頃の会合の席上、壇上で普通に話すことができなくなって姿を消し、いつのまにか亡くなって、密葬でひっそりと葬られた、とのことです。

また、顕正会の金集めも、会員達を苦しめていました。年に一度の「御供養」と称する資金集めでは、常に上限の八万円を要求され、『顕正新聞』も、末端の幹部は毎年、前年の二〇%増しで定期購入させられるため、家の中には配る予定もない新聞や浅井の書籍や録画テープが溢れかえっておりました。

そうした、普通に考えれば理不尽なことでも、顕正会という組織の中にいると、「そんなものか」と思わされてしまうのですから、本当に異流義の害毒は恐ろしいと思います。

「会館の新しい本尊は、どこか変?」 口にした途端〝出入り禁止〟に

顕正会は、平成八年十二月に「日蓮正宗顕正会」から「冨士大石寺顕正会」に名前を変えました。今にして思えば、日蓮正宗から破門された団体が「日蓮正宗」や「大石寺」を名乗ること自体が詐称であり、恥知らずもいいところだと思いますが、平成十年に総本山大石寺の正本堂が解体されると、今度は、「正本堂が取り壊されたということは、顕正会の諫(いさ)めが通じたということだ。これからは顕正会の会員も大石寺に登山できるようになる。幹部は常住御本尊様をいただけるようになる」と盛んに宣伝されました。

私もその話を聞いて胸が躍るような気持ちになりましたが、しかし、待てど暮らせど、いっこうに大石寺に登山できる気配はありません。

だんだんと不信感が募る中、突如、高知会館の本尊が、別な本尊に交換されました。新たに入った本尊は、見た目にも真新しく、しかも紙の色がやけに白くて安っぽい感じのするものでした。

私はそれまで、「顕正会の常住御本尊は、松本住職(昭和五十年当時、顕正会に荷担して日蓮正宗から擯斥〔ひんせき〕された、元妙縁寺住職)から何体か託されたもので、その一つが高知会館に安置された」と聞いていましたので、あまりの新しさと安っぽさに、「これはどう見ても変ではないか」と思い、そのことを顕正会の先輩に話しました。すると、その直後、私は顕正会から一方的に「出入り禁止」を言い渡されてしまったのです。平成十一年の夏のことでした。

この時、会内には「森本と会ったり話したりすると、地獄に堕ちる。今後は絶対に接触しないように」というお触れが出ていたそうです。
今、思い返すと、顕正会は本当に嘘とゴマカシにまみれ、また、会員同士が常に監視し合ってピリピリした空気が漂っていた組織だったと思います。

結局、私は八年間にわたる顕正会の活動で罪障を積んだ結果、喫茶店は閉店せざるを得なくなり、生活のために始めた生命保険の仕事では、任された職務を全うできずに社内の組織をつぶしてしまったり、私生活でも判断力が狂ったというか、カードで次々と買い物をしてはローンの支払いに追われたりと、経済的・精神的に余裕のない日々を送るはめになってしまいました。

そのような中の平成二十二年の初め頃、たまたま買い物に行ったスーパーで、顕正会で一緒だった明神さんにバッタリ会いました。嬉しそうに話しかけてくる明神さんに対し、私は、彼女がまだ顕正会員だと思い、「出入り禁止になった私と会ったことがバレたら、大変なことになるんじゃないの?」と言うと、明神さんは「私も顕正会は辞めたから」と言ってきたのです。
(つづく)

(令和4年3月16日号『慧妙』より転載)