顕正会に在籍していた当時(昭和51年~平成16年)の私は、顕正会で発行する『冨士』と『顕正新聞』のみが真実を伝えている、と信じておりました。中でも、『冨士』の別冊として出版された『御遺命守護の戦い』(『冨士』第250号)と『顕正会の歴史と使命』(『冨士』第348号)を熟読し、宗門と国を救うのは顕正会以外にはない、と盲信していたのです。
ところが、この二冊に記載されていることの大半が、捏造と歪曲で作り上げられたものであり、真実とは程遠いものだったのです。顕正会本部は、顕正会の発行物以外の書籍を顕正会員が読むことを嫌います。それどころか最近では、昔と今の自語相違が発覚することを恐れ、過去に顕正会で発行した機関誌『冨士』ですら、読むことを禁じています。これでは、顕正会員が真実を知ることなど、まず期待できません。
以下に、浅井昭衛の捏造・歪曲の実態を明らかにすべく、その一例として浅井が記述している「顕正会の発足」と「昭和四十七年七月六日、妙縁寺のお目通りについて」を取り上げてみます。
会員あざむ欺く「顕正会の発足」
まず、顕正会の発足の歴史について、浅井昭衛は『顕正会の歴史と使命』に、おおむね次のように述べています。
〝顕正会は、昭和三十二年の発足以前は、東京池袋の法道院に所属していたが、法道院の住職は、広宣流布への道念がなく、信徒はただの金集めの道具にしかすぎなかった。寺院経営と僧侶の世界での栄達だけを見つめているような職業的感覚に、我々は耐えてきた〟〝我々の純粋な信心を御覧になった日淳上人(当時の御法主上人)が、法道院住職の反対を押し切って、妙信講(顕正会の当時の名称)を妙縁寺所属の講中として正式に認証してくださった〟(『顕正会の歴史と使命』30~32頁・趣旨)
と。
しかし、これは全くのウソだったのです。私が調べた真相は、概略、次のようなものでした。
浅井昭衛の父である浅井甚兵衛は、昭和五、六年頃に法華講員として入信しましたが、生来の慢心と我がままから講中を乱すような行動をとるようになり、注意されると逆恨みして勝手に所属寺院を飛び出し、寺院を転々としました。そして、最終的に目を付けたのが、当時、御主管の陣頭指揮のもとで一致団結して折伏を進めていた、東京池袋の法道院でした。そこに、浅井甚兵衛以下十名ほどが加わることになったのです。
法道院の法華講は折伏に次ぐ折伏でどんどん大きくなり、加えて、急成長していた創価学会員も参詣してくるため、その人達を収容するために寺院は増築を重ね、昭和三十二年には二階の建造が計画されました。すると、この計画に目を付けた浅井父子が、御主管に対し、「僧侶に金を任せておけない。増築にあたっての会計一切を自分達にゆだねろ」とインネンを付けだしたのです。この頃、浅井甚兵衛は法道院で講頭にまで登り詰め、主な役職も浅井一族が占めていました。そして、この機に、自分達が御主管の上位に立とうとしたものと思われます。
むろん、御供養に対して云々することは、信徒としてあるまじき行為です。御主管が浅井父子の申し出を一蹴したところ、あろうことか、浅井父子は、「住職が庫裡(くり)を増築するために大金を集めようとしている。今は、寺ばかりをよくする時ではない。広宣流布の戦いの方が先ではないか」と、問題点を巧みにすり替え、講中に宣伝し始めました。
しかし、こうした不埒(ふらち)な策謀が受け入れられるはずもなく、浅井父子らは完全に浮き上がり、ついには法道院から出ていかざるをえなくなったのです。
この真相を知ってみれば、浅井昭衛の言う、〝法道院の住職は、広宣流布への道念がなかった〟だの、〝信徒はただの金集めの道具にしかすぎなかった〟だの、〝住職は、栄達だけを見つめているような職業的感覚だった〟などということが、いかにウソッパチであるかが歴然とするではありませんか。むしろ、広宣流布よりも我が身の栄誉栄達に身をやつし、金に執着していたのは、他ならぬ浅井父子だったのです。
また、〝浅井父子の純粋な信心を御覧になった日淳上人が、法道院住職の反対を押し切って、妙信講を妙縁寺所属の講中として正式に認証してくださった〟というのも、浅井昭衛の作り話で、実際は、浅井父子について出ていってしまった人達の信心を心配された法道院御主管が、日淳上人にお願いして、妙縁寺へ所属替えができるようにした、というのが真相です。
日淳上人も、度重なる浅井父子の不祥事をよくご存じだったので、また妙縁寺でもトラブルを起こしてはいけないと考えられ、既存の講中に入れるのではなく、最初から別な単独講中の〝妙信講〟として認可されたのです。日淳上人が浅井父子を信用されていなかったことは、講中を認可する際、指導教師として妙縁寺の住職であった松本日仁(後に擯斥)だけでなく、法道院御主管も加えて、異例の二人態勢にされたことによく現われている、といえるでしょう。
「猊下の御内意」も捏造
なお、日淳上人が指導教師二人態勢にされたことについては、浅井昭衛は講員らに隠しており、現在に至るまで一言も触れていません。このように、自分の野心に都合の悪いことは、御法主上人のお言葉であっても勝手に曲げたり隠したりする一方、都合のよいことだけをとり出して会員支配の具として用いるという性癖は、当時からの常套手段でありました。
たとえば、昭和47、8年当時、創価学会の発願による〝正本堂〟が総本山に建立された時、浅井昭衛は「大聖人御遺命の〝事の戒壇〟は、広宣流布の暁に国立で建立されなければならない。日達上人は、創価学会の圧力に屈して、正本堂を〝事の戒壇〟と言った。御遺命に対する違背だ」と主張して、宗門に激しく反発しましたが、この時、彼は講員(会員)に向けて、「日達上人は、本当は正本堂を〝事の戒壇〟とは思われていない。創価学会に懇願されて、仕方なく言ったのだ。自分は、日達上人からその御内意を聞いた」(趣旨)と言っていました。
ところが当時、この浅井昭衛の言について、日達上人は法華講員全体に向けて、「浅井は、私が言ってもいないことを、言ったと宣伝しているようだが、じつにけしからんことである。私が、一講中の講頭のみに、そのようなことを言うはずがないではないか」(趣旨)と仰せられていたのです。
私は、それまで浅井昭衛の言葉を信じていましたから、宗門側の発行物からこの日達上人のお言葉を見つけた時は、本当にショックを受けました。このように、御法主上人のお言葉まで捏造し、顕正会を正義に見せかけ、会員を欺くという、浅井昭衛の手法は、昨日今日に始まったことではないのです。
そして、浅井は、その真相がばれないように、寺院や他の法華講との隔離を完全に行なうとともに、自己の神格化につとめました。そのために邪魔になる法道院以来の有力幹部を次々と陥れて排除して、浅井の独裁を強め、組織を私物化していったのです。今の顕正会組織に不信を抱く人ならば、これが浅井のやり口であることは、よくわかるのではないでしょうか。
「訓諭」と「妙縁寺のお目通り」の真相
浅井はまた、「昭和47年6月7日、妙縁寺のお目通り」について、『顕正会の歴史と使命』(83頁)に、日達上人のお言葉を悪用して次のように記述しています。
「(日達上人は)『今日、私は死ぬ気で来ている。下着も取り替えてきている』と、いきなり言われた。妙信講の護法の赤誠を幾度も欺いたことは、細井管長(※日達上人のこと)が一番よく知っている。その後ろめたさが、この言葉となったのでしょう。
そして『このような気持ちで来ているのだから、何とか……』と、事態の収拾をしきりに求められた」
と。
浅井は、昭和47年4月28日発布の「訓諭」の写真を載せていますが(『顕正会の歴史と使命』77頁)、それは全文ではなく、後ろ半分を故意にカットして掲載しています。そして、訓諭に誤りがあるかのように見せ、〝日達上人に訓諭の訂正を迫り、猊下が訓諭の訂正ではなく内容を打ち消す文を『大日蓮』に載せる約束をした〟というストーリーに仕立てています。事実の歪曲もここまでくると、やはり、浅井昭衛は悪知恵にたけた、特殊な才能の持ち主、といわざるをえません。
まず、『顕正会の歴史と使命』に掲載されている訓諭の写真で、カットされている後半部分は以下のとおりです。
「但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。然れども八百万信徒の護惜建立は、未来において更に広布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし。宗門の緇素よろしく此の意義を体し、僧俗一致和衷協力して落成慶讃に全力を注ぎ、もってその万全を期せられんことを。
右訓諭す。
昭和四十七年四月二十八日 日蓮正宗管長 細井日達」
こうして訓諭の全文を拝すれば、日達上人は、正本堂を広宣流布達成の暁の事の戒壇である、などとお考えになっておらず、浅井昭衛の主張がでっち上げであることがよくわかると思います。そして、この訓諭が発布されてから浅井昭衛の狂気ぶりは勢いを増していくのです。
宗務院のみならず、直接、日達上人に対して、脅迫内容の文書を何度も送りつけたのです。その内容を総合するならば、「自分達はついに仏法守護のための刀杖を持つに至った。自分達の主張を通さなければ、非常手段に訴える。その時は流血の惨事が起きる。その対象は宗務当局と学会である。そして最後は自分達も死ぬ」(要旨)というものでした。
これは、もはや議論ではなく脅迫です。何とか〝猊下の御内意〟などと称して日達上人の権威を借りて、自分達の偏見を通そうとし続け、それが叶わぬと見るや、今度は、脅迫に出たわけであります。口では、大聖人の御遺命を守るとか、猊下の御本意を実現するなどと言いながら、実際に行なっていることは、自らの偏見を通すためには手段を選ばぬという、異常きわまりないものであります。
こうした経緯の中で、まかり間違って不祥事が起きたら、大聖人に対して申し訳がない、とお考えになった日達上人が「私が会って説得してみよう」と深い御慈悲を示され、昭和四十七年七月六日に妙縁寺まで御下向くださったのです。
日達上人は、御一身を賭しても宗内の不祥事を何とか未然に防ごう、という御決意に満ちておられました。周囲の方々に、「私はいつ死のうとよい。その覚悟は法主の座に着いた時からできている。しかしながら、思いつめて狂気のようになった者達を思い止どまらせるためには、ある程度、包容してやらなくてはならない」と仰せられていました。
そして、「私は法主として信者を信じたい。浅井はわからず屋だが、御本尊を受けている以上、胸の底のどこかに、令法久住、宗門を思う気持ちがあるはずだ。私が誠心誠意話せばわかってくれるだろうと期待する」と、まことに海のように広いお心で臨まれたのであります。
日達上人の浅井父子に対する説得の内容は、この時、お伴(とも)をした四人のうちの藤本庶務部長(現・藤本日潤尊能化)が将来のために細かく記録をとっていました。これによりますと、対談の要旨は次のとおりです。
日達上人は、法門の上から、また世間の道理の上から、辛抱強く浅井父子を諄々と説得されました。しかし、浅井父子は聞こうともせず、「盗賊、奸賊はのぞかねばならぬ。刺客となり、刺し違える」などと口走り、「大聖人は、由比ヶ浜で首を刎ねよなどと申されているではないか。三島由紀夫だって主義主張のために生命を投げ出した」などと非常識な言葉を続ける始末でした。
さすがに日達上人も色をなされ、「私がやめてくれと言っても聞けないのか」「訓諭は私が私の責任で出した。それが原因であなたが人を殺すと言うなら、まず私を殺してほしい。私が責任をもってやっていることだ」「他の誰の圧力でもない。皆を責める前に私を責め、皆を打擲(ちょうちゃく)する前に私を打擲しなさい」と語気するどく言われ、筆と紙を取り寄せ、辞世の句をしたためられました。そして、それを浅井に渡された上で、「これは私が昨夜作ったものだ。下着も全部取り換えて来ました。さあ、私を突くなりどうでもしなさい」と、浅井父子を見据えられたのです。さすがに浅井父子もシュンとしてうなだれ黙り込んでしまい、しばらくたって「返す言葉もありません」とつぶやくように言ったのであります。
昔から続く会員洗脳の常套手段
こうした、当時の貴重な記録を読ませていただき、また、当時を知る方々の証言を伺い、日達上人と日顕上人の御指南を真摯に拝するならば、当時の宗門が、広宣流布をめざし僧俗一体となって、皆で昼夜を問わず汗を流し、御奉公の赤誠を尽くしていたことは明らかであります。浅井昭衛が言う「宗門が学会の圧力に屈して御遺命を捨てた」とか、「学会の金に目がくらみ、宗門は学会の操り人形に成り下がった」などというようなことは全くなく、下劣な浅井昭衛の作り話であったことがわかります。
浅井昭衛は御宗門を批判して、「天を地と言い、白を黒と言いくるめる卑劣極まりない姿」と、総幹部会で声高に言っておりましたが、その言葉はまさに浅井昭衛自身に当てはまる言葉ではないでしょうか。浅井昭衛は、数え上げればきりがない嘘で顕正会員を洗脳し、さらに真実に触れさせないよう心理操作をします。そして、顕正会員に正法正師を憎ませ、広宣流布の邪魔をさせる――これが魔の所業でなくて何でありましょう。
浅井昭衛(顕正会会長)の品性下劣な正体
会員を見下す態度に愕然
顕正会員には、「大聖人に弧忠(こちゅう)貫く無二の師匠」と言わせ、集会等で皆に伏せ拝をさせる浅井昭衛は、ハッタリとずる賢さに長(た)け、金銭への執着心が強く、嘘を平気でつける、下品で卑劣な男です。この男の傍にいると、自ずと気分が悪くなるばかりか、人間不信に陥りかねない程でした。
当時、主任理事であった浅井の長男・克衛が、浅井昭衛に忠誠を尽くす意味について話をしたことがありました。その主旨は、「自分たちが逆立ちしても、大聖人に直接忠誠を貫くことはけっしてできない。だから、大聖人様に対し弧忠貫かれる先生に忠誠を尽くし、その忠誠心が、先生を介して大聖人に通じるのである」というもので、大聖人に忠誠を誓えるのは会長ただ一人だと、会員に刷り込み、思い込ませ、服従させるのです。
かつて、会の中で身に覚えのない罪を着せられ詰問された幹部が、「大聖人様に誓ってそのようなことはありません」と勇気を出して浅井昭衛に反論した時、「気安く大聖人と言うな!」と一喝され、「おまえ達に私の真似(まね)ができると思っているのか!!」と罵られました。このような言葉で会員を恫喝(どうかつ)できるとは、完全に会員を見下しているとしか、言いようがありません。
会員を見下しているといえば、大宮の本部会館で行なわれた初めての日曜勤行終了後、表玄関から出てくる大勢の会員を見て、浅井昭衛が「うぉ~!ウヨウヨいるな」と、いやらしい笑みを浮かべながら、まるで虫か蟻でもいるかのように言い放ったのです。それを間近に見た時、「え?いま、会員のことを何て言った?」と、頭の中が「?」でいっぱいになったのを憶えています。
表の大言壮語と裏の本音
顕正会員は、「会長は、私達を守ってくださる」「地震や災害で被害を受けても、私達一人ひとりのことを真剣に考えてくださっているから大丈夫」等と、浅井昭衛の虚像を本気で信じています。
大宮に本部会館を建てた直後のことですが、浅井は「朝鮮半島で動乱が起きた時、北朝鮮の武装難民が大挙して日本海を渡り、新潟・北陸方面に上陸する」とか、「大地動乱の時代に突入した。いつ、どこで大地震が起きてもおかしくない」等と得意の演説を繰り返しながら、「その時は、この新本部会館に逃げてきなさい」「水はある。食べ物もある。この新本部会館は、あらゆる災害に対応し、万全な準備をしてある。安心していらっしゃい」と、まるで会員の命を守るために建てた、日本で唯一のシェルターであるかのような大宣伝を繰り返していました。
これを聞き、当然、その気になった会員は大勢いました。しかし、その後、本部会館一階大会議室で「災害対策委員会議」なるものが開かれ、そこで、またもや浅井昭衛の正体を見ることになりました。
なるほど毛布・乾パン・レトルト食品・防災用グッズ等、いろいろと揃えているようで、浅井昭衛からも「顕正会では、いざという時のために、これだけのものを用意してあると、皆に伝えてほしい」との話がありました。しかし、ここで全会員を収容するにしては、明らかに絶対量が足りない、と感じたのは私だけではなかったはずです。
そして、さらに浅井昭衛から、驚くべき発言がありました。
「皆が本部会館に避難してきても、水はたっぷりある。これは心配ない」
「休むところは、男子・壮年は公園で野営。女子・婦人は会館内」
「食事は、朝・夕一人おにぎり二つ。三日分でよい」
「多く出して住み着かれては困るからな。あっはははは」と。それを聞いて、当時の総合女子部長と婦人部長も、楽しそうに大声で笑っていました。
「安心して避難してきなさい」と言いながら、「公園で野営」「食料はおにぎり二つ」「住み着かれては困る」等と、高笑いしながら言い放つ姿に、やりきれない気持ちが込み上げてきました。
たとえば、新潟の顕正会員が交通機関マヒ状態で、埼玉の本部会館にたどり着くのに何日を要するのか?やっとの思いで本部会館に着いても、そこで待っているのは……。人を馬鹿にするのもいい加減にせよ、と言いたい。その後、私は座談会等で「いざという時のために、自分達のための準備は自分達でしよう!」と、話して歩きました。当然のことです。
古参幹部達の哀れな末路
また、話は変わりますが、何故、顕正会には古参幹部が現役で残っていないのでしょうか。浅井昭衛が言うように、大聖人様の御遺命を死守した唯一の団体が顕正会だけで、ただひたすら大聖人仰せのままに五十有余年、正しく進んできた、というのなら、妙信講解散当時、血判状に名を連ねた幹部達は、その後どうなったのでしょうか。学会本部襲撃に参加した当時の男子部員は、現在どうなっているのでしょうか。浅井に言われるまま、顕正会に人生の全てを賭けてきた人達は、その後どうなったのでしょうか。
ある時、古参幹部の一人で、大阪を中心に活動していた当時の大塚地区部長A氏(総務兼任)が、突然の病に倒れた時のことです。私は、「何故、妙信講時代から頑張ってきた人が…」と驚いたのですが、愕然としたのはその後の展開です。
浅井は、突如として、A氏の大阪での活動実績を否定し、さらに、そこで贈収賄の不正があった(そもそも、宗教団体の末端組織で、いったいどのような贈収賄があるというのでしょうか!?)などと言い出し、病気で倒れたことは「当然の罰だ」と決め付けたのです。
この一例からもわかるように、浅井昭衛は、顕正会一筋に人生を重ねた古参幹部が、病に倒れ、経済苦に陥り、家庭崩壊を招いている姿を、新しい会員に知られたくない、真実を新しい会員に気づかれてしまうのを恐れているのです。
同時に浅井昭衛は、古参幹部が表舞台に出ることを嫌います。何故かといえば、古参幹部は正真正銘の生き証人だからです。
たとえば顕正会では、御宗門で行なわれている御開扉を「不敬」などと盛んに言っていますが、顕正会が宗門の一講中・妙信講だった頃は、「皆で登山して御開扉を何度も受けた」との話を、私も古参幹部から幾度も聞いています。
その他、学会本部襲撃事件に加わった本人達の生々しい証言が、浅井昭衛の記述と全く食い違っていること等々、「古参の人間に余計なことを言われてはかなわん」というのが浅井昭衛の本音なのです。
ですから浅井昭衛は、第一線にいる古参幹部の言動にはそうとう神経を使い、婦人部や女子部を使って情報収集をしていました。そして、役職から外すきっかけを見つけ出すや、今までの態度を豹変させ、古参幹部をとことん追い詰め処分するのです。そのやり方は、「えげつない」の一言です。
金集めに利用される会員達
広布御供養と称される十二月の集金(本来、在家だけの団体である顕正会が「御供養」などと称すること自体に問題があります)も、「上限は八万円。それ以上は受け取らない」と言いながら、出せば喜んで受け取ります。私自身も八万円以上の金額を出していましたし、相続した遺産や満期になった保険金を、全て顕正会に収めた会員も少なくありません。
また浅井昭衛にとっては、顕正新聞の購読料も、大事な財源の一つです。浅井の次男で、宗教法人顕正会の現代表である浅井城衛が、男子部幹部時代、「顕正新聞の購読料も第二の御供養だから、部数はけっして減さないように」と言っていましたが、もちろん、これも浅井昭衛の意を受けての発言です。
浅井城衛直轄の四国の隊がありました。「誓願」の名のもとに、一人で百部以上の顕正新聞をとらされ、サラ金で多額の借金をして購読料を支払っていた部員が、座談会で私に相談をしてきました。その借金は返済能力の限界を超え、父親からも退会を迫られ、大変悩んでいました。
その部員は、浅井城衛に「利息が膨らみ、返済が間に合いません。枠もいっぱいで、これ以上の借金はできません」と懇願したにもかかわらず、「他で借りられるところを探して、最低でも部数の維持はしろ!」と言われていたのです。浅井親子には、会員の苦しみを汲む慈悲など微塵もなく、顕正会への入金が全てなのでしょう。
多くの会員が、常識で考えても必要をはるかに超えた部数をかかえ、その負担に悲鳴を上げている現状を知り、その相談を受けながら、「第二の御供養だから」と言い捨て改善をしない。この事例は、浅井親子にとっての顕正会員が、ただの金蔓である、という証拠であります。
現役顕正会員の皆さんに申し上げます。「顕正会の活動が日本を救う」などという妄想は捨ててください。顕正会での活動は、個人が不幸になるだけでなく、周りにも深刻な悪影響を与えます。これ以上、自分の人生を浅井昭衛に奪われてはいけません。
日蓮大聖人の仏法こそ最高の教えであると信じ、戒壇の大御本尊様を唯一無二と信じるのであれば、偽本尊を平気で祀り会員の命を食い物にする顕正会を即刻脱会し、一日も早く正義に目覚め、日蓮正宗に帰依されることを強く願います。
この顕正会脱会手記が、多くの人たちの人生を狂わせる浅井昭衛の本性を暴き、騙されている顕正会員を一人でも多く救い出す一助となることを願ってやみません。